03 母のレプリカ
父はわかった。なら母は誰なのか。
次に浮かんだ疑問、その答えもすぐにでた。
玄関の螺旋階段の上に飾られた一等目立つ位置、綺麗なプラチナブロンドの白いウェディングドレスを着た女の肖像画。
天使の愛し子のような柔和な微笑みを携え幸福に染まったその人は永遠に動くことない美としてそこに座していた。
美術というものが評価されるのはただの流れる世界の一部を固定してしまうからだと私は思う。写真が生まれてから誰もが携帯で記憶を記録にしようとするのも同じこと。小さな人の脳みそは取り外して「はいどうぞ」と渡すことができない。だからこそ人は何かに確かな記憶の爪痕を残そうとする。有名な人物の絵画に楽曲、石像、あらゆるものは世界を切り取り蝶の標本のように感情を固定する。
飾られた女性はその笑みを永遠のものとし、哀しむことも憂うことすらできず、ただ描かれた時点のみで生き続ける。
(さすがライアの母親だけはある。ーーー綺麗な人)
「お母様はどのような方でした?」
近くにいた年配のメイドに問う。その重ねた年月のどこかにこの美しい聖女もいたことを願って。
清掃業務を邪魔された老婆はまるで神に信仰を捧げるように胸元に手を当て語り出した。
「まだお嬢様は物心もつかないほどお小さかったから覚えていらっしゃらないかもしれませんが、奥方様は誠実で、穏やかで、嫌味どころか嘘一つつかないまさに天使のような美しいお人でした。その心の清らかさに魅せられたお父様との身分差のある恋でしたが誰もが祝福しておりました」
「身分差?母は貴族ではなかったの?」
「えぇ。奥方様は平民、それも教会の前に捨てられた孤児でしたから。けれど奥方様はまさに聖女のようなお方で民衆からも大変愛されておられました」
(……聖女、ねぇ)
この老婆は遠回しに嘘つきのお前とは違うと言いたかったのだろう。
子供は両親のクローンではないのだから違って当たり前じゃない。生き写しなんて、そっちの方が恐ろしい。蛙の子は蛙でも、天使の子が天使でい続けられるとは限らない。そんな当たり前のことをこの老婆はその人生で学んでこなかったのか。老いることは学ぶことではなかったらしい。
そんな私の達観に気づかない蒙昧な老婆は窪んだ瞳で紙と絵の具で出来たなんとも安っぽい聖女を見上げた。
「病気を患い、辛い闘病生活の末お亡くなりになられてしまいましたがそのような不幸が身に起こっても神を憎まず、人を憎まず、最後まで優しくあられたお強い方です」
「そうですか」
「ご当主様も奥方様を心から想っておられました。だからこそ再婚することもなく今も欠かさず墓標には花を供えられます」
それはまぁ、ライアとは大違いだ。
愛し合った人の胎盤から生まれたところで違う生き物でしかない生き物を愛せるか。答えは出た。
「お母様は、私を愛していましたか」
「えぇ。それはもう、天使のような貴女をとても愛していらっしゃいました」
優しい天の寵愛を受けた女性から生まれたのが狼少女とは、それはそれはさぞがっかりしているのでしょうね。
「ありがとう。仕事の邪魔をしてごめんなさいね」
老婆は残念なものを見るような視線を残してその場を去っていった。
「……マリー・パパラチア」
その絵の隅に刻まれた母の名。
触れても熱のない文字は、それでもどこか暖かく思えた。
「……ごめんなさい」
貴女の大切にしていた宝物は私が壊した。
貴女の子供じゃなくてごめんなさい。
貴女の死を涙ながらに惜しんであげられなくてごめんなさい。
静かに黙祷を捧げる。
本当のライア・パパラチアを聖女と呼ばれた母親が愛してくれることだけを祈った。
✴︎✴︎✴︎
顔を上げ、天使にもう用はないと踵を返して再び歩き出す。屋敷の探検を再開すれば、父の母への愛の深さを思い知ることとなった。
母が愛したという美しい薔薇。
母が好んでいたというお茶。
母が見惚れた画家の作品。
母が孤児たちに読み聞かせしていたという絵本。
(まるで母親と言う名の棺桶ね、ここは)
張り付いた指紋がブルーライトで照らされるように私の目にはしっかりと見えた。気持ち悪いほどにべったりと病的なまでに残され維持された母の思い出。滲んでくるのではなく、明らかに粘着質なその痕跡ははっきり言って異常だ。確かに死者に勝てるものはない。人間の終着点の先に線路はなく、だからこそその先を走るものたちは走る道筋を変えるしかない。彼らは死により自身を不変とする。死が人を殺し、生かし、英雄にする。
誰もがマリー・パパラチアの抜け殻を壊さずにただ眺め続けている。何年も、何年も、可笑しいなんて思いもせずに。花が咲くこともまた飛び立つこともありはしない。それでも彼らはただ抜け殻を愛するのだ。
本当に、反吐がでる。
この世界で誰も私をライア・パパラチアを信じてはいない。
誰もライア・パパラチアを愛してはいない。
嘘つきライアーは狼少年と同じ、嘘をつきすぎて誰にも信じてはもらえない狼少女。
けれど私はそれでいい。信頼なんていらないし、望んでもいない。私はただ私らしくありたい。それがどこの世界でも、誰に罵倒されても、例え断頭台で首を刎ねられたとしても。
私は何も知らない。この国のことも、この場所のことも。
ーーーこの少女の吐いた嘘の数々も。
知らなきゃいけない。ライア・パパラチアという少女を。彼女の嘘の数々を。
そして私がこれからどんな嘘をつくべきなのかを。
あらかた屋敷内を確認し終わり、よし次は庭だと母の肖像画の前の階段を降りていると、やけに玄関付近が騒がしい。何人かのメイドが集まり会話をしていたようだが、私の存在に気づくと休憩中のような気やすい会話はすぐに止んだ。
頭を下げるメイドの声は硬く、職務以上の思いやりは感じられない。
「お嬢様、先生がお見えになられました」
「先生?」
「はい。お嬢様の家庭教師を担当されているドロリア学士です」
「私の家庭教師……」
はじめての来客が学びの師であるとは。
父の思いが透けて見えるようだ。勿論、優しさではなく。
「帰ってもらうことは可能ですか?」
「体調が悪い様でしたらそのようにお伝えします。もちろんご当主様にも」
(つまり、サボったらちくるぞってわけね。)
これは断って次に回してもいい結果にはならないな、そう判断して私は庭の探索を諦めてその場でくるりと純白のワンピースの裾を翻して半回転し、階段を逆に上がり出す。
「二階の突き当たりにあった書庫にご案内して。それから紅茶とお茶菓子もお願いできるかしら。二人分でいいわ」
「はい、すぐにお持ち致します。ですが今日はお庭ではなくてよろしいのですか?机や椅子の準備は既にできておりますのでいつも通りお使いいただけますが……」
「えぇ。今日は夕方から雨が降るそうだから外には出たくないの。私は先に書庫へ向かい、勉強の準備を進めておくからお出迎えはよろしくね」
「……かしこまりました」
「先生、ねぇ」
窓の外の雲ひとつないペンキをぶちまけたようなどこか安っぽく見える青を見上げながら、私はその忌々しいほど誠実な空に目を細めた。