下着泥棒を捕まえたら、盗まれていたのは俺のパンツだった
最初の一枚は、風だと思った。
ベランダに干していたボクサーパンツが一枚なくなっていた。
まあ、そんなこともある。
ここはマンションの五階だが、風の強い日だった。どこかへ飛んでいったのだろう。
二枚目も、そう思った。
三枚目で、さすがにおかしいと思った。
四枚目で確信した。
誰かが俺のパンツを盗んでいる。
「……なんで?」
自分で言っておいて意味が分からない。
女性物なら分からなくもない。いや、犯罪なので分かってはいけないのだが、下着泥棒という犯罪が存在すること自体は知っている。
しかし俺は二十六歳の男である。
盗まれているのは、量販店で三枚セットで売っている黒とか紺とか灰色とかの、ごく普通のボクサーパンツだ。
誰が欲しいんだ、こんなもの。
そして五枚目。
俺は犯人を捕まえた。
夜十一時過ぎ。
カーテンの隙間からベランダを監視していると、隣との境にある避難用の仕切り板、その向こうから手が伸びてきた。
俺のパンツをつまむ。そのまま引っ張る。
「おい」
「ひゃっ」
俺は窓を開けた。
手が止まった。パンツも止まった。
仕切り板から、そろりと女の顔が出てきた。
知っている顔だった。
隣の部屋に住んでいる女性だ。
長い黒髪。整った顔立ち。
廊下で会えば必ず挨拶してくれる、感じのいい人。
名前は確か、水瀬美琴。
俺より一つ上の二十七歳だったはずだ。
そして現在。
その美人が俺のパンツを握っている。
「……何してるんですか」
「待って」
「はい」
「理由があるの」
「パンツ握った状態で言える理由ってあります?」
「ある」
「じゃあ聞きます」
美琴さんは真剣な顔で言った。
「あなたのパンツじゃないと駄目なの」
俺はスマホを取り出した。
「警察呼びますね」
「待って!」
「聞く前より怖くなったんですけど!」
「違うの! そういう意味じゃないの!」
「じゃあどういう意味なんですか!」
「眠れないの!」
「パンツが!?」
「私が!」
そこから十分ほどかけて事情を聞いた。
結論。
やっぱり意味が分からなかった。
美琴さんは昔から寝つきが悪いらしい。
特にここ一年ほどは酷く、布団に入っても何時間も眠れないことが珍しくなかったという。
病院にも行った。生活習慣も見直した。カフェインも減らした。寝具も替えた。
それでもなかなか改善しなかった。
そんなある日。
強風で俺のパンツが一枚、隣のベランダへ飛んでいった。
「あれ、一枚目お前だったの?」
「不可抗力です」
「そこは疑ってない」
洗濯物を取り込んだ美琴さんは、俺のパンツも一緒に室内へ持って入った。
翌日返そうと思い、とりあえずソファに置いた。
そのまま寝落ちした。
朝まで。
「七時間」
「はい?」
「七時間、一回も起きなかったの」
「よかったですね」
「一年ぶりくらいだった」
「それは本当によかったですね」
「だから、もしかしてって」
「待て」
嫌な予感がした。
「そこで終わらないですよね?」
「同じ洗剤を買いました」
「ほう」
「眠れませんでした」
「はい」
「同じ柔軟剤も買いました」
「はい」
「駄目でした」
「はい」
「同じメーカーのパンツも買いました」
「なんで?」
「比較対象が必要だから」
「研究者みたいな顔するな」
「新品では駄目だった」
「でしょうね」
「だから」
美琴さんが目を逸らした。
「もう一枚、借りました」
「盗んだんですよね?」
「……はい」
「言い換えるな」
二枚目でも眠れた。
三枚目を盗んだ夜には、目覚ましが鳴るまで一度も起きなかったらしい。
そこでやめておけば、まだ出来心だったと言い張れたかもしれない。
四枚目にも手を出した時点で、もう無理だ。
そして今夜、五枚目。
現行犯である。
「完全に常習犯じゃねえか」
「返すつもりはありました」
「いつ?」
「いつか」
「常習犯じゃねえか」
美琴さんはしょんぼりした。
とりあえず盗まれた四枚は返してもらった。洗濯済みだった。
そこは妙に律儀だった。
そして俺は言った。
「二度と盗まないでください」
「はい」
「必要なら言ってください」
「……え?」
