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渡野ありかは今日もプールの授業を休む。

作者: ta1

 渡乃わたしのありかは今日もプールの授業を休んでいる。


 今日も、と言うのは先週もそうだったからで、もっと言えば先々週もその前もそうだった。

 俺の知る限り、彼女は今夏のプールの授業をすべて見学でやり過ごしている。


 高校生にもなれば色々事情があるから、体育教師も女子にはきつく言わないし、実際プールの授業を休む女子は少なくない。

 だが、それでも体育の成績に関わる以上、渡乃ありかのように毎回休みになるのは流石に珍しかった。


優生ゆうき、集合かかったぞ――って、何見てるんだよ?」

「うわっ」


 いきなり後ろからどつかれて、水の中でたたらを踏む。水の浮力に翻弄されながらも身体を捻って後ろを振り返ると、一緒にウォーミングアップをしていたクラスメイトの一人が、さっきまでの俺の視線を横取りして一人納得したように頷いた。


「ああ、西口ね。なーんだ、今日、見学なんだな」


 少し残念がるような声音でクラスメイトが挙げたのは、プールサイドでグループになって座り込んでいる見学の女子の一人の名前だ。

 俺は慌てて首を横に振る。


「いや、そうじゃなくて」

「またまたぁ。分かるって、胸デカイもんな、あいつ。顔も悪くないし」


 クラスメイトは俺の弁明に耳も貸さず、勝手に納得して体育教師が集合を促しているプールサイドへと泳いでいった。

 俺はその背中をバツが悪いような、不満なような気持ちで見送る。


 渡乃ありかがプールの授業を毎回休んでいるというその異様な事態に、おそらくクラスメイトの殆どが気づいていない。

 というのも、渡乃ありかが他の女子たちに比べると可愛らしくないわけではないが、それでも飛び抜けて美人なわけでも胸がデカイわけでもない、些か地味で影の薄い女子だからだ。


 かく言う俺も、そのことに気がついたのは、今夏最初のプールの授業の時に、真夏の太陽光に灼かれたプールサイドにあっても、彼女が上下きっちりと長袖のジャージを着ていることをふと不思議に思ったのがきっかけであって、それまでは渡乃ありかの事自体、クラスメイトでありながら顔と名前がかろうじて一致するくらいの精度でしか認識できていなかった。


 体育教師の指示に従ってプールサイドで整列しながら、今度こそ誰にもばれないように彼女の様子を横目で伺う。


 渡乃ありかは今日も炎天下の中、上下きっちり長袖のジャージを着込み、他の見学の女子の群れから離れてタイム計測の手伝いをしていた。


 渡乃ありかは飛び抜けて美人なわけではないし、他の女子たちと違って化粧っけがない分地味ではあるが、その代わり色が白く清楚な印象で、顔立ちだって女子として魅力がないわけでは決してない。


 その姿をぼんやり眺めていると、俺は彼女の右手に包帯が巻かれているのを発見する。

 それで俺は合点した。きっと何か怪我をしていて、プールに入ることが出来ないんだろう。


     *


 それが間違いだったと知ったのは、それから数日後の放課後のことだった。


 帰りのホームルームの後、帰宅部で放課後特に用事のない俺は、クラスメイトと少し立ち話をするとすぐに教室を出た。

 放課後の廊下は俺と同じく下校する生徒や、教室などの清掃当番の生徒、部活に急ぐ生徒が縦横無尽に行き交っている。


 いつも通りのその喧騒が何だかその日ばかりは鬱陶しく思えて、俺は向かうはずだった生徒玄関とは逆方向に歩き出した。

 急ぐわけではないのだから、多少遠回りになろうと人通りの少ない通路を迂回して行ったほうが楽だろうと思ったのだ。


 人気のない水飲み場で、一人ぽつりと立ち尽くす渡乃ありかを見かけたのはそんな時だった。


 渡乃ありかは蛇口の前でセーラー服の袖を肘までまくり上げて、包帯の巻かれた右腕を露わにしている。左手には雑巾が握られているから、掃除で使った雑巾を洗おうとしたものの、包帯を巻いた右手を使えなくて困っているのだろう。


