1:クソ野郎ども
どうしてこうなった……。
一体誰が、何の嫌がらせでこんなことした?
人生これから、平々凡々と過ごしてきたこの俺が、何で今こんな目に遭っているのか。
「どうしたの、便。早く食べないと遅刻するわよ」
「……あ、ああ……」
不思議そうに俺を見つめる母親。
いつも通りの朝食の一コマであるはずが、どう見てもこれは俺に対する嫌がらせにしか見えない。
まず見た目。
いつもならきっと、一般的な朝食にありがちな白米に味噌汁。
目玉焼きに多分ベーコンとかハム。
一応のバランスを考えて添えられているであろうレタスなんかの、申し訳程度の野菜。
父が商社に勤めていて、そこそこの収入を得ていて母は専業主婦。
食に困る様なことは一切なかったし、俺の上に姉がいるけども、その姉だって苦労なく大学に通えている。
もちろん俺だって公立ではあるもののそこそこの高校に通っているし、奨学金を使ったりということもなかったはずだ。
なのに何故。
何で皿や茶わん、お椀と言った食器類に、俺の分だけ。
「なぁ……何で俺の飯だけうんこなの?」
「……は?」
この朝、俺は母親からしこたま殴られ、父親には可哀想なものを見る様な目で見られ、姉には指を指されながら笑われた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「おはよう、雲黒斎くん」
「苗字をフルに呼ばないでくれって、何度か言わなかったっけ、俺……。おはよう、水洗慈さん」
「えっと、そうだった。ごめんね。それにしても頭のそれ、痛そうだねぇ……もう学校出てきて大丈夫なの?」
悪気なくニコニコしながら話しかけてくる小柄の少女。
俺のクラスメイトの水洗慈さん。
今年同じ高校に入学し、特に接点はなかったはずなのに何故かやたら絡んでくる。
そして彼女の呼んだ雲黒斎……これは俺のれっきとした苗字で、確かに他にこの苗字を名乗っている人間を見たことがないから、相当珍しい苗字なのであろうことは想像に難くない。
とは言ってもこの苗字の持つ響きから連想されるのはうんこ一択。
しかも臭いときてる。
まるで俺たち一家がうんこまみれの家族みたいに聞こえて仕方ない。
しかも何を思ったのか、便と書いてたよりと読ませる、珍妙な名前をつけたバカ親ども。
うんこイコール便だってのに、子どもの名前で遊ぶとかマジで頭おかしいレベル。
水洗慈さんが言った、俺の頭のそれ、というのは包帯のことだ。
別に暗黒龍が宿っていたりとか、不治の病であると噂される中二病にかかっているというわけでは決してなく、これを巻いているのも怪我をしたから、という事実がある。
事の発端は二日前の放課後。
俺はこの水洗慈さんと一緒に今は学校へ向かう道であるこの通学路……河原のすぐそばの土手を歩いていた。
よくあるのかはわからないが、水洗慈さんが俺を食事にでも、と誘ってくれたのだが、その時にタイミングよく……そう、非情にタイミングよく近くの運動場で野球に明け暮れていた少年たちの打球が飛来して、水洗慈さんに当たりそうだと直感した俺は水洗慈さんを庇って、役得だ! なんて思いながら抱きしめて転がろうとした。
するとだな、その打球は俺の側頭部に直撃したというわけだ。
水洗慈さんに怪我がなかったことだけが唯一の救いだったわけだが、俺の意識はその打球の直撃を被って刈り取られた、という経緯がある。
それから俺は一晩意識が戻ることはなく、当然のごとく動転した水洗慈さんが救急車をよんでくれたらしいのだが……カッコ悪いことこの上ない。
翌朝目覚めて、脳に異常はなく打撲だけで済んだこともあって、帰宅を許されはしたがその日俺は高校入学から初めて学校を休むことを余儀なくされた。
