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「ん~、んんんn」
ミドガルド空港に降り立ち、ジルは伸びをした。蒸し暑い熱気に人のざわめき。イグナストの都会の喧騒とはまた違った騒々しさには目を見張る。何だかんだ渡航に乗り気ではなかったジルも、いざ新天地に降り立ってみれば、はしゃぎたい衝動にはどうしようもなくあらがえない。
当たりをキョロキョロ見回し、色とりどりのカラフルな装いの旅行者たちの間をまるで息するかのように這いまわる原色の緑に目を引かれ、触ってみると弾力のある瑞々しさに驚く。スンとする香りは単なる草独特のようでもあり、ヨモギのような苦みがあるようにも思われた。本物だと分かると、それが何の蔓なのかとジルは気になって仕方がない。
主人たるエルヴンに問おうとすれば、彼は相変わらず無感動な面を下げて一瞥もくれず自分の横をすたすたと通り過ぎようとしている。慌ててジルは荷物を担ぎなおした。
「重っ、」
「床を引きずるな」
「じゃ、卿もどれか持ってくださいよ」
「生憎、手は塞がっている」
何を? 両手ともポケットの中ではないか。
ジルは恨めしそうに、睨んだ。
ほぼ全部、エルヴンの荷物だ。腕と肩がちぎれそうに痛い。旅の間中、こうやってこき使われるんだろうなと思うと溜息が出る。
先を歩いていたエルヴンが立ち止った。
前方には、なるほどイミグレーション(入国手続き)のブース。比較的治安が良い筈のミガでも帝国外に国境を接するため審査は厳しい。外国からのテロを警戒してか、入国手続きの他に再度、出国時と同じように身体検査と荷物検査が行われているようだ。かなり時間をかけているらしく長蛇の列はなかなか進みそうにない。
「ちっ」
忙しい気質のエルヴンが舌打ちをした。列を無視してブースにいきなり割り込んでいく。
「え、ちょっとエルヴン卿!」
ジルの制止もむなしくエルヴンの行動は早い。当然、空港職員につかまり警備と警察まで出てくる始末。
「待って、すみませんすみませんっ」
仕方なく、ジルも駆け寄って頭を下げる羽目になった。首からかけてあったパスポートをエルヴンと一触即発しそうな険悪なムードの、おそらくは一番偉いであろう職員に見せる。
エルヴンはその間も不機嫌だった。殴りたい。
じっと見ていた職員の顔色が変わる。
胡散臭いものを見るような目つきだったのが、戸惑うように意味ありげにジルとエルヴンの間を交互に揺れた。とりあえずまだ物わかりが良さげに見えたのだろう、ジルに幾つか質問を重ねた。
「はい、はい。イエス、イエスイエスイエス、」
「お前、適当に返事してないか?」
「エルヴン卿黙って、話がややこしくなります」
余所行きの笑顔を張り付けたジルは、主人の言葉を無視した。
「ですが、いかなる理由においても、このまま検査なしに通過していただくわけには、」
丁寧ながら、職員は困ったように頭をかいた。
「む、無理でしょうか?」
無理を承知でお願いしているのだが、予想通り相手の反応は鈍い。
ジルが職員に提案したのは、優先的かつ速やかなイミグレーションブースの通過。
すなわち、身分証掲示による審査の簡略である。身体・荷物の如何に問わず職員の手による検査を受けずにミガへ入国したいと言う、とんでもない我が儘を言っているのだった。
理由がある。エルヴン・ガンダルヴァは魔術師。彼の身に着けているものや、ジルが持たされているボストンバッグ四つ分の荷物などは、言ってしまえば色々怪しいのである。
出国する前に確かめた中には、刃物こそなかった。が、薬品の小瓶に何らかの獣の骨、スコップ・ヘラ・荒縄・拷問道具にしか見えないモザイクモノの数々……。
出国時こそ、清らなる母エヴァノアの計らいとエルヴンの数々の肩書で何とかなったものの、ここ帝国における彼らの権威は期待できない。
見つかれば追求必至だ。
ジルはここぞとばかり、上目づかいで目をぱちぱちさせる。庇護欲をそそられるよう両手を組んでできる限り品をつくってみたつもりだが、脇で如何ともしがたい微妙な眼差しをエルヴンが向けているのに気付いて、少々顔を赤らめた。だ、誰のせいでこんな辱めを受けていると?