 手伝ってやろう、と咄嗟に思ったのは、渡乃ありかが怪我をしていることにおそらくクラスでも俺しか気がついていないだろうという、優越感みたいな感情があったからだ。

 同じクラスの可愛くないわけではない女子の秘密を、おそらく俺だけが知っているというシチュエーション。

 男として悪い気がするわけがない。


「渡乃」


 同じクラスになっておそらく初めて渡乃ありかの名前を呼ぶ。

 が、彼女はそれよりも早く右手に巻いていた包帯をひと思いに解き放った。


「……っ!?」

 それを見て、俺が叫び声を上げなかったのは、ほとんど奇跡と呼べるだろう。


 包帯の下から現れたのは、生身の腕とは見るからに異なる、造り物の腕だった。


 造り物、と言っても義手などとは全く違う。

 球体関節と言っただろうか、渡乃ありかの肘より先の関節すべてが、人形によく見られるような無機質な球体のパーツに取り変わっている。


「よしだくん?」


 俺の存在に気がついた渡乃ありかが、無表情にこちらを振り返った。

 それから俺の視線が自らの異形の右腕に向いていることに気づいたようで、


「これね、よくわからないけど、きがついたらこうなっていたの。みんなにみられたら、きっときもちわるがられるだろうから、ないしょね」


 舌っ足らずにも聞こえる抑揚のつかない口調でさらりと答え、何でもないように蛇口を捻って雑巾を洗う。


 球体関節の腕はおそらく、渡乃ありかが意図するように自在に、しかしどこか奇妙に可動する。

 それは少し不気味であるのと同時に、表情に乏しい印象がある彼女の白い横顔と相まって、渡乃ありかを人間ではなく、人間の動作を巧妙に真似た人形そのもののように見せていた。


「それじゃ」


 雑巾を洗い終えると、渡乃ありかはまだ水滴のついたままの右腕に素早く包帯を巻いて俺に背を向けた。

 俺はその背中を咄嗟に呼び止めようとして、ふとあることに思い至る。


「お前、今日掃除当番だったっけ」


 俺の問いかけに、渡乃ありかは肯定も否定もせず、


「いいの、みんながのぞむから」


 とだけ言って、教室の方へと戻っていった。


     *


 それから程なくして、今年のプールの授業はすべて終了した。

 結局、渡乃ありかは上下長袖のジャージのままプールサイドで最後までやり過ごし、授業に参加することは一度もなかった。






 九月に入ると校内は間近に控えた文化祭のムード一色に染まり、俺たちのクラスでもいくつかの班に分かれて文化祭の準備が始まった。


 ステージでダンス発表をする班に振り分けられた俺は、その日もメンバーたちと空き教室を借りて、一九時と決められた下校時間のギリギリまで練習に明け暮れていた。


「俺、職員室に鍵返してくるから、先帰ってて」

「ああ、サンキュー。それじゃ、お先に」


 スピーカーから流れる下校を促す放送に急かされながらメンバーたちと解散し、俺は一人、空き教室の鍵を手に職員室に向かう。


 九月の日没は思った以上に早い。

 節電の名目と生徒を早く下校させたい教師の思惑で殆どの照明が落とされた校舎には、すでに薄闇がわだかまっていた。

 まだところどころ人が残っている教室から漏れてくる明かりを頼りに廊下を進む。


 普通教室の並ぶ一階を行き過ぎて、俺は職員室のある二階へ向かおうとした。


 二階へ上る階段も、すでに照明は消えている。足元がはっきりしないのが流石に怖くて、壁に手のひらを這わせて照明のスイッチを探す。


 そんな時、上の階から人の気配がした。


 とん、とん、とん、という規則的な足音で誰かが階段を降りてくるのが分かる。

 足音が踊り場を曲がり、足音の主の人影が俺の視界に入る……寸前、


「あっ」


 と短い悲鳴と複数のものが転がり落ちる大音声。

 おそらく足音の主が足を踏み外したのだろう。


 ようやく指先が照明のスイッチを探り当て、蛍光灯がかちかちっ、とノイズ音を立てて辺りを照らすと、俺の足元には細く巻いた模造紙や、油性マジックの六色セット、数学の授業で使う長い定規などが落ちていた。


