第26話・ふたりの修羅場
『わたし/センパイ』は『大智/チー坊』が、好き。
…わたしの言葉でわたしを見做すのと、同じことを誰かに言われることは、例え同じ表現であっても時に認めがたいものなのだろう。
特に、こんな場合は。
わたしは自分勝手なことだと思いつつ、秋埜の指摘には素直に頷くことが出来なかった。
「…どうして?どうして、そんな風に見えたの?」
秋埜の顔に浮かんでいたのは驚きだったのだろうか。それとも、失望だったのだろうか。
どっちにしても、わたしの視線は秋埜を見ていて、でも捉えていなかったんだから。
「どーしてって…センパイ、本気で言ってます?」
「本気も何も…それはまあ、大智のことは好きだったみたいだな、ってこないだ気がついたんだけど。でも、そんなこともあったよね?ってだけだし」
秋埜は呆れるというより、戸惑っている風に見えた。そこまで唐突なことを言ったつもりはなかったのだけれど。
「……………そーですか」
「そーだよ」
それでちょっと長めの逡巡の後、秋埜は小さくため息。
どうしてそんなことになったのかは分からないけど、にわかに張り詰めた感で満たされていたわたしと秋埜の間が緩んで、わたしもなんとなく、安堵の吐息。
あー、そういえばドーナツにまだ手を出してなかったっけ。
紅茶は冷めて…ないよね。よかった。
見ると、一つおまけしてもらったドーナツは五つあったのがもう三つ。秋埜がパクパクと二つ立て続けに食べたみたい。
わたしはそこまで執着ないのだけど、一つも食べれらない、というのも正直面白くない。
おなかの空きに余裕はなく、詰め込むだけになってしまうかもしれない。でもまあいいかと一つ取り上げて、三分の一を一口でパクリ、と。
…うーん、やっぱり空腹は最高の調味料、って至言なんだなあ。いつもならもっと美味しく感じる甘玄堂のチョコパイドーナツも、アレだけ晩ご飯食べた後だと少し味気ない。
勿体なく感じはしたけど、食べ始めたら止まらないのがあのお店のお菓子の魅力だしね。
わたしは残りの三分の二もさっくり行っちゃって、テーブルの上をうかがう。…と、秋埜ももう一つ行っちゃおうか、みたいな雰囲気。これは負けてられるか。わたしもふたつ目に手を…。
「やけ食いっすか?センパイ、みっともないですよ」
…つける前に、止まった。
「それ、どういう意味?」
延ばした腕をそのままに、自分でも理由の分からない戸惑いを声にする。
「チー坊にふられたのが面白くなくってやけ食いですか、って聞いたんですよ。センパイも結構女々しいトコありますよね」
「…それ、どういう意味?」
今度ははっきりと分かる、剣呑な声になっていた。
睨むように秋埜を見ると、わたしの視線を平然と受け流して見つめ返してくる。
「…言葉通りっすよ。センパイ、カッコ悪すぎて、もー」
「別にふられてなんかないじゃない。そーいう気持ちだった時もあったなあ、ってだけのことなんだし」
もうドーナツ、って気分じゃなかった。
手を引っ込めて、ソファに座り直す。
「そーですね。センパイ、実は結構ヘタレですし。チー坊のコト好きでも何も出来ませんでしたもんね。振られるとか以前の問題っすよ」
「…なんでそんなこと言うのよ」
「だって。今のセンパイすんげえカッコ悪いんですもん」
また。またカッコ悪いとか、どーいう基準だってのよ。
意味わかんない。本当に秋埜が何言ってるのか、全っ然分かんない。
「じゃー秋埜は、そのカッコ悪いわたしのこと好きになったとか、そーいうこと言うワケ?何がしたいのよ、秋埜ってば」
「うちが好きなのは……って、その前にセンパイこそどーなんすか。チー坊のこと別に好きでもなんでもないんなら、うちのことはどーだって言うんすか」
「それは……その、わたしだって秋埜のこと好きだわよ。えー、秋埜がわたしのこと好きなくらいは好きよ」
「…ウソくさいなあ。じゃあセンパイ、うちに今ここでキス出来ますか?」
「……やってやろーじゃない」
売り言葉に買い言葉。なんでこんなことになったんだろ、と内心で頭を抱えながらわたしは、立ち上がる。
秋埜は…、
「…はい、センパイ。どーぞ」
と、目をつむってあごをくいっとあげ、わたしを待ち構えている。
そのすぐ前に立つ。
秋埜の肩に手を掛け、わたしは顔を寄せる。髪が肩から流れて落ちるのも気にせず、長い睫の秋埜の顔を見る。
…きれいだなー。
素直にそう思える。こんなきれいな子をわたしなんかがどーこーしていいんだろうか。
一瞬、躊躇。
でも魅入られるように、吸い寄せられるようにわたしの唇と秋埜の唇が距離を縮める。
待った。いいの?
