・悪役令嬢は亡命しました
あなたの優しさを懐かしく思う。
今あなたの腕に抱かれて守られるその子の位置に、かつていたあの時、私は生まれて初めて安心というものを知った。
あなたに貰った髪飾りは妹にうばわれてしまったから、ネックレスはそれと分からないようにこっそりとしまい込んで、大事に大事に守ってきた。
次代の王となるあなたと並び立つため、国内情勢、国外情勢、歴史、地理、貴族名とその歴史、魔術と魔術師一覧とその歴史、交渉力に人脈作りにいそしんできた。
優秀なあなたは同じかそれ以上の勉強をしながらも余裕を持って学園で羽を伸ばしていたのでしょうか。あなたほど優秀ではなかったらしい私には、いつのまに私があなたの思い人をいじめさいなみ、次期王妃にふさわしくない振る舞いをしていたのか記憶にない。
正直今こんらんしている。
ずっと好きだった。あなたからも大切にされていると思っていた。それが、どうして。
察してはいましたわ。あなたの心が私からそれて、ふらふらしているのは感じていて、不安で、恐くて、デートのおねだりをしては断られ、かつてのようなプレゼントをおねだりしては断られ、不安は増していたけれど、上の立場にある王子たるあなたにそれ以上何を言えましょうか。
学園があやしいと思って、今日ひさしぶりに登園してみたらこの断罪劇。
妾という言葉が頭を通り過ぎ、婚約破棄と言われて妾どころでは済まない事態になっていることに気がついた。
諜報をするべきだったのでしょうか。
そういうの執着しすぎてて気持ち悪いというのが世間一般の感想ですし、私もそれはさすがにどうかと思っておりましたが諜報部隊を王子に向けておくべきだったのでしょうか。
どちらにせよ、冤罪だろうと私は妾との命の取り合いで負けたということですね。
「はぁ」
思わずため息が出てしまいます。
人には向き不向きというものがあり、どんなに努力しても身につかないものというものはあると思うのですよ。私のその身につかないものの一つが姑息な裏工作で、あなたのその腕に抱かれた女性かもしくは、その子に心底惚れたあなたの私を陥れようという裏工作は優秀だったということですね。
完敗です。後宮に入ってから毒を飲まされるよりましだとは思うわ。
「何か言ったらどうだ」
低い声で私を威圧する愛しの王子様。
学園の生徒の大勢が見守る大食堂の中で、彼の声だけが今はひびきます。
何か言えと言われましても、正直今こんらんしているんですのよ。自分の力不足とか、死ななくて済んだという安心感とか、失恋の衝撃とか。最後のが一番きついです。心にぽっかり穴があいたみたいに、体の力が中心から消えていくのですよ。
でも何か言わなくてはね。そこまで無能にはなれないわ。
「わたくしはそのようなこと、しておりません」
「私が君から聞きたい言葉はそれではない。分かるだろう」
「謝罪を聞きたいのですね」
「するつもりはないのか? 謝罪するならば減刑も考えよう」
またため息が出ました。
「もう疲れましたわ……」
王子の眉がより、いぶかしげな顔になりました。
ふと思い出して、首にさげていたネックレスを取り外しました。ちゃらりと金のチェーンごと手の中に収まる青い宝石。私とあなたの瞳の色。私のお守りでしたが、お守りの効果ももうなさそうね。
恋と共に投げ捨てようか、踏みつけようか、考えて、ネックレスがもったいないわと思いとどまりました。
こつこつとヒールをならせて近くのテーブルに置き、金髪の王子様と、その腕に抱かれる銀髪のお嬢さん、その横に控える側近候補の方々を見ます。
他の生徒は遠巻きに、でも身じろぎせずに見ているわ。第三者からしたら見物よね。確定されていた歴史が変わるその瞬間なんだもの。
「殿下はご存じでしょうけれど、わたくし家族に愛されませんでしたの。だから思い入れもありませんし、婚約破棄されたらきっと勘当されて縁を切られますわ」
「え」
と言ったのは殿下に抱かれるお嬢さん。
私の愛しい人をうばったあなたは、私に悪意はなかったの? だからそんないたましそうな目で私を見るの?
