02 ライア・パパラチア
訝しむメイドを他所に、私は姿見の前で固まることしかできなかった。
ちょうどいいとばかりに髪をとかし服を着替えさせたメイドは困惑する私など気に留めない。白いワンピースを着た鏡に映る少女はまさに女神の口づけを受け取った愛し子のように人離れした愛らしさを有していた。
「大広間にて旦那様がお待ちです」
そう告げられて寝室やらを追い出される。唯一の希望だった「ドッキリです!」の看板もなく、どこまでも遠く広く長く繋がる廊下にさりげなく置かれた調度品たち。窓から広がるのはのどかな緑。コンクリートジャングルなんて跡形もない文明を歯車を戻しきった、どこまで知らない場所。
ある日知らない国にスマホも地図も財布もなく置き去りにされた気分。無人島にひとつだけ持っていけるなら絶対燃料の詰まったヘリコプター派(操縦者つき)だったけど実際こういう場面になると違うものね。説明書、今の状況に陥るまでの道筋を示した説明書が欲しいわ。
「……どこが大広間かなんてわからないわ」
「生まれてからずっとここでお暮らしになられてるじゃないですか」
ぼやいたメイドは面倒だと言わんばかりに私の手を引いた。
(本当に知らないのよ、私は)
こればっかりは本当だったのに嘘にされてしまった。まぁいいけどね。
✳︎✳︎✳︎
「遅い」
見知らぬ威厳あるたたずまいの不愛想な男がそう告げた。まぁ、なんて偉そうな態度なのでしょう。
見たこともないほどに長い机。そこに並べられた二人分の豪勢な食事。周りに立つ執事や騎士たちに目をくれず玉子を優雅に口に運ぶ小麦色の髪をしたこの少女の姿に感じる色彩を有した若く見える年齢不詳の男。
恐らくこの男が、
「お父様?」
「……なんだ」
あぁ、やっぱり。
「なんでもありません。遅れてすみませんでした」
しおらしく頭を下げても鼻を鳴らしておわり。なんだこの男。
この可愛すぎる幼女の遺伝子の元であるだけあって確かに顔はいい。顔だけはいい。しかしそれだけだ。
「その歳になってまだ朝食の時間も守れないのか」
「自分の年齢なんて知りません」
「今年12になったと言うのにまだ虚言症は治らないのか」
虚言症、ねぇ。
呆れたとばかりに吐き捨てられた言葉は冷蔵庫の中よりも冷たい。
「知らないものを知らないと言っただけです。人を勝手に病気にしないでいただけますか?」
「相変わらずよく回る舌だな。嘘しかつかないその舌のせいでどれだけ我が家名が汚されたと思っている。そんな世迷い言ばかり言うから嘘つきライアーと影口を叩かれるのだ。それでは社交界で相手もできないだろう」
ライア・パパラチア。
12歳の公爵らしきこの男の娘。
父曰く、嘘つきライアー。
この世界でも私は嘘つきらしい。そっちの方が生ききやすいからなんの問題もないが。嘘つきが嘘つきに成りかわる。これ、わざわざ神様が中身を入れ替える必要なんてあったのだろうか。
改心しろというお優しい御心だったなら無駄としか言いようがない。反省も何もしていないもの。これが私の生き方。それの何がいけないのか。裁くなら閻魔様だと思っていたのに地獄行きでもなく転生なんてこれ、誰にとっての処罰なの。
「はやく席につけ」
「はい、お父様」
髭を蓄えた如何にもな老執事が椅子を引いてくれた。自然と父親と名乗る男と向かい合うことになってしまうが、向けられる視線には温度がない。
当然無言の食事が続く。マナーなんて習ったこともなく、見よう見まねで食事をすれば金属がかちゃりと馬鹿にするように音を立てた。つられて父親の眉も上がる。
「どうした」
「……何がですか」
「マナーだけはしっかりできていただろう」
「それは昨日までの私のことで、今の私にはできません。だってこんな豪華な食事は初めてなんですもの」
「昨日も似たようなメニューだったろう」
父は呆れ果てたようでそれ以上話しかけてくることはなかった。
控える執事やメイド達の雰囲気からしてもわかる。私はここで必要とはされていない子なのだろう。
食事の最中、この身体の少女の血縁者である父ーーーつまり私にとっては赤の他人でしかない男をばれないように観察する。
いい男だ、とは思う。
この屋敷の主人という恵まれた地位に胡座をかいているだけはあって、動きや態度が実にスマートだ。それに着ている服からして恐らくどこか貴族たちの集まる場所でそれなりの地位で働いているのだろう。知りもしない戦果をひけらかす勲章が磨かれたナイフと変わらない輝きを放つ。