エルヴンがちっと舌打ちして、職員の胸ぐらをつかんだ。
「おい、早くしろ。リンヒェルじゃ爵位持ちの出入国は自由の筈だ。男爵と子爵様だぞ。お前ら不敬罪でこの場で八つ裂きにしてやろうか」
「エルヴン卿、何て事っ。もう、もーったら、もうっ!」
顔の特徴がなくとも、上背があるので頭一つ分高いところから凄むエルヴンにはそれなりに迫力がある。周囲が再び騒然となるのに、ジルは焦った。
「何事か?」
騒ぎを聞きつけた新たな一団が現れた。男ばかり数人の集団だ。
一団を一目見て、ジルは急いでエルヴンから職員を放した。
ごほごほと、むせ込んだ職員が横目でジル達を睨んだが、それどころではない。
一見して、空港関係者ではないと分かる人間たち。職員のようにミガの気候に合わせて吸湿性の高い裾長のカミーズを着ているわけでもなく、あるいはウェストランドのネクタイに腕章付の白シャツをきた警備員でもない。
襟周りから胸元まで金糸銀糸の刺繍。もちろん生地自体も分厚く豪奢でいて、膝を隠すほど長いシャルワニと呼ばれる衣を一様に着込んだ男たち。露出は少なくとも、体型や身のこなしから鍛えられているのが容易に伺えた。
「何事かと聞いている」
落ち着いた低い声がジル達を見やり、職員たちへと近づいた。
その中の一人とばっちりジルは目を合わせてしまった。まずい。隠れようにも、すっかり機嫌を損ねたエルヴン卿は不貞腐れて冷たい。盾にしようとしたのが、逆に背中を押されて矢面に立たされてしまった。
「ごほ、いや監察官殿、何でもありませんで」
空港の職員たちも、彼らを相手とするには荷が重いのだろう。まごまごと恐縮し通しで、全員で大したことはなかったように、取り繕い始めた。
「お通しして」
しめた。リンヒェル本国の監察官が割り込むことでの騒動の肥大化を嫌った職員たちは急に笑顔になって、ジルとエルヴンをブースへ誘導しだした。
これに倣わない手はない。ジルはいそいそと荷物を持ちなおした。
「待て、その二人は検査を受けていないだろう。なぜ通す?」
「はひっ。それはその、」
びくっと思わず姿勢を正してしまった職員は何とか場を凌ごうと揉み手だ。
「先日、緊急安全宣言をミガ公が出したばかりだ。公国への出入国には厳正たる規制と制約を設けたはずだ。確たる理由もなく、ミドガルド空港は旅行者を素通りさせるわけか?」
目があったのとは別の、いかめしい顔つきの監察官がジル達の前に立ちはだかるように腕を組んだ。よく日焼けした武人といったところか。筋肉で筋張って見える首には刺青が彫ってある。リンヒェル帝国、本国でも有数の名家である貴族の称号だ。
ジルはざっと他の人間にも目を通した。
最悪だ。本国の監察官というだけでも面倒なのに、全員どこかにいづれかの貴族称号があった。
中でもニヤニヤずっと笑っている男が屈んでジル達の荷物をつついた。
「これ何が入ってんの? あっやしぃー♪」
「おい、下品な真似は慎め」
「えー、だってこの二人怪しくない? なんか荷物多すぎるし? 服にも色々入れてるよねぇ。何だろうなぁ」
気持ち悪いニヤケた男はそういって、ジルの服にスンスンと鼻を鳴らした。
「ぐ、」
おい馬鹿止めろ。匂うのはエルヴンの香水であって断じて私ではない! そもそも、服装はエルヴンに比べたら大分まともだ。どこにでもいる、ゆるふわ系(を目指している)ガールだ。
エルヴンよりも先に自分を疑われているのではないかと思えば、さすがにジルも憤慨しそうだ。どうみても怪しいのはエルヴンの方だと、口に出したい気分だった。
エルヴンはと言えば、こちらも既に切れかけてはいたけど。
「グラス、止めておけ。我々の仕事を引っ掻き回すようなら、お前も船で本国へ送還させるぞ」
「げ、それまじ勘弁」
猫背をそらして、グラスと呼ばれた男が体を退かせた。
代わって、厳つい刺青の男が二人に更に詰め寄る。
「お前たち、何者だ。 名乗れ」
「こ、この方たちは、リンヒェル帝国の男爵様と子爵様で――」
「職員準一等官、俺は本人に質しているのだ」
「は、も申し訳ああありませんっ」
平身低頭、そそくさと職員は後ずさった。他の同僚たちも旅行者も共に遠巻きに、こちらを見守るばかりだ。
促されてしぶしぶ出したパスポートに監察官たちの視線が注がれるのに、ジルは内心冷や汗をかいた。
刺青の男の肩越しに盗み見ていたグラスが、口笛をふく。面白いものでも見つけたように目を爛々とさせて後ろの仲間を振り返った。
「あっれー、ヴィーとおんなじ名前じゃん。ハネス子爵様だってさー、知ってる? 親戚じゃないの? ヴィー」
だあああああああ……⁉ ばれる?! いやばれた?!
