プロローグ
「おやすみ、紫乃」
ようやく妹が眠ったのを確認すると那奈果は静かに自分の部屋へと向かう。
昨日ようやく1歳になったばかりの妹の世話は那奈果の仕事だった。
部屋へ戻る途中ふと、廊下に飾られた古びた時計に目をやる。那奈果が小さい時流行ったアニメのキャラクターがプリントされている。しかし今ではきっと知っている人も少ないだろう。当時は両親に泣きついてまで欲しがった那奈果自身、今ではキャラクターへの興味は薄れていた。
この時計自体、すぐに遅れるため、しょっちゅう合わせ直さなければならない。
そんな話しをすると友人達は理解できないとでも言いたげに首を傾げる。
「新しいの買えば?」
そう何度も言われた。
那奈果には、別にお金がない訳ではない。ただこれが両親から貰った唯一の送り物だった。
その両親の顔はもう三ヶ月以上見ていない。昨日は、もしかしたら帰って来てくれるかも知れない。そんな淡い期待も抱いたが、結局は期待に終わった。そもそも二人が娘の誕生日を覚えているかさえ分からない。
そう考え、ハッとする。
疲れているのだろう、そう思い自室の扉に手をかける。
ガタン
どこかで何かが落ちる音が聞こえ、やがてか細い赤ちゃんの泣き声が一瞬してすぐにやむ。
「私、紫乃のベッドのロックをかけ忘れた?」
那奈果は悪寒を感じた。
まさかね、そう自分に言い聞かせるが、結局気になってしまう。
最近寝相の悪い紫乃は、よくベッドから落ちては泣いていた。しかし、今日に限ってはほとんど泣き声を上げない。
そのことが、一層不安に感じられた。
今来た道をゆっくりと戻る。
大したことは無いはず。
早く紫乃をベッドに戻して自分も早く寝よう。
明日は、紫乃を保育所に預けて久しぶりに友達とカラオケに行く約束をしていた。
ゆっくりと妹の部屋の扉を開く。
開け放たれた窓からひんやりとした風が吹き込む。
窓際におかれたベッドにはやはり紫乃の姿はなかった。ベッドの下に落ちているのだろう、そう思い視線を下に下ろす。
刹那。
何かが崩れ落ちる感覚。何が起きたらこうなるのだろう、ほんの数分前には予想さえ出来なかった。絶望という言葉さえ可愛く感じる。
そう思うほど紫乃の状態は最悪だった。
頭から落ちたのだらう石榴の様に砕けた頭部からダラリと眼球がこぼれ落ちている。
ぬめ
生暖かい感触が、足元を覆う。
ぬめぬめ
もはや声も上がらない。
ぬめぬめぬめ
紫乃の目が那奈果を見つめる。
ぬめぬめぬめぬめ
全身から、力が抜けガクンと倒れる。
気づくと目の前にキラリと光る物を見つけた。それが、カッターナイフだと気づくのに時間はかからなかった。
那奈果は無意識にそれを手に取ると、ゆっくりと首に当てるとヒヤリとした感触。
ぐちゃり
あぁ、あっけないなぁ。そんなことを思いながら那奈果はナイフを抜き取る。
一瞬血が霧の様に吹き出すさまを見つめ、床に横たわる。
目の前に明日遊ぶ筈だった友人の顔が過ぎる。
「私みたいな人生でも………やっぱ走馬灯って過ぎるんだ。」
部屋の外から、小さな時計の音が聞こえ、やがて静かに止まる。
それが那奈果の聞いた最後の音だった。