「まぁ、大丈夫と思う。こんな包帯だって、別に必要ないのにな。みんな大げさなんだよ」
「ダメだよ!! 頭の怪我は、今何ともなくたって後々何かあったりすることだってあるんだから!!」
「え、あ、は、はい……というか近い……」
眼前。
まさにあと数センチで接触してしまいそうな距離まで顔を寄せて喚く水洗慈さんに、俺は思わずドキリとして目を逸らす。
そして彼女もついつい熱くなってしまった、と反省したのか即座に俺から離れた。
「ご、ごめんね……でも、私を庇ってそうなっちゃったから……」
「い、いいんだって。それにその……頭の怪我よりもっと重症なことがあったから」
「え、何それ。何があったの? どういうこと!?」
離れたばかりの彼女から目のハイライトが消え、再び俺は詰め寄られる。
普通にしてれば可愛いのに、何でこうなったのか。
そして俺は、重症だなんて口を滑らせてしまったがこれを誰かに話したところで、誰に理解してもらえるのか、と思い至る。
「えっとあれだ、まぁ……っとぉ!! 時間!! 水洗慈さん、遅刻しちゃうから早く行こう!!」
「え!? あ、ちょっと!! ……逃がさない」
こうして俺たち二人は……というか俺は、狂気に満ちた表情に彩られた水洗慈さんに追いかけられ、命からがら逃げだす様な構図で学校へと急ぐこととなった。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「ふぅ、ギリギリセーフ」
ヘッドスライディングで教室内へと仲良く滑り込んだ俺と水洗慈さん。
朝礼はまだ始まっておらず、二人仲良くヘッドスライディングで教室へ滑り込んできた俺たちを見て、教室内が沸き立つ。
「お前ら、本当仲良いよな。何で付き合ってねぇの?」
席につくと、前の席に座るクラスメイトの皮被乃起男が早速の冷やかしをくれる。
このクラスになってまだ一か月も経過していないが、俺に声をかけてくる水洗慈さんを見てからずっと、この調子だ。
「お前は他に言うことないのかよ。俺の頭見て心配するとかさ」
「何で俺がお前の心配なんか。大体それのおかげで水洗慈さんの看病イベントとか……」
「あるわけねぇだろ、そんなもん。それに本人に聞こえたら……」
「聞こえてないわけ、ないんだなぁ……この距離なんだから」
もちろんそう言ったのは水洗慈さん。
俺はすっかりと忘れていた。
隣の席ではないが、出席番号順ではないこの席。
水洗慈さんの席は右斜め後ろだった。
「はぁ……何かごめんね。この皮被り野郎が。迷惑でしょ」
「ああ!? んだとこのうんこ野郎!! せっかく俺がお前の交際相手でも見繕ってやろうとしたってのに!!」
「大きなお世話だ! この鞘付きソーセージが!!」
売り言葉に買い言葉、というレベルはもはや逸脱している口喧嘩。
こんなのが俺の日常なのかと思うと少し悲しくなってくるが、これも入学初日から繰り返している日常風景なのだ。
「やめなさいよ、あんたたち。そろそろ先生くるんだから」
ため息交じりに俺の隣の席の女子、草井満子が俺たちを窘める。
こいつと皮被り野郎とは確か腐れ縁で、そこそこ親交が深かった様な気がする。
正直なことを言うと……もちろん本人には決して言えないが、名前的にこいつら絶対お似合いのはずだけど、交際には至っていないという。
というかお前らこそとっとと付き合えよ、と俺は思う。
まぁ名が体を表してしまうのだとしたら、草井に関してだけは同情を禁じえない。
この先……というか絶対これ小学校の頃いじめられてた経験あるだろ、と思う。
高校にもなって名前いじりでいじめたりする奴なんて、そうそういないと俺は思いたいところだったが……。
