05 幸福論討議
せかいの、ひろさ。
喜劇の舞台の中心で踊るように、胸を張り、ドロリア先生は人の失った翼の代わりに両手を広げた。
「幸生学という名は初めて聞いたのですが、先生は幸福について研究しているという解釈ですあっていますか?」
「ええ。専門はそうですが、学問であれば基本的になんでも教えられますよ。空が青い理由も、薔薇に棘があるわけも、紅茶がこんなにも美味しい秘密も、お嬢様が望むのであれば全て」
「そんな教え方でいいの?もっとこう貴族のマナーとか、泥沼のご近所付き合いとか……」
「もちろん、そういった点についても指導しろと依頼主であるあなたのお父様から申しつかっています。ダンスにマナー、語学に、経済。派閥に政治的動向。これでも実家は没落寸前とはいえ貴族の端くれかつ家柄に爪を立ててしがみついてる分世情には詳しいですよ。けど、そんな話ばかりじゃ退屈じゃないですか。勉強っていうものは楽しくなければいけない、が私の持論ですので」
「先生の専攻する幸福についての授業もあるのかしら」
「お嬢様が望むなら。けれど人の容姿が異なるように、幸福の感じ方も人それぞれです。別に幸福になれると壺を押し売りしたりしませんよ」
胡散臭いと疑う心を読み取ったのか、ドロリア先生は肩を竦めた。
「幸生学、なんて名前ですから大抵の人が怪しい新興宗教じゃないかと勘違いされるんです。幸生学は誰かに幸せの概念を押し付ける学問ではありません。誰もが平等に生活の中に確かにある幸せに気づけるように国をよりよくすることを目的とした学問です。今現在は主要5科目たる、社交学、経済学、文学、信仰学、魔法学に劣り注目度の低い学問ですが今後誰もが学ぶべき学問に発展していく予定です」
経済学と文学だけならなんとなくわかるが残りの三科目はかけらも知らない。ファンタジーのアニメか偶像の映画でしか耳にしない言葉たち。
最低当たって欲しくなかった可能性、ここが日本どころか地球上に存在する場所でない線が濃厚になってくる。
私の生まれ育った和の国には宗教の押し付けも、魔法なんて非科学的なものも学ばせる人などいない。貴族なんて立場も封建社会の崩れた世界では耳にしない。華族なんてのもとうの昔に終わった話だ。
過去に遡ったと言う選択も今の言葉で潰えた。歴史のテストの点は平均ぎりぎりだったけれど赤点を取らない程度の知識はちゃんと身についていたことを実感する。 子供はいつだって「こんなの大人に出たって使わないじゃん」なんて大人にもなっていないくせに嘲るがやはり教育には意味があったのだ。
ごめんね、担任だったロリコンと噂の竹田先生。貴方の常日頃の口癖だった「学びは必ず生きる」は本当だったわ。でも文句を言うなら異世界に飛ばされた時の対処法も学校のカリキュラムできちんと教えてほしかった。でも結局学んでないことが求められているわけだから、学校の学びは生きていないとも取れるわね。
やっぱり駄目だわ竹田先生。貴方の教えは役に立たないわ。
それにしても、
(幸福、ねぇ……)
幸福を口にするのなんて、どこかの怪しげな神を祀る教祖様若しくは票集めに必死な政治家くらいかと思っていた。
この人はどちらなのだろうと考えて、第三のパターンである「人を幸せにしたい」自分に酔った善人だったらタチが悪いと男を採点する。微笑みを携え、男は確約されていない未来を謳う。一歩間違えれば完全な詐欺師だ。
これが不細工だったら多分街の人も彼の言を一蹴しただろう。結局顔がいいから不審者ではなく理想家のラインを超えずに済む。その顔面に産んでくれた親にドロリア先生、貴方はもっと感謝すべきよ。毎日起きて祈り、昼食を食べて祈り、寝る前に祈ったとしてもバチは当たらないわ。
だから私は生徒らしく、先生に疑問をぶつける。
「幸せに気づかせてどうしたいの?」
「そりゃもちろん!幸せだと国民全員に笑ってほしいです。特に女の子に!」
ボンッキュボンの美女はマストで!