「貸すだけならいいですから」
自分でも何を言っているんだと思った。
だが、目の前の美人には、近くで見るとはっきり分かるほど濃い隈があった。
それから。
俺と隣人との奇妙なパンツ貸借生活が始まった。
「相沢さん」
翌日の夜。
インターホンが鳴った。
開けると美琴さんが立っていた。
「……お願いします」
「そんな深刻な顔でパンツ借りに来ないでください」
一枚貸した。
翌朝。
「八時間寝ました」
「報告いらないです」
「ありがとうございました」
「返す時は洗ってください」
「もちろんです」
三日後。
また来た。
「お願いします」
「はいはい」
一週間後には、俺たちは普通に話すようになっていた。
名前も直人さん、美琴さんになった。
さらに一週間後。
「これ、お礼」
美琴さんが夕飯を作って持ってきた。
それを俺の部屋で一緒に食べた。さらにその次は、俺が作った。
気づけば週に何度か一緒に飯を食うようになった。
そしてある夜。
食後に映画を見ていた美琴さんが、俺のソファで寝た。
二時間。
起きた美琴さんが時計を見て固まった。
「……寝てた?」
「爆睡」
「パンツは?」
「今日は貸してない」
「…………」
二人で顔を見合わせた。
「直人さん」
「はい」
「もしかして」
「うん」
俺も薄々思っていた。
原因はパンツじゃないんじゃないか。
その夜から、美琴さんはパンツを借りなくなった。
代わりに俺の部屋へ来る回数が増えた。
夕飯を食べる。映画を見る。くだらない話をする。
そして時々、そのまま俺のソファで眠る。
パンツがなくても、俺の部屋なら眠れるらしい。
その意味に俺が気づくより先に。
告白された。
「直人さん」
「ん?」
いつものように夕飯を食べたあとだった。
隣に座っていた美琴さんが、俺をじっと見る。
「私、直人さんのこと好きみたい」
「……みたい?」
「最初はパンツが好きなのかと思ってた」
「その二択に俺を並べるな」
「でも、パンツなくてもここなら眠れるし」
「それ、恋愛感情を判断する方法として正しい?」
「直人さんの隣だともっと眠れる気がする」
「睡眠基準から離れろ」
美琴さんは少し考えた。
それから俺の肩に頭を預ける。
「じゃあ、普通に言う」
「うん」
「好き」
今度は迷いがなかった。
「付き合ってください」
断る理由なんてなかった。
むしろ俺だって、いつの間にか美琴さんがインターホンを鳴らすのを待つようになっていた。
「よろしくお願いします」
「やった」
「ただし」
「何?」
「もう俺のパンツ盗むなよ」
「彼女になっても?」
「彼女になったからって下着泥棒が合法になるか」
「じゃあ借りる」
「まだ要るの?」
「記念に」
「貸さねえよ」
そうして、俺たちは付き合った。
初めてキスをした夜。
美琴は俺の胸に顔を埋めたまま三時間寝た。
完全にパンツはいらなくなった。
どうやら本当に必要だったのは、本体だったらしい。
そう思っていた。
付き合ってしばらくして、美琴が初めて俺の部屋に泊まった翌朝。
目を覚ますと、美琴がこっちを見ていた。
「……おはよ」
「おはよう」
時計を見る。
七時十二分。
珍しい。美琴のほうが俺より先に起きている。
「よく寝れた?」
「めちゃくちゃ」
「ならよかった」
昨夜も寝つくまでに時間はかからなかった。
というか、寝つく直前のことについては、あまり詳しく振り返らないことにする。
付き合いたての男女なので。
まあ。
いろいろあった。
「何時間寝た?」
「四時間くらい」
「……短くない?」
「寝るのが遅かったから」
「なんで?」
美琴が聞いた。
俺は黙った。美琴も黙った。
「それ聞く?」
「聞かない」
即答だった。
「でも、寝つきは最高だった」
「それは何より」
もう一度目を閉じようとすると、頬をつつかれた。
「直人」
「んー?」
「朝も効くのかな」
目を開ける。
「何に」
「睡眠に」
「これから起きる時間なんだけど」
「今夜の睡眠に先行投資」
「便利な言葉を作るな」
美琴が布団の中でもぞもぞと近づいてくる。
「一回だけ」
「朝から?」
「寝起きだから一回」
「寝起きだからの意味が分からん」