秋埜の吐息を感じる距離で、わたしの顔は止まる。
その肩にはひどく力が入っているみたい。ソファに置かれた手は拳のように握られ、微かに震えてる。
「あき…」
名前を呼ぼうとしたら、ぴくりと肩が揺れる。
そこに添えられたわたしの手にもそれは伝わり、わたしは肝心なことを忘れていたと、焦る。
えーと。
……………………………キスって、どうやればいいんだっけ。
って、いやいやいや。それはないだろう、わたし。コレが初めてでもないんだし、前回のことを思い出せば…思いだせ…ば…。
…何一つ参考になる記憶がない。
わたしの記憶力の問題じゃなくって、とにかく衝動的にそーしてしまってひどく気持ち良かったことしか覚えてないのと、もっと気持ち良くなりたいと思ったら、確か…。
「…っ?!」
「…麟子センパイ?」
…気がついたら、飛び退いていた。
「…あっ、ごめ、ごめん…」
「…センパイ?して、ませんよね?まだ」
その跡が残っているのか確認するように、人差し指の腹で自分の唇を撫でる秋埜。
そしてそこにわたしの感触の記憶がないと知ると、目を薄くしてわたしを睨む…ちょっとコワイ。
「センパイ」
「なっ、なに?」
「やっぱり出来ないじゃないですか」
「ででっ、出来るわけないじゃない!こんなムードもない状況じゃ…」
はあっ、と大きくため息をつかれてしまった。
「…ムードなんか関係ないっすよ…センパイ。顔、すぐ近くまで来て止まって、何考えてました?」
「う…そ、その、秋埜の顔ってきれいだな、って…」
所在なさげな指先を弄って目を逸らしながら言ったって、信じてもらえるわけないだろうけど。
「はーっ…」
またもやため息。さっきよりも長い。
「ホントは?」
「…キスのやり方が分かりませんでした」
「なんすか、それ」
…そんなに呆れなくてもいいじゃない。
「やり方分かるとか分からないとかで出来る出来ない決まるものなんすか?キスって」
「わたしが知るわけないでしょ。その、初めてのときだってよく覚えてないのに」
「うちだって分かんないですけどね。でも、慣れてないなら気持ちでするものじゃないんですか?」
え?
「…百戦錬磨の手練れの悪女でもない初心者マークのうちらなんか、気持ちいいとかくっつきたいとか、そーいう頭使わない衝動的なことで…しちゃうものなんじゃないかー…って、そう思いマスけど……どすか?」
秋埜も自分が大概なことを言ってると気付いたんだろうなあ。段々声が細くなって、最後は俯いたまま自信なさそうにわたしを上目遣いで見るだけになった。
「…とにかく、センパイはうちにキス出来ませんでした」
対面のソファに戻ったわたしに、宣告するように秋埜が言う。
「麟子センパイの性格からして。誰かを想いながら他の誰かにキスするなんてそんな器用な真似出来ないと思います。だから、センパイはうちにキス出来なかった、ということ、です」
「…飛躍しすぎじゃない?」
「否定出来るんですか?」
…あんまり自信無い。
けど。
そんな風に理詰めで気持ちを推し量られても、納得なんか出来るわけないのに。
わたしの今の気持ち。
それは、だって。秋埜を大事にしたいなあ、ってことまで否定されたくはないのに。
「…じゃあ」
「なんすか?」
「わたしの気持ちはどうすればいいの?」
「はあ?センパイがチー坊に懸想してることなんかうちにはどーしようも…」
「そうじゃなくって。わたしは秋埜が大好き。それから大事。それは心の底から思ってる。そのことまで秋埜に拒まれたくない」
これだけは今のわたしの真実だって、秋埜の目を見ながら伝える。
そうしたら、秋埜は急に赤くなってそわそわし始め、終いにはわたしを睨んで、こう言う。
「セ、センパイそれはずるいっす!そこでうちを口説くのは反則ですからっ!」
え、あの…別に口説いてるつもりはないのだけれど。
困惑するわたしと狼狽する秋埜という取り合わせは、まずまずお似合いと言えるのだった。
「…そーじゃなくてですね。うちの言いたいことは…」
「うん」
ほんの十数分前、キスをせがんだ一人とそれを前に何も出来なかった一人の頭は、ちょーどいい具合に冷えてた。
