感知の魔法少女――愛を乞うた色なき聖女
幼い頃の記憶を辿ると、そこにはいつも「無色」の空間が広がっていた。
日本でも有数の巨大財閥である桐里家。その本邸は、広大でありながら、足音一つ立てることすら許されないほどの重苦しい静寂に包まれていた。大理石の床、高くそびえる天井、アンティークの調度品。すべてが完璧に配置され、微塵の埃も許されないその空間は、まるで息の詰まるような美しい棺桶のようだった。
「……お嬢様。本日の家庭教師の先生がお見えになりました。お部屋でお待ちください」
「……はい」
メイドの冷淡な声。そこに私の名前――「ミチル」という響きが含まれることは一度もなかった。
父にとっても、母にとっても、屋敷で働く大勢の使用人たちにとっても、私は「桐里家の娘」であり「お嬢様」という記号に過ぎなかった。人間としての『桐里ミチル』の心など、最初からこの広大な屋敷のどこにも存在していなかったのだ。
家庭教師が提示する高等教育のカリキュラムを完璧にこなし、出されたテストで満点を取ること。それが、私がこの屋敷で生きるために課された唯一の「生存条件」だった。
けれど、血を吐くような努力をして良い成績をとっても、両親が私の頭を撫でてくれることはなかった。
「桐里の血を引いているのだから、できて当たり前だ。次も気を抜かないように」
ただ冷ややかに、そう言い捨てられるだけ。温かい言葉も、抱擁も、褒め言葉も、私に与えられることは決してなかった。
学校に行っても、状況は何も変わらなかった。
私立の名門校に通わされていたが、周囲の子供たちは私を「桐里グループのお嬢様」として遠巻きに見つめるだけだった。当然、お友達と呼べる存在など一人もいなかった。
ある日、学校の休み時間に、クラスメイトたちが流行りのアニメの話で盛り上がっているのが聞こえた。
今まで誰とも対等な会話をしたことがなかった私は、ほんの少しの勇気を振り絞り、彼女たちの輪に足を踏み入れてみた。
「あの……そのアニメなら、私のお屋敷にある試写室で先行上映のデータを買い取って観たわ。画質も音響もとても素晴らしいのよ」
私としては、相手の話題に合わせたつもりだった。みんなが知りたいだろう情報を共有すれば、きっと喜んでくれると思ったのだ。
しかし、その場の空気は一瞬にして凍りついた。
クラスメイトたちは引きつった笑みを浮かべて後ずさりし、間もなく「あ、用事を思い出したから」「ピアノの練習があるんだった」と、蜘蛛の子を散らすように去っていった。
(……どうして? 私はただ、みんなと同じように話をしたかっただけなのに)
他人が何に傷つき、何に興奮し、どう話せば喜ぶのか。
参考書や問題集には、そんな「他人の心」の解き方なんて一切書かれていなかった。誰からも教えられず、誰も教えてくれない。私は広大な砂漠の真ん中に、ぽつんと一人取り残されているような感覚を抱えていた。私はただ、誰かと手を繋ぎたかっただけなのに。
小学五年生の秋。ひとつの転機が訪れた。
全国の小中学生が受ける、大規模な全国模擬試験。その結果が自宅に届いた時のことを、私は今でも鮮明に覚えている。
成績表の一番上。私の名前の横に刻まれていた数字は「全国7位」だった。
全国で、たったの6人しか私の上にいない。通っている学校でも初の一桁台の快挙だと、担任の先生が興奮気味に教えてくれた。
(これなら……! これなら、お父様も、お母様も、私のことを見てくれるかもしれない!)