「じゃあ、おはようの一回」
「もっと分からん」
顔が近づいた。
キスされた。
一度。
離れたと思ったら、また。
「……美琴」
「ん?」
「絶対最初からそのつもりだったろ」
「起きたら隣に彼氏がいたので」
「昨日からいるわ」
「昨日と今日では新鮮さが違います」
「毎朝リセットされんのかよ」
「されます」
また唇が重なった。
今度は、少し長かった。
――それからしばらくして。
「……朝から疲れた」
「私は元気」
「嘘つけ。さっきから全然動いてないだろ」
「満足してるの」
美琴は俺の胸に頬を乗せたまま、実に機嫌がいい。
時計を見る。
八時六分。
「おい」
「ん?」
「一回で一時間近く使ってるぞ」
「丁寧だったね」
「感想を言うな」
「でも、これなら今日もよく眠れそう」
「だから今から仕事なんだよ」
その日の夜。
帰宅して夕飯を食べ終えたところで、美琴が言った。
「検証したい」
「何を」
「私が眠れる理由」
まだやるのか。
「もう俺がいれば眠れるって分かっただろ」
「そこを正確にしたいの」
「何をどう正確にするんだよ」
美琴が指を一本立てた。
「直人のパンツがあると眠れた」
「うん」
「直人の部屋でも眠れた」
「うん」
「直人の隣だと、もっとよく眠れた」
「うん」
「昨日は、もっともっとよく眠れた」
「四時間だけどな」
「時間じゃなくて深さ」
「測定したの?」
「体感」
「急に研究の精度が落ちたな」
美琴は真剣だった。
嫌な予感がする。
「つまり」
「うん」
「私が眠れるのは、直人がいるからなのか」
「たぶんそうだろ」
「それとも」
一拍置いて。
「いっぱいしたからなのか」
「待て」
「昨日と同じ条件でもう一度試せば分かる」
「同じ条件じゃ比較にならないだろ」
「あ」
「研究者みたいな顔してたくせに初歩的なところで転ぶな」
「じゃあ回数変える?」
「そっちへ行くな」
「増やす?」
「減らせ」
結局。
その夜の検証が何回だったのかは、数えないことにした。
翌朝。
目を覚ます。
時計は十一時を回っていた。
「……美琴」
返事がない。
隣を見る。
寝ている。
ものすごく寝ている。
頬をつついても起きない。
「おい」
「んぅ……」
「十一時だぞ」
「……あと五分」
「お前があと五分とか言うの初めて聞いたよ」
さらに二十分寝た。
ようやく起きた美琴が、ぼんやり時計を見る。
そして飛び起きた。
「十一時半!?」
「おはよう」
「私、何時間寝た!?」
「八時間くらいじゃない?」
「八時間……」
美琴が呆然とする。
それから、じわじわと笑った。
「治った」
「何が?」
「不眠」
「まあ、これだけ寝ればな」
「結論出た」
「何」
美琴は指を一本立てた。
「パンツも直人のでしょ?」
「まあ」
「部屋も直人の」
「まあ」
「隣にいるのも直人」
「そうだな」
「いっぱいする相手も直人」
「最後だけ声を小さくしろ」
「だから全部、直人」
「雑にまとめたな」
「でも合ってるでしょ?」
そう言われると。
否定しづらい。
美琴は俺の胸に頬をくっつけた。
「もうパンツいらない」
「ようやく卒業か」
「うん。本体があればいい」
「俺はパンツの本体じゃねえ」
それから美琴の不眠は、本当にほとんどなくなった。
一人でも以前より眠れるようになったし、俺の部屋ではよく寝る。
俺の隣なら、さらによく寝る。
そして時々。
「直人」
「何」
「今日、早く帰ってきてね」
「なんで」
「いっぱい寝たいから」
「その前段階を短くしろ」
「それは無理」
即答だった。
不眠は治った。
これは間違いない。
問題があるとすれば。
美琴が俺のパンツを盗むことは、二度となくなった代わりに――
俺の睡眠時間が、毎晩盗まれるようになったことくらいだ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
こういうのを描きたいタイミング、時々(結構)あります。
人間だもの。
今回は、うっかり形になってしまいました。
下着泥棒から始まって、不眠まで治りました。
たぶん治療法としてはおすすめできません。