途端、ジルはのたうちまわりそうになった。ぎぎぎ、と油の切れたブリキのようにぎこちなく首をひねって、ヴィーと呼ばれた男を探した。その男は目が覚めるような冷たい美貌と瞳を持った、一団の中にあってはひときわ目を引く青白い肌の若者だった。
エルヴンがジルにしか聞こえない程度の嫌味ったらしい舌打ちをした。
「知りませんね。私の家はハネス侯爵家ですが、一族全てにおいて子爵などという称号を持つ血縁など存在しません。ましてハネス侯爵家があるというのに、ハネス子爵を名乗るなどとは恥知らずの極み」
ヴィーのジルを見る目は冷え冷えとしていて、知己に向ける類のものではなかった。
グラスがニタニタして、ジルをつついた。
「ふーん、それって怪しいよねえl。こっちの男爵のお兄さんもガンダルヴァなんて聞いたことないしー。ねぇ、これってさもしかして?」
意味深な物言いは、明らかに二人のパスポート偽造を疑うものだった。
ジルの頭にはもう『最悪』の二文字しか浮かばない。
「いえ、ガンダルヴァについては聞いたことがあります。エルヴン・ガンダルヴァ。正確にはエルヴン=ヴァジュラ・ガンダルヴァ。魔術学の権威として名誉称号を下賜された異民族と記憶しています」
青白い肌の青年が口にしたことで、へぇと、グラスと厳つい男が顔を見合わせた。
パスポートを閲覧していないヴィーの言葉通りの事がそこに書いてあったからだ。
「ヴィー、他に何か知っているか? 身体的特徴がいい。服に隠れて見えないところになにかあるか」
厳つい方が、エルヴンを捉えたまま、後ろに問いかけた。
ヴィーが考えるように口元に手を当てるのに、ジルはハラハラした。
「玻璃の民」
ぼそりと呟いたヴィーの視線は、ローブの中に隠れたエルヴンの頭部に向けられていた。
その場の全員の視線がエルヴンに集中する。
「ちっ。おい、得物を貸せ」
盛大に舌打ちをして手のひらを上向けるエルヴンに、刃物を渡すものはいない。
「何をする気だ」
厳つい男がさらに険しい顔つきを作り身構えた。
「しようとしているのはお前らだろうが。確かめるならさっさと済ませろ」
「それなら、俺が切ってあげる。あーでもどうせ切るんなら野郎のじゃなくて、そっちの女の子の髪がいいんだけどなぁ♪」
とか言いながら、ニタニタ笑いのグラスがエルヴンの後ろに回った。
ローブを外し、露わになった首筋に左手を添える。何も持っていなかった筈の手には、軽く一振りしただけで次の瞬間には小さなナイフが握られていた。
「うわ、いい匂い♪ 髪質も女の子みたいに柔らかいし、変な気起こしそう」
すんすんと、鼻を鳴らしてだらしなく笑うグラスには、見ているだけのジルでも嫌悪感で吐き気がする。男が男に身もだえするような様は異様にしか映らない。
「んでは、やっちゃおうか」
さくっと刃が入った。
短い髪の毛がパラパラ床に落ちる、のを見届ける前にグラスが地面に叩き付けられていた。
ポカンとするグラスは自分に起きた出来事を把握できずに、間抜けな面をさらしていた。
「貴様っ」
一団が殺気立って、エルヴンたちを取りかこんだ。
なし崩しに一緒に包囲されてしまったジルは、随分きれいな背負い投げが決まりましたね、と主人に胡乱な眼差しだ。
「お前も俺の立場なら、必ずしでかしてるぞ」
「否定はしません」
「やめないか! 見ろ」
ヴィーが叫んだ。指指した先には胡坐をかいたグラス。
床にキラキラ光る物をつまんでは高いところから落として彼は遊んでいた。
「きっれー、石みたい」
その琥珀のようにも見えるキラキラが、魔術師エルヴンの茶色い頭髪と同じ色味であるのに気付いたものから順に、慌てて帯刀を収めていく。
「結晶化なんて初めて見たよ。髪ひとすじひとすじで固まるんじゃないんだねー。溶けたようにくっついて固まってくのか」
感心するようにつぶやくグラスの後を、ヴィーが言を継ぐ。
「玻璃の民といえば希少な民族。まして、この髪は偽装しようがない。エルヴン男爵で間違いないでしょう」
「なるほど、疑ってわるかったな」
肩を叩かれ、エルヴンはけっと不機嫌そうに腕を組んだ。
ジルはほっと胸をなで下ろした。
のもつかの間、矛先はジルに向かった。
「じゃ、ま、おにいさんは置いといて、その子は」