 そして、さらに顔を上げれば、


「――渡乃!?」


 渡乃ありかが不自然に膝をついた姿勢のまま、階段の中程に座り込んでいた。


「おい、大丈夫か?」

「うん、へいき」


 俺が駆け寄ると渡乃ありかは動揺した様子もなく頷いて、そのまま立ち上がろうと膝を立てた。

 その膝頭は転んだ拍子にどこかに引っ掛けたのか、黒いストッキングが裂けてしまっている。

 そこから覗いているものに気づいて、俺は思わず声を上げた。


「お前、これっ……!」


 俺の視線の先を見て、渡乃ありかは「ああ」と、感情のこもらないような、諦観したような声で言う。


「まえはうでだけだったの。でも、さいきんになってまた」


 ストッキングの裂け目から覗く彼女の膝が、件の人形じみた球体関節に取り変わっていた。


 渡乃ありかはそれを何気なく包帯を巻いた右手で隠す。

 それからそそくさと立ち上がると、階段を降りて行って落としてしまった荷物を拾い始めた。


 渡乃ありかとあと数人の女子たちは、文化祭で行われる壁新聞コンクール用の壁新聞の制作という、「ちょっと面倒くさい」班に振り分けられていたはずだ。

 背表紙に図書室の分類ラベルがついた本を抱えているから、図書館で調べ物をしながら作業をしていたのだろうが……。


「なあ、他の奴らは?」

「いいの」


 俺の問いかけに、渡乃ありかはやっぱりそう短く答えた。


 やっぱり、と瞬時に思ったのは、俺はうすうす感づいていたからだ。

 プールサイドで他の女子達の輪から離れてタイム測定の手伝いをしていたときや、掃除当番でもないのに水飲み場で雑巾を絞っていたときみたいに、渡乃ありかは一人、面倒な仕事を押し付けられていたのだろう。


 そう思った瞬間、胸の中にかっ、と熱い正義感が沸き立つのがわかった。

 けれど、自分と渡乃ありかがあくまで「ただのクラスメイト」であることを考えると、どこまで相手に踏み込んでいいのかを咄嗟に判断できない。


 俺の口からこぼれてきたのは結局、もごもごと歯切れ悪い言葉だけだ。


「なんつーか、そういうのって、あんまり良くないんじゃ……」

「よくない?」


 首を傾げて見せる白い顔は相変わらず表情に乏しくて、人形じみた印象を抱かせる。

 感情の読み取りにくい瞳が一瞬だけ思案げに揺れた気がしたが、渡乃ありかはすぐに顔を伏せてしまった。


 そして、いつものような抑揚に乏しい口調で訥々と告げる。


「そうかもしれない。でも、かんがえるって、むずかしいでしょう。だから、いいこともわるいことも、わたしにはよくわからないの」

「でもっ……!」


 俺の中で渦を巻く正義感が、また火勢を増すのがわかった。


 しかし俺がそれを発露させるより先に、渡乃ありかは逃げるように俺に背を向ける。


「わたしはだいじょうぶ。――じゃあね、またあした」


 そう言い残して大荷物を抱え薄闇に消えていく背中を、俺はやりきれない気持ちで見送ることしかできなかった。


     *


 文化祭当日、全面がすべて同じ筆跡で埋め尽くされた俺たちのクラスの壁新聞は、職員と保護者の投票によって晴れて壁新聞コンテストの銅賞に輝いた。


 閉会式でステージに上がりきゃあきゃあと嬌声を上げながら表彰状を受け取る女子達のグループの後列でぽつんと立ち尽くす渡乃ありかの左手には、右手と同じように白い包帯が巻かれていた。






 文化祭が終わると俺達はまた日常に戻り、そうこうしているうちに冬がやってきた。


 十二月の頭に期末テストが終了すると、その結果と進路希望を踏まえた個人面談の予定が組まれ、高校二年生の俺達も、とうとう進路というものを強く意識するようになってくる。


 俺の個人面談はその日の放課後に行われた。担任は中のやや上くらいの成績である俺のテスト結果にはくどくどいうことなく、また、俺が薄ぼんやりとした進路希望を伝えても、親身なようでその実今中身のないアドバイスを寄越すだけだった。

 大学進学を志望している俺には最後に志望校になりそうな大学のパンフレットを数冊くれて、個人面談はそれで滞りなく終了する。


 貰ったパンフレットを抱えて教室に戻ると、そこに人の気配はなかった。

 授業が終わって一時間以上経っているから、皆下校したか、部活に行ってしまったかしたのだろう。電気も暖房も点いていない無人の教室はひんやりと底冷えして、窓から差し込む今にも地平線に沈みゆきそうな西日が空気を褪せた橙色に染めている。