胸の奥がドキドキと高鳴り、ワクワクとした熱が全身を駆け巡った。初めて感じる、期待という名の温かい感情。私は成績表を両手で強く握りしめ、母の居る応接間へと走った。
「お、お母様! あの……模試の結果が返ってきたのです!」
ソファーに腰掛け、優雅に紅茶を飲んでいた母へ、私は誇らしげに成績表を差し出した。
母はゆっくりと視線を落とし、紙に書かれた「7位」という数字に目を留めた。
しかし――次の瞬間、母の口から漏れたのは、氷のように冷たい溜息だった。
「……ハァ。1位ではないのね」
「え……?」
私の鼓動が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。
褒められたい。自分を見てほしい。その一心で、私は珍しく母に向かって己の意見を主張した。
「で、でもっ! これまでの私の最高順位です! 学校でも初の一桁台だと褒められました! 凄く頑張ったんです!」
すると、母はティーカップをガタンと強い音を立ててソーサーに置いた。その美しい顔が、凶悪なまでの苛立ちで歪む。
「だから何? たかが7位で調子に乗らないで頂戴! 桐里の娘が、トップ以外で満足するなど恥晒しよ! それに、今はそんな気分ではないの。見れば分かるでしょう、あっちへ行きなさい!」
甲高い怒鳴り声が応接間に響き渡った。
その瞬間、私の頭の中で何かがパチンと弾け飛ぶ音がした。
(あぁ……最初から、私を褒める気なんてなかったんだ)
絶望が、冷たい泥のように足元から這い上がってきた。
私はお辞儀をして静かに部屋を出ると、己の部屋に鍵をかけてベッドに伏せた。
暗闇の中、涙がポロポロと溢れて止まらなかった。他人が何を考えているのか分からない。どうすれば喜んでくれるのか分からない。そんな教科書は、どこを探しても売っていなかった。
それから数日後のことだった。
屋敷の雰囲気が、どこか浮き足立っていることに気づいた。使用人たちがそわそわと歩き回り、祝祭のような空気が漂っている。
廊下を歩いていると、居間から両親の和やかな会話が聞こえてきた。
「本当に男の子なのかい?」
「ええ、間違いありませんわ。これで我が桐里家も安泰です」
「あぁ、この子を我が家の正統な跡取りとして、大切に育てよう。すべてを与えてやらなければな」
母の妊娠。それも、両親が熱望していた男の子だと判明したのだ。
二人は今まで私が一度も見たことがないような、温かく幸せそうな笑みを浮かべ合っていた。
ふと、居間の入り口に立っていた私に、父が気づいた。
父の視線がスッと私に向けられる。しかし、そこに宿っていたのは、家族に向けられる愛おしさではなく、路傍の石ころを見るような冷淡さだった。
「……いたのか。部屋に戻って勉強を頑張りなさい」
その言葉を聞いた瞬間、私の心の中で全てのジグソーパズルのピースが完璧に嵌まった。
(私個人を、誰も見てくれない。あぁ……私はただの『道具』で、結果を出せない役立たずだから、もう用済みなんだ。捨てられるんだ)
悔しくて、悲しくて、絶望で一歩も動くことができなかった。
涙で視界が歪む。その時だった。
「……え?」
私の目に、常識ではあり得ない光景が飛び込んできた。
談笑する父と母の身体の周囲から、ゆらゆらと色のついた「もや」のようなオーラが立ち上っているのが見えたのだ。
両親から出ているのは、温かな橙色と、どこか生々しい黄色が混ざり合った怪しい光。
外へ出ると、すれ違うメイドからも、執事からも、街を行く人々からも、それぞれ違う色の「もや」が立ち上っていた。
持ち前の高い知性と頭脳を活かし、私はその「もや」の観察と分析を始めた。
――怒っている人間からは、赤黒く逆立つ炎のようなもやが出ている。
――悲しんでいる人間からは、深く濁った青色の湿ったもやが出ている。
――私を侮蔑している人間からは、薄汚い土色の光が出ている。
(これは……『人の感情』だわ)
私が切望していた「他人に良く思われたい」「相手の望む言動を知りたい」という強烈な渇望が、私の中に眠っていた科学を超えた能力――魔法の力を目覚めさせたのだ。
感情が『色』として可視化されたことで、世界の解像度は一変した。
相手が今何を考え、何を欲し、どんな言葉をかければ心を開くのか。すべてが色彩の法則として私の頭の中に流れ込んでくる。解答のない問題集に、突如としてすべての模範解答が書き込まれたようなものだ。
それからの私は、完璧に「空気」を読む術を手に入れた。使用人たちが望む「健気で可憐なお嬢様」を演じ、学校のクラスメイトたちが欲する「少し抜けた親しみやすい令嬢」を演じ分けた。
掌の上で他人の感情が転がる快感。私は急速に、その力へ狂信的に溺れていった。
小学六年生になったある日。
