序
『――浅はかな、』
振り向く亡霊、冷ややかな一瞥。
待って、待って嫌です。待って……!
風が吹きすさんだ。意識が一瞬、あの広間に引き戻されそうになる。
ジルは立ち尽くしていた。
空を睨む。荒野の上。
乗っているのは、―――――――――。
早朝のことだった。
ラジオの音に埋もれて聞き逃しかけた言葉に、ジルは顔をあげた。口回りを、頬張っていたゼリーサンドのクリームで汚した容貌は、年不相応に行儀悪く幼く見える。食卓の右隣にいたカールに手渡されたガーゼで拭きながら、ジルは男を見つめた。
「私も同行するんですか?」
「そう言っただろう」
戸惑いを含むジルに男は無愛想だ。食卓の家長席にどっかりと腰を下ろし、時折あくびをしてはサラダをつついている。
男の名はエルヴン・ガンダルヴァ。ジルが住み込みで働く屋敷の主人にて、ジルの名付け親でもあり、師でもある青年。これといった特徴もない顔立ちだが、全身を薄紫色のローブとそれに焚き染めた香で包んだ、いわゆる魔術師然とした恰好をしており、事実魔術師である。
はて、とジルは考え込んだ。
ただいまは朝飯時で、一家四人と一匹がそろって食卓についていた上での話事であった。
いつもながら女房的役割を担うカールに起こされたジルが、カールと共に食事の調理を手伝い、準備を終えるころに匂いを嗅ぎつけた猫が七歳児を口に咥えてご登場。そして食べ始めた最中、流しっぱなしにするラジオニュースがお天気お姉さんのコーナーになったところで、ようやく家長エルヴンが席に着くという普段通りの朝であった。
エルヴンはサラダだけをつつき、一緒にセットしてあったハムエッグを皿ごと猫にくれてやっていた。
ジルはすっと目を細めた。今日はうまく作れたと思ったのだけど、エルヴンの目にかなわなかったようだ。
「あ、また残してるー!」
食べたい盛りの七歳児が好き嫌いはいけないんだぞ、と騒ぎ立てついでに自分もおこぼれを貰おうと猫と張り合おうとするものだから、ジルとカールは割と厳しめに少年を叱った。
結局、貰い損ねてぐずる七歳児にカールが自分の分を半分与えるのを横目に、ジルは師にもう一度問うた。
「どういうことですか?」
少女というには些か図々しく成長を遂げたジルの耳に、ちっ、と舌打ちが届いた。
「行くのはミガ公国領、帝国の片田舎の領地だ。でここはイグナスト共和国。帝国に出かけるんだからお前を連れて行った方がビザが通りやすいたろうが。今回に限っては餓鬼を連れていけねぇ」
「……そりゃ私、帝国出身ですけど。でもエルヴン卿だって帝国の爵位持ちじゃないですか」
エルヴン・ガンダルヴァには魔術師の他に色々、肩書がある。怪しげなものから比較的まともなものまで数知れず。ジルも全ては知らない。が、リンヒェル帝国からエルヴンに男爵位が授けられている、というのはジルにも聞き覚えがあった。
「というかいきなりすぎます。私にも予定があるんですよ?」
「ああ? 駄々こねる気か? つか、おま――」
「彼女のお願いでしょう?」
割り込んだカールの言葉は決して大きな声ではなかったが、場が静まり返った。
カールは飲み干したカップをカチャンと皿に置いた。おかわりをポット片手に注ぐ様は特に何の感情も見いだせない。
「この人が働くなど、あの方のお願いの他にありません」
一切目を合わせず淡々と告げたカールに、エルヴンが鼻白んだ。
その様子をみてとるや、ジルは
「またですか」
と顔をしかめる。
脇にいた七歳児がジルの眉間を指さしてシワのシを言わんとしたところで、カールが素早く子供の口に卵サンドを突っ込んだ。こういうカールの気遣いが、ジルはとても大好きだ。
さる高貴な女性に、エルヴンは入れあげている。当代の清らなる母エヴァノアである。ある公的集団の象徴にして統率を行う機関及びその筆頭を、初代エヴァノアの名を冠してそう呼ぶのであって、本当の名前や出自などは一切不明。
ジルは会ったことはない。が、エルヴンやカール、風の噂を聞く限りでは、彼女自身はまだうら若い娘であるそうだ。先代の苛烈な美貌に比べれば劣るものの、玲瓏たる美しさに親派ならずとも懐疑派までもほめそやす声が高いとも。その懐疑派の一人こそエルヴンであったが……。
エルヴンはエヴァノアの頼みであればなんでも引き受けてしまう。現代において希少な魔術の使い手であるとともに歴史学・神話学に明るい故、何かと助力を請われる機会も多い。
今では『エヴァノアの最愛なる子』などと新しい肩書まで増えてしまっている。
正直、ジルはイラッとしていた。
「ミガ公国領ってたしか魔導関連の遺跡がありましたね。あちら様が好きそうな……」
棘のある言い方に、エルヴンがまた舌打ちをした。
フォークの先がジルに向く。
「今すぐ消し炭になるのと大人しくこき使われるのとどちらがいい?」
でた、横暴。首を振ったって無駄だ。
ジルは口をつぐんだ。
代わりにカールが口を開く。
「私の方がいいのでは? ジルには家での仕事をさせた方がいいと思いますが」
「いや、餓鬼の事もあるし家のことは全部お前に任せる。こいつに任せるのだけは嫌だ」
「分かりました。では私はお帰りをお待ちしましょう。ジル、エルヴンのこと頼みました」
事務的にしか話さないカールは、話は終えたと席を立った。エルヴン卿の旅に必要なものを後で居間に一通り揃えておくと言う、彼女の後ろについていくように、まだモゴモゴ食べている猫と七歳児も並んで立ち上がった。
いつの間にかエルヴンも消えて一人になったテーブルに、ジルは鬱屈した気持ちごと抱えるように両腕で頭を抱えた。
浮かぶのは、母と弟の姿。幼い自分。
吐き気がした。帝国内とはいえ、ミガ公国領であれば端の端。そう言い聞かせる自分はまだ大人にはなりきれてない。
書ききれるよう頑張ります。
遅筆。