「……あれ?」


 無人だと思っていた教室にふと、人影を見つけたのはその時だった。

 逆光でよく分からなかったが、窓際の席に一人、誰か座っている。


 人影の正体に、俺は程なくして気がついた。


「渡乃?」


 俺が声をかけると、渡乃ありかはそれで初めて俺の存在に気づいたように俯けていた顔を上げた。


 どうやら渡乃ありかの個人面談も今日行われていたようだ。

 さりげなく歩み寄った彼女の机には、とある女子大のパンフレットが開いてある。名の通った名門女子大で、偏差値もそれなりに高いから、中堅校と進学校の間レベルのうちの学校からはなかなか進める大学ではない。


「渡乃、ここ受けるんだ?」


 驚きはあったが、この間貼りだされていた期末テストの結果見る限り、渡乃ありかは学年の中でもトップクラスの成績を残していた。であれば、そういう選択肢も十分視野に入ってくるのだろう。


 しかし俺の問いかけに、渡乃ありかは他人ごとのように答えた。


「うん、そうみたい」

「そうみたい?」


 嫌な予感が、身体の芯を駆け抜けた。その予感を裏付けるように、渡乃ありかがいつもの感情のこもらない声で言う。


「だって、おとうさんもおかあさんも、せんせいだって、そうのぞむから」

「なっ……!」


 その言葉に、俺の中でいつかの正義感が目を覚ます。

 渡乃ありかはまた、誰かのいいなりになろうとしているのだ。


 制御できない憎悪が、俺の脳細胞を塗りつぶしていく。

 自分たちの理想を娘に押し付ける彼女の両親も、出来の良い生徒にばかりあれこれ進路に口を挟みたがる教師も、憎く思えて仕方がなかった。


 そして同時に、彼女の人生そのものを左右しかねない、進路という大切な選択肢を他人に明け渡してしまおうとしている渡乃ありか自身ももどかしい。


 気づけば俺は、感情的に渡乃ありかの肩を掴んでいた。


「お前、本当にそれでいいのか!? いつも誰かの言いなりで、それで本当に大丈夫なのかよ!」


 制服越しに触れる感触で、細い肩までが件の球体関節に取り変わっているのが分かった。

 俺は不意に泣きそうになる。渡乃ありかの身体はこの、無機質で堅い、人体とは似て似つかぬまがいものの球体関節に急速に蝕まれつつある。


 こいつの正体に、俺はすでに気が付き始めていた。このまま行けば、彼女の身体すべてがこの球体関節に飲み込まれてしまうであろうことも。


 それは、とてつもなく恐ろしいことに思えて、だからこそ俺は必死になって叫んだ。


「嫌なら嫌ってちゃんと言わなきゃ、お前は、いつまでたっても救われないじゃないか……!」


 けれど、俺の言葉は渡乃ありかには届かなかった。

 すっ、と顔を伏せたまま、彼女は首を横に振る。


「わたし、いやなことなんか、ないから」


 それだけ言うと、渡乃ありかは肩にかかった俺の両手を払いのけ、コートと鞄を手に逃げるように席を立った。


「渡乃!」


 すがるように呼びかけるが、渡乃ありかは振り返らない。拒絶すら感じさせる足取りで教室を出ていこうとする。

 ダメだ! 渡乃! このままじゃ……!


「……よしだくん、わたし、かんがえたの」


 ぽつり、と。

 渡乃ありかがそんなことを言ったのは、廊下につながる扉に手を掛けて、今にも教室を出て行こうとする寸前だった。


「えっ?」


 拍子抜けした声を上げる俺を、渡乃ありかは顔だけで振り返る。


「かんがえるってことは、やっぱりわたしにはむずかしすぎるけど、でも、よしだくんがそういうのはよくないっていうから、わたし、かんがえたの。そうしたら、わかったんだ」