私は家族で食事中に、決定的な光景を目撃してしまった。
父と、若い専属メイドから、ドロドロとした濃密な「ピンク色」の感情のもやが溢れ出し、お互いに絡み合っていたのだ。
不倫。名門桐里家の当主として、決して世間に知られてはならない致命的な醜聞。
普通の子供ならショックを受ける場面だろう。
だが、その時の私は違った。
(……あはっ。できたわ、お父様を支配する『鍵』が)
私の口から、自分でも驚くほど冷酷で可憐な笑みがこぼれ落ちた。
私はその日の夜、父の書斎へ向かい、現場を見たと嘘を混ぜて鎌をかけ、不貞の事実を白状させた。相手の焦りと恐怖の色――引きつった紫の光――を確認しながら、絶妙なラインで追い詰めていく。
「お父様。私に、もっと自由な権限と口座をくださらない? さもないと……お母様や親族の皆様に、あのお写真をお見せしなければならなくなりますわ」
父の顔から血の気が引いた。かつて私をゴミのように見下していた男が、今や私の前で恐怖にガクガクと震えている。
同じ手口で、私は母の不祥事や弱みも完全に掌握した。
それからの桐里家において、私の立場は絶対的なものとなった。
両親は私の顔色を窺い、怯え、いずれ家に近寄らなくなった。学校でも、クラスメイトの感情の色を誘導し、私をクラスの絶対的な中心人物へと仕立て上げた。
中学生になる頃には、私は自分だけの力に完全に酔いしれていた。
人の心を色で読み取り、弱みを握り、己の意のままに操る。
「他人に良く思われたい」という純粋だった欲望は、いつしか「他人を支配し、私を讃えさせたい」という歪んだサディズムへと昇華し、現在の私という人間性を完成させていたのだった。
* * *
ある日の放課後。
桐里家の応接間に、見知らぬ男が座っていた。
仕立ての悪い黒いスーツを着た、感情の読めない冷たい目をした中年男。
「はじめまして、桐里ミチルお嬢様。公安の、田中と申します」
男は名刺を出すこともなく、静かにそう名乗った。
私はいつものように笑顔を浮かべ、田中の感情の色を観察しようとした。しかし――田中の身体から立ち上っていたのは、色など存在しない、まるで底なし沼のような「真っ黒な無」だった。
「無駄ですよ、お嬢様。あなたのその『特別な力』……我々はすでに把握しています」
「……なんですって?」
私が両親を脅迫し、周囲の人間を操っていた私の魔法が、政府に看破されていたのだ。
一瞬、背筋に冷や汗が流れたが、田中は冷酷な笑みを浮かべた。
「ご安心ください。糾弾しに来たのではありません。むしろ……あなたのその素晴らしい能力を、国のために役立てていただきたいのです」
「国のため……?」
「ええ。表舞台では、人々を勇気づける『魔法少女』として活躍していただく。そして裏では……我々のボスである徳頭先生のために、政治家や企業の弱みを握っていただく」
それが、私が「感知の魔法少女」として表舞台に立つことになったキッカケだった。
魔法少女としてのライセンスを与えられ、キラキラとした純白の衣装を纏い、警察の捜査に協力して、皆に笑顔を振りまく「聖女」としてメディアに取り上げられる日々。
画面の向こうで、全国の人々が私に憧れ、熱狂し、愛を注いでくれる。
(あぁ……最高。みんな私を見ている。私を愛している!)
表舞台で喝采を浴びるたび、幼い頃に満たされなかった承認欲求が、ドクドクと甘い毒となって私の心を打ち震わせた。
裏では田中経由で徳頭の指示を受け、対立する政治家のもとへ赴いては弱みの掌握を行い、徳頭の地位を確固たるものにしていった。
三年前の冬。
田中から特別な依頼が持ち込まれた。
政府の外部機関として存在していた『忍び』が不要となったため、秘密が漏れぬように始末しろとのことだった。
忍び。私たち魔法少女と同じように、政府の影として泥仕事をこなす裏の人間たち。
私は自分と同じようにチヤホヤされていた『炎の魔法少女』赤園レイカを利用した。
天使のような笑顔で「お願い」すれば、頭の悪いギャルは喜んで実行犯になった。
遠目に燃える工場を見つめていると、炎に巻かれた忍びが絶望の中で死んでいく際に放った感情の色――深く、濁った、哀しいほどの「青色」が見えた。それは、私にとって極上の娯楽だった。
だが、事件が終わった後。
一人部屋に残された私は、静かな恐怖に襲われた。
(……徳頭サトミチ。あの男は、用済みになった忍びを、ためらいもなくトカゲの尻尾切りとして処分した)
私だって同じだ。
私は徳頭の数々の弱みや裏工作の証拠を握っている。
今は「愛される聖女」として利用価値があるから活かされているが、徳頭が総理の座に就き、私の存在が邪魔になれば……あの日死んだ忍びのように、あっさりと消されるに違いない。
(やられる前に、やるしかないわ……!)
