5:クソくらった俺でも、少しくらいは幸せ噛みしめてもいいですか?
ドアを開けるとそこには……特に変わったことはない様に見える。
このご時世、俺たちの様な未成年がエロ本をコンビニで買ったりなんて出来るわけもないから、昔よくあったエロ本探しをされる心配なんか全くない。
もちろん水洗慈さんがそんなことをする子だなんて微塵も思ってはいないが、懸念があるとしたらそれは……。
「あの……こういうの、好きなの?」
「こういうのって……ああぁ!?」
何と俺のベッドの上には、色とりどりの女性ものの下着。
そのうちのいくつかは見覚えがある。
「あの野郎……!!」
「え?」
一瞬で誰のもので、誰の仕業なのかがわかってしまう。
あのクソ姉……。
俺の幸せがそんなに妬ましいのか。
こないだ彼氏と別れたとか何とか言ってたのを聞いた覚えは確かにある。
だからって、弟の幸せくらいは普通に祝ってくれてもいいだろ……しかも水洗慈さんは別に彼女ってわけでもないってのに。
「あ、こ、これ姉のなんだよ。本当、参っちゃうな……俺の部屋に持ってくるなっていつも言ってるんだけど」
「いつもって……いつもお姉さんが部屋に入ってくるってこと? な、仲いいんだね」
女の子を連れてきて言うことじゃなかった、ということに遅まきながら気づく俺。
そして彼女の表情は何処か暗いものを秘めている様に見えた。
「な、なーにを言っているのかね、このお嬢さんは。そ、そりゃ確かに仲悪くはないけど……」
「でも、うんくんのこと……」
「その呼び方、やめてマジで……そうだ、そうそう。呼び方! 呼び方考えよう」
「え?」
この話題を続けることは、泥沼化してしまうしてしまう危険性を孕んでいる。
そうなれば、せっかく築き上げてきた……とは言ってもそこまで大したものでもないが、信頼関係はたちまち音を立てて崩れてしまうことだろう。
何しろ俺たちは入学してから出会って、付き合い的にはまだ数週間。
しかもただのちょっと仲いいだけのクラスメイトなのだ。
何がきっかけで避けられるかなんて、わかったもんじゃない。
なので俺は、かねてより問題視されていた俺の呼び方について考えることを提案した。
「でも、呼びやすくて納得できる呼び方って、ある?」
「うーん、そうだなぁ……」
チョロい、チョロすぎる。
ちょっと心配になるレベルでこの子はチョロい。
さっきまで姉の下着に釘付けだった彼女の視線は、早くも下着から逸れて俺の目を凝視している。
それはそれでちょっと恥ずかしいのだが、姉の下着なんか見てたって何も得しないし、寧ろ目の毒だろう。
代わりに俺の目で我慢してもらえるのであれば、いくらでも見てくれて構わないと思った。
「うんくん……はダメなんだよね」
「うん、やだ。却下」
「べんくん……」
「ははっ、ぶっ飛ばすぞ☆」
「くさいくん」
「…………」
「ご、ごめん」
俺が無表情で見つめると、ちょっと涙目になってる水洗慈さん可愛い。
大体発想が安直なんだよ。
頭文字から取ろうっていうのが、もう発想としては貧困。
「じゃあ……誰も呼ばなそうだし、名前の後ろから取って、よりくん……とか」
「お、それいい。いいね、水洗慈さんはやれば出来る子だったんだな」
「や、ヤればデキるって……」
「ちょっと待って、ニュアンスが違う様に聞こえた気がする」
俺はそんないやらしい意味を込めて言ったつもりなど毛頭ないが、水洗慈さんはこの状況もあってか盛大に勘違いをしている。
顔が先ほどに比べて三割増し位で真っ赤だし、目が泳いでいる様にも見える。
「わ、私まだ不妊症とかの検査受けたことないけど……」
「待て待て待て。そんな将来設計今からしっかりさせてどうすんの……」
そんなことを口走った瞬間だった。
普段まずあり得ないレベルに丁寧にドアがノックされ、二人ともがびくっとなってドアの方を見る。
「ご飯、出来たよ。もしかして、致してる?」
この上なく空気の読めない、元々なかった雰囲気やらもぶち壊しの姉の声。
水洗慈さんは、はわわわどうしよう、とか何も悪いことしてないのに泡を食ってる。
食うのはこれからの晩飯だけでいいだろうと思うのは俺だけだろうか。
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「いやぁ、ごめんごめん。ないなぁ、って思ってたらあんたの部屋にあったのか、私の下着」