その状態になるのに紅茶をもう一杯いれるだけの時間がかかったけど。
「センパイ、チー坊のことほっといていいんですか、ってことです」
「…だから、何度も言ってるけど、それはもういいんだってば」
はあ、と頭を抱える秋埜。
「それで、うちの気持ちはどーしてくれるんです」
「それは…その、わたしだって秋埜のことは好き…だと思うし、そうなってもいいかな、って思い始めてる……ってのは無し?」
あああ、言葉にすると異常に照れるなあ…なんだかもう、どうなってもよくなってきた。っていうか、秋埜今晩この家に一人だって…あう、わたし何考えてんだろ…。
「…麟子センパイ。もうこの際だからハッキリ言いますけど」
ひとりで悶々としてるわたしを冷ややかに見る目。
キリッとしてる秋埜も凜々しいなあ、とかアホなことを考えてたわたしは、その圧に僅かにおののく。
「……うちを逃げ場所にしないでください。自分の気持ちに向かい合うのがイヤだからって、うちに縋らないでください」
「決めつけないでよ」
だから、どうして秋埜はそんなにもわたしの気持ちを否定するんだろう。
大智のこと、好きだった自分がいて、でも秋埜ことが好きになり始めてる自分がいる。
それが今のわたしだって、そう思うことの何が秋埜の気に入らないんだろう。
本当に、秋埜のことが分からなくなる。
「わたしの気持ちを言ってどうして秋埜が怒るの?」
「だってセンパイずっと、チー坊の付き添いしてた時からずうっとかっこ悪いまんまなんですもん。…センパイが気付いた時から、ずっと」
「大智のこと?だからそれは…」
「自分の気持ちを大事にしてないセンパイがぁ……だから、かっこ悪いって言ってるんです!」
堪らず立って絞り出すように叫ぶ秋埜。
もう途中からは、声も涙混じりだった。
わたしは何も言い返せず、苦しそうに言葉を継ぐのを見守るしかできない。
「……うちに、かっこ悪いとこ見せないでくださいよぅ…自分の本気潰してまでうちのそばに居ようとしないでくださいよう………」
そうしてうつむき、わたしから泣き顔を隠す秋埜に、何も言えなくなってしまった。
…わたしの気持ち。
と、秋埜の気持ち。
なんでこんなにすれ違ってしまったんだろう。
…それでも、ね。
泣いてる秋埜をそのままにしておくことなんか、出来ないわけで。
立ち上がって、そっと秋埜の前に立つ。わたしより拳ひとつ半くらい背の高い秋埜がひどく小さく思えた。
「わたしはどうしたらいいのか、よく分からないけど」
そんな資格があるのかどうか、それも分かんなくって、けど秋埜の肩を両手で支えて言う。
「秋埜が泣きだすくらいわたしのことを想ってくれてるのだけは、分かるから。だからそんな秋埜を今のまま放っておけないよ。それだけは、わたしの気持ちとして知ってて欲しい」
両手で涙を拭ってる秋埜は、うつむいたままこくりと頷いた。
良かった。わたしと秋埜の繋がりはまだ、断ち切れたりしてない。
今していいこととは思えずその体を抱きしめたりはしないで、わたしは彼女の嗚咽が止まるまでずっとそうしているのだった。
・・・・・
「あれ、先輩。今日はあっきー休みっすよ?」
「え?うそ」
週末、お互いに落ち着く時間が要るだろうと思って何も連絡をとらなかったのだけれど、それでも月曜になれば話は別だ。
秋埜の顔が見たくていつもより早く家を出て校門で待ち構えていたわたしを先に見つけた今村さんが、思いもよらないことを告げてきた。
「本当ですよ。朝電話かかってきて。体調が悪いから休むー、って。その割には声はしっかりしてたんで、さぼんじゃねー、って言ったら先輩によろしく、だそーで」
「…そう。ありがと、教えてくれて」
「いえいえ。まーアレが学校休むなんてよっぽどのことでしょーけど、原因に向かって言うこっちゃねーですよね」
「う…」
批難めいた口振り、ではないけど確かに原因はわたしだし、わたしの被害妄想だとしてもどこか棘のある言葉は甘んじて受け入れなければならない。