背丈もあり、椅子に座っていてもその手足の長さと姿勢の良さがわかる。貴族、否、立ち居振る舞いは軍人のそれに近いかもしれない。
ナイフとフォークを握る手にある潰れた豆と固く曲がった無骨な指はただのお気楽な悠々自適な国民の税を巻き上げ毎日晩餐会を開いてワインとチーズを貪り遊ぶだけの崩落息子ではないと訴える。
短く切られ、オールバックに整えられた髪型のおかげでその瞳の色の綺麗さを遮るものは何もない。ライアは青、父は梅雨の紫陽花を思わせる水を含んだ紫色を両の目にはめ込んでいた。
一人娘の私が12歳だということ、外見年齢から考えても40歳は超えていないだろう。ダンディなおじ様、というよりはイケメンな細マッチョという体格だ。歳を重ねるごとに色気が出てくるタイプの美丈夫。
この天使のようなライア・パパラチアの血縁者であることは確かなようだ。外見的特徴の類似からしても川や施設で拾われた子という線は薄い。
けれどーーー
(実子にしては扱いが悪い)
合わない視線。なのにこちらの行動を監視するように汚点だけを読み取る瞳。
投げつけられる言葉には一切の熱を感じない。面倒な自我の芽生えたロボットを疎むような空気。
誰もライアを気にしない。
誰をライアを心配していない。
誰もライアがいなくなったことに気づかない。
「お父様」
「……なんだ」
「質問があるのですが、よろしいですか?」
「好きにしろ」
では、お言葉に甘えて。
「私はここで何をすればいいのですか」
一瞬、父である男の食事の手が止まる。
しかし直ぐにまた流れるような動きで肉を口に運んだ。
「答えは一つだ、お前は何もするな。お前はただ適度に学び、良い娘であればそれでいい。それ以上のことをお前に望みはしない」
「わかりました」
思った通りの答え。予想通りすぎてつまらない。
「では、最後にもう一つ。今あなたの目の前にいるのは貴女の娘ではないのですがどうしますか」
父は無言で食事を再開する。
「ある日突然異世界の人間の中身がこの体に入ってしまったとしたらどうしますか。私は貴女の知る娘ではないのです」
かちゃり。ナイフとフォークが置かれ、ナプキンで口元を拭いた後、父はご馳走様も言わずに立ち上がりすれ違い側に吐き捨てた。
「貴様はライア・パパラチアだ。それ以上に言うことなどない」
私はなんとか並べられた食事を胃に納め、
「部屋に戻ります」
誰も止めなどしなかった。
もちろん寝室に戻ることなく、探索を始める。どの部屋に戻るかは告げていないのだからこれは嘘ですらない。というかそもそも元の部屋までの道すらろくに覚えてないのだから戻れるわけがない。
片っ端から部屋を開け、中に入る。
父の屋敷ーーーつまり私の家は無駄に広く、けれど豪華絢爛をひけらかしてもいなかった。私から見れば十分の金銀財宝に溢れてはいたが、中世の貴族のように無駄に絵画や価値ある調度品を収集しているわけではないらしい。
空いてる部屋も多く、どことなく人の生活感というものを感じない。埃はなく清掃は行き届いてはいるが、死んだ空気だけがここにある。
「……冷たい家」
偶に仕事中のメイドとすれ違うが皆頭を下げるだけで私と視線を合わせようとはしなかった。仕える僕としてはそれが正しいのかも知れないが、恐らくそれだけでない。
私を無かったもののように扱う、慣れた空気だ。いつの時代もいじめというもののバリエーションは限られているらしい。暴力を振るうか、存在を消すか。言い訳が効くのはもちろん後者のほうである。
この体、つまりライアに信頼がないのもわかった。
広い屋敷。
飢えることない身分。
死に物狂いで学ぶ必要のない生まれ。
欠点を探す方が難しい愛くるしい容姿。
ライア・パパラチアは全てを持って生まれてきたまさに神に愛されたような少女ではあったが、逆に神様以外には愛をもらえなかったらしい。
伸びた雑草のように駆除されることもなく、ただ自由という無関心を与えられ育った少女の吐いた言葉を私は知らない。
窓ガラスに映る、私ではない天使の寵愛を受けた少女に問う。
「貴女は、どんな嘘をついてきたの?」
返る言葉はなく、長く果てのない廊下に疑問は飲み込まれていった。