 窓から差し込む陽が今まさに沈みゆき、教室に薄闇が広がった。

 廊下の蛍光灯の青白い光だけで照らされた彼女の白い横顔は、やっぱり表情に乏しく、殆ど感情が滲んでいないように見えた。


 渡乃ありかが訥々と告げる。


「たぶん、すくわれることをのぞまないかぎりすくわれることなんてできないんだよ。でも、わたしにとって、『のぞむ』ってことはむずかしすぎるんだ。

 ――だからわたしは、どこまでいってもすくわれない」


「そんな……っ」

 俺は思わず、絶句した。


 それは、あまりにもむごたらしい告白であった。


 つまり、渡乃ありかという人間に、救いなど存在しないのだ。

 どんなに苦しくてどんなに助けを求めたくても、彼女は救難信号の出し方すら知らない。


 しかし、彼女はそんな自らを苛む悲劇を遠い国のニュースのように淡々と告げる。

 悲劇を悲劇と認識できない彼女は、決められた筋書きを演じることしかできないまさしく操り人形のようであった。


「……それじゃ」


 言葉を失くした俺を最後に一瞥して、渡乃ありかは今度こそ教室を出て行く。

 何度も見送った背中は、今日は生徒玄関へと消えていった。


 取り残された教室で、俺は一人、立ち尽くす。


 渡乃ありかの言う通り、彼女が本当に「望む」ことができないのなら、彼女は「救われることを望んで」なんかいない。彼女自身が望んでいないのなら、「ただのクラスメイト」にできることなんか、何もない。


 けれど、


「……でも、そんなのって、ないだろ……っ」


 俺の胸にわだかまる正義感は――そしてそれが姿を変えて俺を突き動かす感情は、そんな悲劇を認められはしなかった。


「……よし」

 気づいたときにはもう、俺は生徒玄関の方へと駆け出していた。






 最初は、ちょっとした興味だった。


 渡乃ありかがいつもプールの授業を休んでいる事に気がついて、他の誰も知らない彼女の秘密を自分だけ知っているということにささいな優越感みたいなものを覚えて、満足しているだけだった。


 次に抱いたのが、正義感だ。


 クラスメイトたちの言いなりになって、自分の意志を押し殺している渡乃ありかを見ていると、ぶつける先のない憤りが胸を支配するようになった。そんな境遇から彼女を何とか救い出して、あの無表情を少しでも笑顔に変えてやれないものかと悩んだ。


 そうやって彼女のことばかり考えているうちに、俺は渡乃ありかを好きになっていた。


 廊下を全力で走り抜け、俺が生徒玄関にたどり着くと、渡乃ありかはちょうど下駄箱で靴を履き替えているところだった。

 包帯の巻かれた手首を強く掴まえる。


「よしだくん……?」


 渡乃ありかがそれに気づいて俺を振り返った。俺はその顔を真っ直ぐに見つめて、言う。


「渡乃、俺、分かったよ。――お前のそれは、報いなんだ」

「むくい?」


 渡乃ありかは相変わらず感情の読み取りにくい顔で俺を見上げる。

 俺は包帯ごしに手首の球体関節の感触を確かめながら、確信を持って頷いた。


「そうだ。嫌なことをちゃんと嫌だと言わないで、人形のように皆の言いなりになりすぎたから、お前は本当に人形になってしまったんだ」


 渡乃ありかの異形の球体関節の正体を、俺はいつしかそういうふうに考えるようになっていた。

 自分の意志を押し殺し、操り人形のように誰かに望まれた筋書きだけを演じ続けてきた結果、彼女の身体は本当に人形の躰に取り換わってしまったのだ。


 おとぎ話のような話だ。なのに、そうに違いないという確信が不思議と俺の中にはあった。


 だが、渡乃ありかはまた首を横に振る。


「わたし、いやなことなんてないよ。へいき」


 何度も聞いてきた彼女の言葉。

 彼女との距離感を測りきれずにいた俺は、これまでずっとその言葉を「ただのクラスメイト」として受け流すしかなかった。


 けれど、それでは何も変えられなかった。

 渡乃ありかの置かれている境遇も、彼女の心も、何一つ。


 俺は――たとえそれが、彼女が望んだことでなかったとしても――彼女を救いたかったのだ。


「そんなこと言うな!」


 だから俺は、見えない壁を壊すように一歩強く踏み込むと、渡乃ありかの細い身体を掴まえるように抱きしめた。


 渡乃ありかは、拒まなかった。


「……俺は、お前が好きだ。だから、俺はお前を救いたいんだ」

「すくいたい? わたしを?」


 化粧っけのない白い顔が俺を見上げる。俺は力強く頷いてみせた。


「ああ、そうだ。俺がお前を、救ってやる。もう誰の言いなりにもさせないし、嫌なことは全部、跳ね返してやる。

 そうすればその躰だって、いつか元通りになるはずだ」


 この人形じみた異形の躰が、彼女が他人の望んだ筋書きばかり演じてきた報いなら、彼女が誰のいいなりになることもやめて、彼女が彼女の望むまま生きることが出来れば、きっと元の身体に戻れるはずだ。