「ところでうんこ、課題ちゃんとやってきた? あんた休みだったわよね」
「てめぇクサマン!! 俺の苗字変なとこで切るんじゃねぇよ!! ぶっ殺すぞ!!」
「てめぇうんこ野郎!! 満子に何て口利きやがる!! てめぇこそ便所に流すぞ!!」
「こら!! 朝から何て話題で喧嘩してんの!! ったく!!」
教室の入り口から怒号が聞こえ、怒号の主が投げたであろう黒いの……クラス名簿が怒鳴り合っていた俺たち三人の頭に順番に直撃して、俺は朝から星を見た。
とんでもないコントロールしてらっしゃること。
「雲黒斎くんに対するうんこ呼びはやめる様にって、先生言ったよね」
教室に入ってきて名簿を拾いながら、俺たちの担任である外国人教師、シリアナ=カツヤッキンは皮被乃と草井を交互に見る。
軽く睨みつけられたと思った二人は気まずそうに目を逸らした。
「それから雲黒斎くん、二人に対しての暴言もダメって言わなかったっけ?」
「あ、はは……相変わらず流暢な日本語でらっしゃいますね、先生……」
「ゴマ擦っても暴言の数々はなくならないのよ。私も日本にきてからこの名前で随分いじられはしたけど……」
そりゃそうだろうな。
先生の名前でアレを連想しない方がどうかしてる。
こんな美人で、金髪のお人形さんみたいな見た目なのに……親のセンスを疑うわ。
「それに、水洗慈さんだけ除け者にしたら、可哀想でしょ!!」
「え、怒るポイントそこなの?」
「見なさい、水洗慈さんの下の名前……小用子って、聞くだけなら普通の名前なのに、何でこの字にしたの!? ってそれこそ親のネーミングセンスを疑うでしょうが!!」
確かに。
だって俺たち一応固体だけど、水洗慈さんに至っては液体。
そう、固体ですらないんだからな。
あとネーミングセンス、ってとこだけ発音が超綺麗なのが気になったが、問題はそこじゃない。
「このクラスでひとまずは一年間、やっていかないといけないんだから、喧嘩ばっかりしてないでもっと青春しなさい、青春! あなたたちは籠の中のハムスターみたいなもんなんだから」
「先生、それだと繁殖しまくってえらいことになる予感しかしないんですけど」
「皮被乃くん、別に今から子どもを作れなんて言ってないわ。けど、そういうことするのも、先生には止める術がない。だから青春と若さ故の過ちってことで、ガンガンやっちゃいなさい」
「…………」
まぁ、鞘付きソーセージとクサマンのコンビはほっといてもいずれそうなるだろうと思うが。
だからってクソとションベンが……いや、水洗慈さんにションベンとか言ったら俺、生きて帰れないんじゃなかろうか。
「ほら、雲黒斎くんは水洗慈さんにキスしてごめんね、ってちゃんと言うのよ」
「……は?」
「えっ?」
先生のぶっ飛んだ言葉に、クラスが沸き立つ。
そして水洗慈さん、何でそんな嬉しそうなんだ。
「い、いえあの……俺日本人だし、挨拶でキスする習慣とかありませんので……」
「何を言っているの。それとも初めてのキスは大事に取っておきたい、とか乙女なことを考えているの?」
「何故初めてと決めつける!? あんたら外国人はそこらでチュッチュしてても違和感ないかもしれないけどな、この日本じゃそんなことやってたら爆発しろ、とか周りに疎まれて最悪いじめに発展するわ!」
「うんくん……私がおしっこだから、嫌なの?」
この理論なら乗り切れる、そう確信した一言を放った俺だったが、何となく異様な雰囲気を纏った水洗慈さんからただならぬものを感じて、冷や汗と共に振り返る。
あとうんくんっていうの、やめてほしい。
こうして今日も、騒がしい一日が始まろうとしていた。
しかしこの日は、俺たちにとって地獄の一丁目でしかなかったことに、それこそ誰も気づいてはいなかったのだった。