不安は日に日に膨らんでいった。
私は徳頭を自身の『感情の支配』の魔法で洗脳し、この国そのものを裏から私が支配するための作戦を、密かに練り始めた。
しかし、運命の歯車は思わぬ方向へと狂い出した。
作戦の実行が間近に迫ったある日、「炎の魔法少女」赤園レイカが突如として行方不明になったという報せが入った。
事前に田中から、あの日始末した忍びの夫婦には「二人の娘」がいたことを聞いていた。
(……復讐に来たのね。あのネズミの生き残りが)
もう少しで徳頭を操り、この国の頂点に立てるはずだったのに。
歯がゆい思いを抱えながらも、私は彼女たちを迎え撃つことにした。私の『空間把握』と『感情の可視化』があれば、たかが忍びの生き残りなど返り討ちにできると高を括っていたのだ。
実際、あの姉妹を同士討ちさせる寸前まで追い詰めた。
――だが、甘かった。
不確定要素――盤外の駒である水島アカネの裏切りによって、私の完璧な計画は破綻した。
私はアカネの絶対零度の冷気によって首から下を完全に氷漬けにされ、完全に拘束されたのだった。
* * *
暗闇の中、ペチッ、と頬を叩かれる痛みで意識が戻った。
情報を引き出すためだろうか、極寒の氷からは解放されていたが、私の目は布で覆われ、口には猿ぐつわが噛まされ、手足は椅子に固く縛り付けられていた。
ピタリ。
首元の皮膚に、凍りつくように冷たく、鋭利な刃の感触が押し当てられた。
「……形勢逆転よ、桐里ミチル」
耳元で響いた、冷たい声。
目隠しと猿ぐつわが乱暴に引っ剥がされる。光が戻った視界。私の前に立っていたのは、血と汗に濡れながらも、冷徹な瞳で私を見下ろす忍びの娘――ユキの姿だった。
「ハぁっ! ハぁっ……! お、お願い助けて! 命だけは……命だけは助けてぇっ!!」
私は必死で命乞いをし、徳頭サトミチの名前も、公安の田中の存在も、自分が知っている限りの情報を全て吐き出した。海外へ逃げるから見逃してほしいと、惨めに、無様に泣き叫んだ。
けれど――ユキの瞳から、静かな覚悟の光が消えることはなかった。
ユキは、憎悪で私を殺そうとする妹のサヤを制止した。
「サヤの手は……もう汚させない」と。
そして、ユキは死神のような瞳で私を見下ろした。
「……ミチル。あなたの罪、私が貰うわ」
そう言い、冷たい鋼の刃――クナイが、私の胸の真ん中を深く、深く突き刺さった。
「がぁっ……!!???」
視界が真っ赤に染まる。
胸の奥から、経験したことのない激しい熱と激痛が溢れ出し、口からゴボッと血の泡が溢れた。
(あ……ぁ……。嫌だ……死にたく、ない……)
純白のドレスが、自分のどす黒い血で染まっていく。
私を刺した少女――ユキ。彼女から立ち上っていたのは、怒りでも憎しみでもなく、自らの魂を地獄に落としてでも妹を守ろうとする、透き通るような美しい『無償の愛』の色だった。
私を裏切ったアカネでさえ、不器用ながらもあの姉妹の絆に惹かれ、自分の居場所を捨ててまでユキたちを助けに来たのだ。
これが、私が一生手に入れられなかった、本物の愛の感情。
損得も、支配も、恐怖もない。ただ純粋に、誰かを想う心。
(あぁ……そうか。私は……)
溢れ出す血の海の中で、急速に薄れていく意識の底で、私は自分の人生の全てを理解した。
誰かを操りたかったわけじゃない。誰かを痛めつけたかったわけでもない。
私はただ――
(私という存在に、気づいて欲しかった)
誰の目にも留まらず、ただの道具として捨てられかけたあの幼い日から。
(誰かに、認めて欲しかった)
1位を取れなくても、完璧じゃなくても、「頑張ったね」と笑いかけて欲しかった。
(そして……愛して、欲しかった……)
偽りの聖女の仮面が剥がれ落ち、血だまりの中に転がる。
消えゆく意識の果てで、私は生まれて初めて、自分自身の本当の「心」に出会った気がした。
視界が完全な闇に包まれる直前。
心の奥底から溢れ出たその吐息のような悲鳴は、誰の耳に届くこともなく、静寂の中へと溶けて消えていった。
本編『魔法少女が表なら、忍びは裏。——国に見捨てられた姉妹は、偽りの聖女を影から狩る』にて主人公と敵対する魔法少女の物語になります。