ただ、実際のところ、まだ秋埜に言える言葉の見つかっていなかったわたしがホッとしてたのは事実だった。
そんな状態で秋埜の顔が見たい、っていうのも我ながらワガママなものだとは思ったのだけれど。
…なので、昼休みは秋埜が教室にやってくるようなこともなく、わたしは珍しく自分から星野さんに声をかけてお昼を一緒にしていた。
「…いつもの後輩くんは風邪かなにか?」
後輩「くん」はないと思う。あんなにかわいい子なのに。まあそれはさておき。
「さあ?でも心配するほどじゃないとは思うけど」
「ふーん」
気のない風を装って興味だけはあります、って顔。仕方ないけど。
別に予感があったわけでもなく、ただ気分じゃなかっただけで今日はお弁当も作らず、購買から買ってきたパンの袋を開ける。
お昼休み出足が早くてまだ目の前にあった白身魚のサンドウィッチ、には手を出せず、いつも最後まで残っているだろうコッペパンのジャムサンド、っていうのは教室に戻ってからしまったと思ったのだけれど、こーいう風に引っかかることの多いのって早くなんとかしたいなあ。
「…思うんだけど」
「うん、なに?」
仕方なく食べてる、って感じのわたしを観察してた星野さんが、コーヒー牛乳の紙パックを片手に聞いてきた。
「例の噂って、結局どうなの?」
「今さら聞く?それ」
「気にはなるし。中務さんの様子だと噂なんてあてになんないなあ、とは思うけど」
「…だったらその通りなんでしょ。わたしが流した噂じゃないもの。知らないわ」
「素っ気ないなあ」
自分から誘っておいて会話がこれ、っていうのはね。でもわたしだって聞かれて楽しい話じゃないんだし。仕方ないと思ってもらおう。
…秋埜、今頃どーしているのかな。
そして話をしてる相手を目の前にしてどーかとは思うけど、やっぱり秋埜のことが頭から離れない。
先週、ようやく泣き止んだ秋埜は子供みたいだった自分を恥じてか最後までわたしの顔を見られなかったのだけれど、それでも最後は互いに笑いながら秋埜の家を出た。
だから今日学校に来ていないのが少し不思議に思える。わたしに会いたくないから、って想像が自意識過剰なのでなければ、だけど。
分かんないな、ホントに。秋埜のことが。
それでいて、秋埜のことをもっと知りたいとも思う。そんな思いで、ため息をついた。
「恋する乙女、って顔だわね」
「えっ?」
気がつくと、星野さんがちょっと意地の悪い笑みを浮かべてた。
「実際目にすると実感するなー、ってね。中務さん、誰かに恋してるって顔」
「…そっ、そう?うーん…」
「誰のこと考えてた?」
「黙秘します」
「口が堅いわねー」
…まあ多分、想像ついた上で言ってるんだろうけど。
でも、ムキになって反論する気にもなれなかった。しょーがないじゃない、秋埜のこと思うのを自分で否定するの、イヤなんだから。
でもそれ以上は星野さんも追求してこようとはせず、わたしは彼女を昼食に誘った判断の正しさを再認識していると。
『ぴんぽんぱんぽーん』
「…なにごと?」
「なんだろ?」
…古びた校内放送設備が、間の抜けた声を流し始めた。
というか、普段音が出てくることすら珍しいってのに。
『二年二組の中務麟子さん。二年二組の中務麟子さん。大至急保健室まで出頭しやがってください。繰り返す。二年二組中務麟子。聞こえてたらとっとと来るように。以上』
ブツッ。
話し手のお怒りを如実に示すよーに、放送が途切れた。っていうか。
「…これ、相原先生でしょ?保健室の」
「…だねー」
何をやっているのかあの人は。いや大体用件は想像つくけど。
「早いとこ行った方がいいんじゃない?なにか怒ってる感じだったけど」
怒られるのはあの先生の方でしょ。私事に校内放送使ったりしたんだし。
わたしは星野さんが面白がってあれこれと想像するのをさらっと受け流しつつ、悠然と目の前のパンを平らげ、それから、「お大事に」とやっぱり面白がる声ににこやかに応じて、ゆっくりと教室を出た。きっとまた、わたしの去った後にあーだこーだと勝手なことを言われているんだろうな。
…全く。あの先生は何を考えているんだか。




