〜日常のささやかな想い〜
例えばの話。
一人の師と一人の教え子が居たとする。
何でも自分の思うがままに物事を成してしまう師と、まだ弟子入りしたばかりで右も左も分からぬ未熟な少女だ。
少女は毎日修行に明け暮れ、今の自分の人生をそれに全て費やしていた。
天才の称号にふさわしい師。
師の志すものを常に胸に留め、いつか自分もああなりたいと師を目標にしつつ……
さて。
ここはその師の家のリビング。
部屋の中央に置かれている木製のテーブルを挟んで、師と少女は向かい合ってソファーに座り、何やら雑談をしていたーー
「……………………」
ーーのは、つい今しがたまでの事。
「…………で?」
一瞬の沈黙を、少女は重々しい口を開いて破り、呆れた表情で師を見つめた。
「結局今の話には、一体どのような意図が?」
若干前に上体を乗り出した少女の動作と比例し、金色の髪がさらりと揺れる。
年頃はまだ十代半ばであろう。
華奢な体つきに、背丈も低め。
そして幼く見える面立ち。
だが、その大人びた言葉遣いと落ち着いた物腰は、少女の面影を遥かに凌駕する。
対して。
「う~ん……えぇと……」
腕を胸の前で組みながら、大して悩んでる訳でもなく悩んでいる様子なのは、見たところ年齢が三十に届くか届かないかの女性である。
首を右に左にと傾げる度に、彼女の長い銀髪も一緒になって左右に揺れる。
「そうねぇ……それって言わないと駄目なのかしら?」
端正な身のこなしとは裏腹に、大人の女性には程遠いうるんとした上目遣いで尋ねる彼女。
しかし、年の割には妙に子供っぽいその仕草が、何故か妙に似合っていた。
彼女の人柄が、元々持つ天性なのであろうか……
「駄目というより、私はそれを聞く事に意義があると思うんです」
少女は相変わらず冷静な態度で対応した。
どうやら彼女のそう言った仕草や行動は、少女にとっては日常茶飯事みたいである。
「それは、何故かしら?」
「……失礼な事かもしれませんが……今のあの話は、どう解釈しても私には単なる無駄話としてしか受け取る事が出来ないんです。今はそんな話をする余裕なんてないと思うんですけど……」
「確かに、貴女がそう思ってしまうのも無理はないわ。でもね、あの話は決して無駄話なんかではないのよ?」
「え?」
師の意外な言葉に、少女は珍しく目を丸くした。
「で、では……今までの話には何かちゃんとした意味があったのですね?」
「いいえ」
少女の微かな望みという名の問いかけに、師は間髪入れずに否定した。
「あの話自体に、話の主旨や私の意図は全くと言っていい程ないわ。だってあれは、単なる例え話だったんですもの」
「…………?」
師が何を言いたいのかがサッパリ分からず、眉を顰める少女。
「ただし、単なる例え話の中にも、そこには必ず存在理由というものがあるのよ」
「あの……」
「分からないかしら?」
「はい……」
申し訳なさそうにする少女の態度を見ると、師はすっと立ち上がり、部屋の奥にある本棚へと歩み寄った。
「…………」
数え切れない程の数がある本の山の中から、少しの迷いもなく一冊の分厚い本を取り出すと、再びソファーに座り直す。
おもむろに本を開くと、少女が見やすいようにテーブルの上へ位置を正す。
「あのね、この本の中に出てくる登場人物達は、たとえこの現実世界には存在しなくても、本の中ではちゃんと生きてるでしょ?」
「はぁ……」
出された本と目の前に居る師とを交互に見つつ、少女は曖昧な相槌を打つ。
「この本の内容は御伽話、要は作り話よ」
彼女はのんびりとした口調で言う。
「でも、この中で生きている彼らの生命の鼓動は、信じられないかもしれないけど、ちゃんと動いているわ」
「…………」
少女は黙々とその分厚い本を眺め、そして読んだ。
ページを捲っては眺め、そして読む。
そんな事の繰り返しを、しばらくの間行っていた。
師の言うとおり、確かにこの本の中には彼らの生命があった。
そして動いていた。
本の中の住人は共に笑い、抱き締め合い、喜びを噛み締め合っていた。
だがそれと今までの話と、一体何の関係があるというのだろうか。
これは単に、師の趣味を自分に押し付けてるようにしか見えないのだが……
大体、この部屋に一体何十……否、何百冊の絵本があると思っているのだ。
それらは全て師の私物だ。
これはその中の一冊に過ぎない。
(こんな絵本を見てたって、私もうそんな歳じゃないし……)
「あともう一冊くらい、何か別の面白い絵本でも持って来ましょうか?」
呆れた顔付きで本を見ている少女に、師は何故か嬉しそうに提案するが、
「結構ですっ」
即座に否定された。
それも力いっぱい。
(面白くも何とも感じないわよ……)
少女の言葉に師は少しだけ苦笑し、静かに立ち上がった。
そのまま無言で、本棚とは反対の窓際の方まで歩いて行く。
晴れ渡る昼時の青空を、彼女ーークレアは部屋の中から窓越しに見上げつつ、そして少女に言った。
「つまりね、リア。どんなに小さな命であっても、どんなに儚い命であっても……そう、たとえその命が人間の手によって作られたものであっても、『所詮』などと言って馬鹿にしてはいけないものなのよ……」
そう語る彼女の背中は、何故か酷く哀しそうに見えた。