「そうだ、この娘はどうなんだ? ハネス家というのにヴィーは知らないんだろう?」
げ、ヤダなにこれ。ジルは歪な笑みを浮かべて明後日の方向をみた。
青白い肌のヴィーは神経質そうな薄い眉を片方だけ吊り上げた。
「ハネス家の血縁には確かに子爵は存在しませんが、同行のエルヴン男爵が異民族の名誉貴族である事実を踏まえれば、同じように功績を認められて子爵位を承った一般人ではないですか。興味ありませんが」
「つまり、たまたまハネスの名を持つ一般人が名誉爵位を貰ってハネス子爵になっちまったと? そんなことあるのか」
厳つい男の疑問には答えず、ヴィーはいつの間にか床に落としていたジルのパスポートを拾いあげた。
「パスポートに細工はありませんね。プレートで作ってあれば立体映像を記憶している筈なのですが。紙製となれば読み取り機にかけても、何も出てこないでしょう」
「どっちさ? 白ってわけー?」
「限りなくグレーに近い白ですが、ああ、やはり名誉称号です。称号条件はイグナスト旅行記の作成と出版と書いてあります」
ページの最後を捲ってヴィーがそこまで言ったときに、えっと誰かの驚くような声がした。
遠まきに聞き耳をたてていた旅行者の一人だった。注目され緊張しながらも好奇心に勝てないのか、おずおずと出てきて口を開いた。
「あの、この本、持ってます。せ、先生がお書きになったのですか?」
胸ポケットから出した文庫サイズの本は、イグナスト旅行記、著者の名前はないが、確かにジルが執筆したものだ。
頷くと、ほっぺを紅潮させて、ぶんぶん握手をされた。
「サインを!是非っ」
「わ、私も持ってます」
「私も」
一人が勇気をもって踏み出したことで弾みがついた場では、旅行者が次々に握手とサインを求めてジルに殺到した。監察官たちもジルも唖然とするほかない。
「ということは、こちらが例の、暴君俺さま魔法使いなのね?! 確かによく見ると素敵よ、キャアっ」
「ねぇ、なんていい香りかしら、香木の香りよ! イグナストで焚き染める習慣のある白檀だわっ」
「イグナスト最大の湖レイクキャストの名物クジラは、魔法使いさまのペットが大きくなったものですよね! 知ってます。見てきました!」
若い娘がこぞってエルヴンの元にまで押し寄せている。キャッキャ黄色い声に対応しきれずエルヴンは耳を防いでいたが、ものともせず乙女たちは突っ込んいる。
本来の職務を思い出して、列を乱さないでくださいー、と慌てる職員たちがどうにか旅行者を誘導させようとするも、自称ファンの女の子たちは揺るがない。
なんで、先生が通れないのか。先生が危険人物なはずがない! 手荷物検査? 先生たちが持っているのは爆弾ではなくて次回作の資料に違いないわ! 先生の手を煩わせて次回作の発表が遅れたらどう責任を取るつもりか!? 先生を通してくれないなら、私たちも入国を拒否する、とまで言い出したのだ。
「なるほど。作家さんねぇ。これだけ証人もいるなら、本物ってことにしとく?」
今までニヤニヤ笑いを崩さなかったグラスが、呆れ混じりに肩をすくめた。
「通すしかないんじゃね? このままだと、俺たち大顰蹙買うだけじゃすまなさそうー」
女の子の圧倒的なパワーと数に押され、居心地悪げにしだした監察官たち。グラスの言葉に半分以上のものが同意を求めるように頷いて、リーダー格であろう厳つい刺青の男の顔色を伺う。
視線の中心の男はいまだジル達に懐疑的だったが、予期せぬ混乱に致し方ない、と結論づけたようだ。ヴィーから、引っ手繰ったパスポートをジルの胸に押し付けて、行けというように手の甲を振る。
「ぼけっとするな、ジル! 置いていくぞ」
まとわりつく女の子たちの腕を振りはらったエルヴンは、フードをかぶり直した。いち早く面倒事を抜けたいと速足だ。
「待って、もう、荷物一個くらい持ってくださいよ」
よたつきながらジルは背中を追いかけた。
「ジル?」
グラスが首を傾げた。
「やっぱ、通しちゃまずかったかも。そんな名前じゃなかったよね、あの子」
「ただの愛称でしょう?」
ヴィーは取るに足りない些末な出来事と、鼻で笑った。
「思わぬ時間を食いました。さぁ、我々も手続きを済ませてしまいましょう」