歪むことない女性への想いの強さに隠されたしたかかな思想を突く。
「先生の言う幸福とは何かしら?」
私は畳み掛けるように返答を待たずに言葉を紡ぐ。
「衣食住が約束されていること?なら金持ちはみんな幸せかしら。家族に愛されていないけれど貴族に生まれたライア・パパラチアはあなたが言う幸福な人かしら。それとも反対に家族に愛されていることが幸せ?なら飢えて死を待つ子供でも親の愛があれば未来はなくとも幸せなの?そして先生曰く私は世界の広さを知れば本当に幸せになれるのかしら。そこがたとえ二度と出られない籠の中でも」
「人によって幸せは異なります。私は幸せだと思える人生を送れる選択肢を国民全員に与えたい。可能性と言い換えてもいいでしょう。極論ですが私は笑って死ねるかどうか、その答えに私たちの学問の結果が現れると感じています」
なるほど。死する前の後悔を上回るほどの幸福があれば、結果として幸福だとするのか。
天秤に二つを乗せ、傾いたほうがどちらかでその人の人生がどうだったか可視化する。確かに津波のように襲いくる後悔を乗り越えてそれでも最後に笑って死ねるのならそれは確かに幸せな人生と呼べるものなのかも知れない。
私はきっと、笑いながら死ねる。
どれだけ不幸でも、惨めな死でも、悔いなく終われる。
実際に死んだのか、それとも死ぬ前にこちらに飛ばされたのか。
どちらかはわからないがそれでも走馬灯がよぎり階段から恨みを込めて突き落とされた瞬間、確かに私は死を覚悟した。私はちゃんと笑えていた。なら私は幸せらしい。
ではライア・パパラチアはどうなのだろうか。
意図したことではないとはいえ、私が殺したも同じ、いなくなってしまった同類の匂いのするまだ12歳の幼い子供は、消える瞬間に何を思ったのか。
私はそれを知らない。
知る術も今は亡い。
「誰もが幸せな社会に一瞬でできる方法を知ってるわ」
私が知る真実を口ずさむように軽やかに告げる。
お聞かせくださいと微笑む家庭教師に私は答えをまとめた回答用紙を読み上げる。
さぁ先生。答え合わせを始めましょう。
「国民全員が「私たちは幸せです」と嘘をつけばいいだけよ。それで皆が幸せな素敵な社会が出来上がり。このマドレーヌを焼くより簡単だわ」
幸福すらも嘘が生み出す。
嘘こそが幸福である。
悪法もまた法であるように、善の反対には悪がある。しかし好きの反対は無関心だといった人がいた。では真実の反対は嘘なのか。
否、歪められた真実こそが嘘なのだ。
勝者が正義であるように、史実が権力に負けたように、人の生き死にの積み重ねすら嘘と真実が折り重なり地層となる。
幸福もまた嘘だ。幸福であると嘘をつけばそれは嘘だ。けれど誰も嘘であることを証明しないのならばそれは確かに真実に成り代わる。奇跡を願わなくても簡単に現実は歪み、祈りを捧げなくとも世界は変わる。
「先生の志を否定するわけではないけれど、理解など私には出来ないわ。けれど私は先生の理想通りに何があっても胸を張ることをお約束しますわ。「私は幸福である」と」
「では、お嬢様にとっての幸福とはなんでしょうか」
「嘘をつくことよ」
誰に理解されずとも、私は確かに知っている。
真実が必ず誰をも救うわけではない。切れ味の良いナイフのように真実はいつだって夢見る人の愚かさを嘲笑いその虚実に突き刺さる。
嘘をついちゃいけません、そう教えた先生が嘘つきだということを大人はみんな知っている。嘘をつかずに生きていける人がこの世にどれだけいるというのか。真実だけを握りしめて生きていけるほど人生は綺麗に舗道されてはいない。
「飢えた子供に明日には助けが来ると告げ、愛に飢えた金持ちにはあなたを愛する人が駆け落ちを考えていると囁くの。望む明日への希望を渡せばそれだけで幸福は生まれるわ。真実を知る絶望を対価とし、けれど彼らはきっと笑ってくださるわーーーありがとうと。先生の言う通り皆笑って死んでくれるわ」
それはきっと、素敵なことで、素晴らしいことで、救いでしょう?
「真実が誰を救うと言うの?角度が違えば世界が変わる、なら本当にしがみつく必要もない。私はこの世界が好きよ。この汚い世界が好き。愚かしくてどうしようもなくて、世界の癌と呼ばれる人間を愛おしいと思うわ。簡単に嘘をつき、騙され、批難して、それでも明日も嘘をつく。私は嘘が好きよ。人の醜い嘘も、優しい嘘も、欲に塗れた嘘も。
嘘をつくのは人間だけなのよ。なら、嘘をつかなきゃ」
人間でありたいのなら。
生存本能よりも悪質で醜悪で汚らわしい人を人足らしめる優れた頭脳の使い道は、きっと嘘をつくためにあるのよ。
そう屋台骨となる持論を展開すれば、ドロリア先生はまるで痛ましい道端で死にかける子どもを憂うように眉を下げているが私は言葉を選んだりはしない。
「無知であることが幸福なのならば、嘘で現実を捻じ曲げることも同じく幸福であるとおもいませんか?」
「……お嬢様は、残酷なお人ですね」
「最高の褒め言葉よ」
「ええ。残酷なまでに、お優しいお人です」
ーーー私が優しい?
「先生の嘘も、素敵よ」
私は満面の笑みを見せたのに、先生は引きつったどこか悲しそうな顔で笑った。その理由は分からなくて、分からないからまた笑った。先生は頭を振ってまた初めましての笑みをべたりと貼り付ける。
「色々脱線してしまいましたね。それでは話を戻しましょう!今日はなんのお話がよろしいでしょうか。空飛ぶ船の可能性の話ですか?それとも城下町にできた新しい服屋の話がいいですか?私は望まれるがまま、お嬢様に真実を告げましょう」
「そうね。……じゃあこの国のことを教えてくださる?」
「この国、ですか?」
子供のように口を開きっぱなしにした大人の姿を見て見ぬ振りするのも子供の役目の一つ、ってね。
「えぇ、私の知らないこの国のことを。私はこの世界の広さも美しさもまだ何も知らないの。今日この世界に生まれた赤子と同じくらいに。教えてくれるのでしょう、先生。この世界の広さを」
「えぇ、お嬢様の望むままに」
ドロリア先生はその場に膝をつき、もう一度私の手をとって小さな口づけを落とした。
「あなたがいつか「私は不幸だ」と言える日が来るように」