消防車の降る夜
近所で火事があったらしく、夢の中まで煙が入り込んできた。どこもかしこも煙でいっぱいで、りん子は寝ていられなくなった。
布団をはねのけて起きると、まだ夜中だった。どこからともなくサイレンの音がする。消防車だ。
「本当に火事?」
窓を開けると、空が真っ赤に燃えていた。しかし煙はどこにも見えず、火の粉が飛んできたりもしない。りん子はベランダに出て、あっと声を上げた。
赤く見えたのは、消防車のランプだった。小さな消防車がいくつもいくつも、空から降ってきているのだった。
「すごい。消防車の雨だわ」
伸ばした手の中に、一台ぽとりと落ちてきた。梯子やホースまで精巧にできていて、窓の中には運転席もある。そんなおもちゃが次から次へと、サイレンの合唱をしながら降ってくる。
「クリスマスプレゼントかしら。こんな時期に」
感心していると、頭と爪先にごつごつと当たり、赤いランプが回った。じんわりと痛みがやってきて、りん子は我に返る。
おもちゃとはいえ、金属の塊を大量にばらまくなんて危険だ。
どこの配送業者だか調べてやろうと思い、りん子は自転車用のヘルメットをかぶって外へ出た。
アパートを出てすぐの道に、誰かが立っている。薄着で頭はむき出し、傘もさしていない。体中を消防車に打たれているが、一歩も動こうとしない。
「修行でもしてるのかしら」
りん子はそばまで行ってみた。夜の闇の中、顔はよくわからないが、すらっと背の高い女性のようだ。サイレンの音に負けないよう、りん子は声を張り上げた。
「もしもし!」
女性は振り返った。大きな目と口が街灯に照らされる。
「りんりんじゃないの、久しぶり」
親しげに言い、笑った。夜中にこっそり空を抜け出してきた太陽のように、強く明るい笑みだ。
「陽子さん?」
知っている人だとわかると、この奇妙な光景も目に馴染んでくる。コンクリートに落ちた消防車が泡を吹き出しているのも、なんだか可愛く思えてきた。
「弟たちに会いに来たんだけど、ちょっと寄り道してみたの」
「こんな夜中に?」
「りんりんのことだから、きっと起きてるかと思って」
りん子は肩をすくめた。外国で仕事をしている陽子は、細かいことを気にしない。頭に消防車が当たり続けていても、足に泡をかけられていても構わないようだ。
「やっぱりこの町はいいわね。月ノ介と風太はどうしてる?」
「二人とも元気よ。ねえ、痛くないの?」
陽子の頭に三台続けて消防車が当たった。一つは梯子が下向きになり、かんざしのように刺さってしまった。
「ああ、これね」
陽子は乱れた髪を直し、消防車を手に取った。懐かしいわ、と言う。
「昔はもっと大きい車も降ってきたのよ。タンクローリーだったかしらね。風太が下敷きになって、月ノ介が爆破して助けたわ」
「どこから降ってくるの?」
「そうね……いいこと考えたわ!」
陽子は消防車をポケットに入れ、さらに二つ受け止めて反対側のポケットに詰め込んだ。頭の上で弾んだのを鼻でキャッチし、同時にもう一つ口でくわえ、さらに両耳でも取ろうとしたので、りん子は慌てて手伝った。
「拾えばいいの?」
「落ちたのはだめ、壊れてるかもしれないから」
陽子はひょいひょいと消防車を受け止め、ブラウスの裾に溜めていく。りん子は右へ左へ体を傾けながら、どうにか両手いっぱい分の消防車を集めた。ヘルメットに当たって壊れてしまう車もたくさんあった。そのたびに鋭い音と光が飛び交い、頭蓋骨がすり減るような気がした。
「そろそろいいわね。りんりんも来る?」
「えっ、どこに?」
「私の仕事先」
陽子はそう言い、宙にくるりと丸まった。頭と手足を服の中にうずめ、目にもとまらぬ速さで回転する。金色のプロミネンスが現れ、消えた時には、陽子の姿は小さな太陽に変わっていた。
「さあ、私につかまって」
「熱いんじゃないの?」
「熱いわよ」
太陽の真ん中に陽子の顔があり、からかうように笑っている。りん子はむっとして、太陽の周りのぎざぎざした部分を両手でわしづかんだ。バスケットボールくらいの大きさだが、確かに熱い。できたての味噌汁と同じくらい熱かった。
「飛ぶわよ!」
太陽はゆるい曲線を描いて浮かび上がった。りん子の足が地面を離れ、宙になびく。冷たい夜風が頬をかすめ、パジャマのシャツとズボンが膨らんだ。町のきらめきが星のように流れ、遠ざかる。あまりの速さにりん子は両手の熱さも忘れた。
「陽子さん、消防車が!」
赤い空から、群れになって落ちてくる。りん子は思わず目を閉じたが、不思議なことに何も感じなかった。肩や背中に消防車が当たっているのはわかったが、痛くもかゆくもない。ランプの光だけを浴びているようだった。
消防車の雨をあっという間に抜け、繁華街の上空を飛び、線路をまたぎ、森のざわめきを耳に残したまま、飛行機の灯りを追い越し、ようやくたどり着いたのは小高い丘の上だった。なんだか香ばしいような、焦げ臭いようなにおいが漂っている。
りん子は乾いた草原に転がり、太陽は陽子の姿に戻って傍に降り立った。あそこよ、と少し離れた場所を指さす。そこには赤茶色の草が密生していた。
「あそこがどうかしたの?」
「火事よ」
よく見ると、草むらのように見えたのは小さな町で、赤く見えるのは家やビルが炎を上げているせいだ。本当に小さな、ビーズ細工のように小さな町が、周りの草地をわずかに照らして燃え盛っている。逃げ惑っている人がいるのか、それとも町がひとりでに燃えているのか、外から見てもわからなかった。
「りんりん、消防車出して」
「陽子さんの仕事って、こういうことだったのね」
集めた消防車を足元に置くと、一斉に走り出した。サイレンを鳴らし、ホースを掲げ、勇ましく火事現場に近づいていき、白い泡を吹き出した。豆粒のような人が乗っているのか、ホースが勝手に動くのか、こちらもまったくわからない。
小さな町は泡だらけになり、埋もれて見えなくなってしまった。仕事を終えた消防車たちは方向を見失い、押し合いへし合いをしたり、町に乗り上げたりしている。これじゃ火事よりひどいじゃない、とりん子は思う。
「こんな町がいくつもあるの?」
「そうよ。困ってる町を見つけて助けるのが私の仕事」
陽子は胸を張って言った。
果たして町の人たちは陽子をヒーローだと思っているのか、ただの迷惑な巨人だと思っているのか、そもそも町に人がいるのかさえわからないので、確かめようがなかった。
しばらくすると、消防車たちは空へ引き上げていった。赤いランプが回り、夜空に尾を引いて、思い思いの方角へ飛んでいき、やがて消えてしまった。
町があったところには、泡の跡だけが残っていた。