 俺はそう信じていたし、そうなるように彼女を守っていくという覚悟があった。


 だから俺は息を一つ吸いこむと、意を決してその言葉を告げる。


「だから、渡乃――いや、ありか。俺と、付き合ってくれないか?」


 俺の告白に、渡乃ありか――ありかは俺の腕の中で少し戸惑うようにうつむいた。


 永遠とも感じられる数秒間。その後に、


「――優生!」


 そう言って顔を上げたありかの両目には、あふれんばかりの涙が湛えられていた。


「私、嬉しい……!」


 一瞬あっけに取られた俺も、彼女がそう言葉を続けたことで、それ以外のことはどうだって良くなった。

 それから、ありかはふいに何かに気づいたように包帯に包まれた右手を持ち上げ、


「これ、見て」


 いつかの水飲み場の時のようにおもむろに包帯を解いてみせる。


「これって……」


 俺は思わず息を飲んだ。

 そこから現れたのは、あの時の球体関節の腕なんかとは違う、ありか自身の生身の腕だった。


「きっと、優生のおかげだよ……ありがとう」

「……うん」


 そう嬉しそうに告げるありかに、俺は万感の思いで頷いた。

 やってやったという達成感と、これから何だって出来るという万能感が俺を満たしていく。


 これで全部、上手くいくに違いない。


「ありか、笑って?」


 熱に浮かされた口調でそう言うと、ありかはとまどいながらも何とか笑顔の形らしきものを見せた。

 笑い慣れていないのだ。その笑顔はぎこちない以外の何物でもなかったが、構うものか。

 これから二人で共に歩んでいけたなら、きっともっと上手に、可愛らしく笑ってくれるようになるはずだ。


「絶対、幸せにする」

 俺は改めてありかの背中に腕を回すと、一層強く愛しい彼女を抱きしめた。






 こうして付き合い始めた俺達は、急速にその距離を縮めていった。


 冬休み中はありかが予備校に通うようになったせいでなかなかちゃんと会う機会は作れなかったが、それでも何とか時間を捻出してはささやかなデートを重ねた。


 一度目のデートはありかの予備校帰りに待ち合わせた夜の公園。

 手袋越しに手をつなぎ、前日に降った雪で冬化粧をした並木道を歩くだけですべてが満たされたような気持ちになった。


 二度目のデートは年が明けて少し経ってから、二人で近所の神社に遅い初詣に出かけた。

 神前でありかが目をつぶって手を合わせている隙に、小鳥のついばみのようなキスをした。


 そして三度目のデートの時、俺は渾身の勇気を振り絞ってありかをベッドに誘った。

 このことは家族が家を開ける日を狙って彼女を俺の家に招いた時から決めていた。


 ありかは、拒まなかった。


 俺はその勢いのまま、ありかの衣服を貪るように剥ぎとっていく。

 袖の長めなカーディガンにロングスカート、ハイネックのインナー、黒いストッキング……。


「……なんっ……で……」


 そうして現れたものに、俺は我が目を疑った。


 ベッドの上にあらわになったのは、十代の艶めかしい裸身などではなく、全身の関節があの球体関節に取り変わった、人形そのものの躰だった。

 あの日生身の身体に戻っていた右の手首さえも、またあの異形の関節に戻っている。


 目の前の光景を上手く飲み込めない俺に、ありかはかつての人形らしい無表情で告げた。


「だって、あなたはのぞんだんでしょう、『わたしをすくいたい』って。だからわたしは『あなたにすくわれた』の」


 それでようやく、俺は思い知った。


 俺も所詮、皆と同じだったのだ。

 ありかを誰かの描いた筋書きを演じるだけの人生から救ったつもりでいながら、その実俺の描いた筋書きをありかに演じさせていただけだった。


 ありかの言うとおりだ。彼女は結局、救われることなんかできなかったのだ。


 自分の思い上がりを目の前に突きつけられた俺に、渡乃ありかは異形の躰を晒したまま不意に微笑んでみせる。


「ありがとう、ゆうき」


 その笑顔は、かつて俺が望んでいたような、とても可愛らしい笑顔だった。(了)

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