「殿下だけがわたくしの心の支えでした。わたくし殿下のおかげで笑うことを覚えました。でももう、笑えないですわね」
「同情をあつめたところで、君がしたことがなくなるわけではない。謝罪をしなさい。そうしたら罪も軽くできる。優しいフェミアなら許してくれる、だろう?」
「え、ええ。もちろんよ! ツェラ様つらかったんですね。でも、そうだわ、私とお友達になりましょうよ! それで街にお買い物に行ったり、ピクニックしたり、一緒に歌劇を見たりして、うふふ、そうしたらきっと笑えるようになるわ!」
「フェミアはほんと、誰にもやさしいんだな。そういうところ好きだよ」
くすっと愛しげに笑って腕の中のお嬢さんを見下ろす殿下。ああ、その目が、つらい。
「えへへ。だって、みんな幸せなのがいいじゃない」
「わたくしの」
胸が熱い。怒りがざわざわと沸騰してくる。なにを言っているの。この人たち。なにを言っているの。
「わたくしの幸せをうばっておいて何を言うの!」
感情のままに勝手にぽろりと涙が流れた。くやしい。こんな人たちに泣くところを見られたなんて。
フェミアと呼ばれた銀髪のお嬢さんが、殿下の腕の中から抜け出してわたくしに駆け寄ってくる。
「ごめんなさい。私なにも知らなくて。でもリックが愛しているのは私なんだもの。愛されない結婚をするより、あなただって幸せになれると思うわ」
触れようとしてきた手をさけて後ろにさがると、どんとテーブルにぶつかってしまう。
本当に、まっすぐに、悪意なく、優しさと愛しみさえこめて私を見るこの女の緑の瞳がおそろしい。
なぜ悪意をもたない。
なぜそうまで自己を正当化できる。
なぜ罪を感じない。
「完敗ね……」
ふっと自嘲の息をもらすと、銀髪のその子が嬉しそうに笑って抱きつこうとしてきた。それを横に避けて、魔術を発動させる。
「あなたほど人をまるめこむのが上手にはなれないわ。完敗よ」
「ツェラ!」
「っ……ひどい」
「貴様!」
「フェミア! 危険だよ、そこどいて!」
王子がフェミアとかいう女に駆け寄って、涙目の善意いっぱいの女を抱きしめ、騎士科のドルト伯爵令息が剣を抜いて私にむけ、すでに魔術師の資格を持つレナール侯爵令息が防御の魔術を展開する。一般生徒たちはきゃーと悲鳴をあげた。
「わたくし、国のためではなくリック様のために生きていたの。だから、もう、どうなろうと知ったことではないわ」
私の体をとりまいていた魔術文字が輝きを放ち、白い光で私を包み込んでいく。
「まさか、転移術⁉ 逃げるつもり⁉」
レナールの声を最後に私の耳に入る音は変化した。
風が吹き抜ける。阿鼻驚嘆の悲鳴のない、静かな場所だ。国境をほんの少し越えた、隣国側の関所の扉の前。バタバタバタと旗がたなびく音がする。
いづれかしずかれるはずだった青い制服ではなく、茶色の制服を着た隣国の兵士たちが驚いた顔で私に槍を突きつける。
「何者だ! どこの国の者だ」
「はじめまして。その扉の向こうの国で侯爵令嬢をしていたツェラと申します。かつてこちらの皇帝陛下より引き抜きのお声がけをいただきました。元の名をツェラ・ウィンベリアンと申します。たわむれのご提案であったとは承知しておりますが、いま一度おたわむれいただけまいか、皇帝陛下まで問い合わせを願います」
「…………え、えええ?」
反応に困って固まってしまった兵士二人に、私はにっこりと渾身の貴族のほほえみを向けました。