「てめぇクソ姉。白々しいぞ」
「お、そんな口利いていいのかな? お嬢ちゃんの緊張だって、適度にほぐれたんじゃないかって私は思うわけだけど」
「バカか! 違う意味で警戒されたわ!!」
「べ、別にそんなこと、なかったから……よりくん落ち着いて」
階下へ降りて、リビングへ行くとニヤニヤしたムカつく姉の顔。
席について、母が大量のうんこ……もとい晩飯をテーブルに持ってくる。
「で、いつから付き合ってんの?」
「だからちげぇっつってんだろ。二回目だぞ。さっきも言わなかったっけか? その歳でもう認知症始まってるとか、笑えねぇな」
「でも、遠からずそうなるんだろ?」
何となくいやらしいニュアンスを含んだ声で口を挟んできたのは、母だった。
そうなるって、そんな予定は今のところない。
もちろんお互いに憎からず思うところはあるだろうが、だからと言ってじゃあお付き合いしますか、ってなるのかと言えばそういうものでもない気がする。
「べ、べべべつにそんな、お、俺たちそういうんじゃねぇし」
そう思っていたはずの俺が、一番取り乱すという失態。
十二分に意識をしているという、いい証拠だろう。
「でも、さっきお嬢ちゃんだけの呼び方してたよね、よりくん、だっけ」
「てめぇがその名を口にするな。穢れるだろうが」
「もー、むかしはお姉ちゃんお姉ちゃんって言って可愛かった弟が……知ってる? こいつね、昔私と結婚するってずっと言ってたんだから」
「やめろ!! 小さい頃にありがちなエピソードだが、さすがに他人に聞かせるもんじゃねぇだろ!」
「そうだよ、依織……彼女候補のお嬢ちゃんがドン引きしちゃうだろ」
「っていうかいつまでお嬢ちゃんって呼んでんだよ。水洗慈小用子さんだから。クラスで仲良くしてくれてるのは確かだけどな」
話題の切り替え。
こんな姉に求婚していた時期が、たとえ小さい頃だったとは言ってもあったなんてことを、水洗慈さんに刷り込まれてはたまらない。
「へぇ、しょうこちゃん。いい名前じゃないか。親御さんのセンスがいいんだね」
母は水洗慈さんの名前の響きだけを聞いて、そう言っている。
どんな字を書くのか、とかそんなことは微塵も気にしていない。
「どんな字書くの?」
「…………」
空気の読めない姉、再び。
一瞬で水洗慈さんの表情が曇り、何とも言えない空気が流れる。
「ま、まぁどんな字でもいいだろ。ここに水洗慈さんがいる、それだけで十分だ」
「そ、そうだね。あ、ほら食べよう。沢山食べて行きなよ」
珍しく母が気を遣い、水洗慈さんの分を取り分ける。
そして小皿に盛られた料理……まぁ俺の目にはうんこにしか見えない料理を受け取り、表情を固くする。
「? どうかしたのかい?」
「え? あ、いえ……とても、美味しそうだなって」
「そうかい? まぁ、無理するんじゃないよ」
何かを察した様子の母。
ここで俺は、水洗慈さんのことを話すべきか迷ったが、青い顔をしながら頑張って食べている水洗慈さんを見ていると、とてもそんな気にはなれなかった。
「一人でため込んでても、いいことないからね。まぁこのバカが役に立つなら存分に活用してくれていいけど」
「バカは余計だっつの」
「ありがとうございます……でも、食事中にする話じゃないので、食べ終わってから。ご気分を害してしまうかもしれませんので」
「よくできた娘さんだねぇ……おいバカ、お前にはちょっともったいなさすぎやしないか?」
「だから……」
「ほら、お前もとっとと食っちまいな。見た目はアレかもしれないけど、味は折り紙付きだ」
事情知ってんのにそんな言い方ねぇだろ、と思いながらも、努めて料理を見ない様にしながら食べると、やっぱり母の味。
今朝のことを申し訳なく思いながら噛みしめる晩飯は、涙が出そうなくらいに美味い。
「どんなことだかわからないけど、似た様な苦しみを持っているんだったら、二人は本当に分かり合えるのかもしれないね。しょうこちゃん、うちの不肖のバカ息子をどうか、頼むよ」
「やめろっつの。水洗慈さんに迷惑だろ」
「そ、そんなことないよ。私、迷惑なんて、思ってない」
思わぬ水洗慈さんの発言に、場の空気が凍り付く。
ニヤニヤと気持ち悪い笑みを浮かべながら俺を見る姉と母。
顔を赤くして俯きながら、懸命に料理を頬張る水洗慈さん。
そして俺はこの時、どんな顔をしていたのだろう。