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宝石の庭~私を過去にするのなら、私もあなたを過去にする~

作者:

随分と長くなりましたが、話の流れ的に一気に読んでいただいた方が没入感でるかなと思い、あえて区切らずに投稿いたしました。お時間がある時に、ゆっくりお楽しみいただけると幸いです。

 



 ―――幼い頃の思い出は、今なお鮮やかな色彩を保ち、まるで宝石のように美しく輝き続けている。





 郊外にひっそりと佇む小さな邸宅。 そこは王の寵姫であり、王の子を身籠っていた側室アナベラの希望によって、十数年前に建てられたものだった。

 一年を通して花が途切れぬよう設計された美しい庭を擁するその邸宅は、寵姫が王に強請るにしてはいささか質素で、赤い屋根と丸みを帯びた外観を持ち、まるで物語に登場する妖精の家のような、どこか非現実的な佇まいをしていた。

 煌びやかな装飾が施されているわけでもないその邸宅は、身分の低かったアナベラがかつて暮らしていた家を模したものだとも言われており、第三王子を出産してから病で亡くなるまでの間、花がひと際美しく咲き誇る季節になると、アナベラは王と王子、そしてその婚約者を連れ、この場所でささやかな休暇を楽しんでいた。



 ユーリアは、その邸宅が好きだった。

 敷き詰められた石垣に沿って可憐に咲く小花たち。 甘く華やかな香りと鮮やかな色彩で、童話の先へと誘う薔薇のアーチ。 邸宅を囲む鉄柵や外壁に絡みつく、鮮烈なブーゲンビリアの花々。

 いつ訪れても視界いっぱいに広がるその美しい庭と、婚約者であるカインと共に屈託なく笑い、無邪気に走り回っていたあの頃の記憶は、今もなお宝石のように、ユーリアの胸を飾り続けている。

 冷たい両親のことも、実感の伴わない婚約のことも、王族に連なる者として課される義務の重さも――この邸宅で過ごしている間だけは、すべてを忘れることができたのだから。


 しかし、そんな幸福な時間も、アナベラの死によって少しずつ陰りを帯びていく。

 降りしきる雨の中、どこまでも続く葬列。 深い悲しみを湛えたまま、その光景を見渡す王の姿と、埋葬を前に母の眠る棺へと顔を寄せ、涙を零すカイン。

 あちらこちらからすすり泣く声が響く中、そのすべてが悪い夢のように感じられて、幼いユーリアは、ただその場に立ち尽くしたまま、成す術もなく光景を見つめ続けることしかできなかった。


 そして王妃もまた、黒のベールで顔を覆いながら、王の少し後ろに静かに立っていた。 悲しみに胸を痛めているのだろうかと視線を向けた、その瞬間――風に煽られたベールの隙間から覗いた表情に、ユーリアは思わず息を呑む。


 そこにあったのは、ぞっとするほど温度のない眼差しだった。 嘆きも、悲しみも存在しない、底の見えぬ沼のような深い闇を湛えた視線。

 彼女の隣に立つ王妃の子供たちもまた、母と同じ色を宿した目でその場を見つめている。


 悲嘆に暮れる王とカインを、ただ感慨もなく見つめるその姿は、幼いユーリアに否応なく現実を突きつけるには、あまりにも十分だった。


 ――このままでは、きっと。


 カインにとって、良くないことが起きてしまう。








「ユーリア……私は、母上に恥じない自分になりたい」


 瞼を赤く腫らしたカインが、ユーリアの手をぎゅっと握りしめ、アナベラの墓前でそう呟いた。


 痛いほど握りしめられた手から伝わる震え。

 大切な人を失った悲しみに涙を流しながらも、それでも母の死に向き合おうとあがく彼に、ユーリアは幼心に決心する。


「……わたくしも、カイン様とアナベラ様に恥じない自分になりますわ。ねぇ、カイン様。約束しましょう。二人だけの、約束―――」





 それは、二人だけの誓いでありながら、あまりにも脆く、簡単に踏みつぶされてしまう幼い決意だったのだと実感するのは、随分と後のことになる。




 アナベラは聡明で、穏やかな気性を備えた、とても美しい女性だった。

 身分が低いがゆえに苦労も多かったはずだが、それでも彼女は王と共にあろうと、魔窟のような王宮へ躊躇なく足を踏み入れた。 そして多くの人々の心に確かな爪痕を残し、誰よりも早くこの世を去ってしまった。


 ――聡明な彼女は、理解していたのだろうか。 自身を蝕んでいたものが、単なる病ではなく、人の手によるものであったことを。


 そして、自らが示した光によって生きながらえてきた者たちが、やがて辿ることになる残酷な結末を。






 ***






「ユーリア、どうか婚約を解消させてはくれないだろうか」


 カインからその言葉を告げられたのは、ユーリアが十七歳になって間もない頃のことだった。 学園に入学してから二年が経ち、この頃には互いに公務や教育に追われ、二人でのんびりと過ごす時間など、あらかじめ定められた交流日に限られるようになっていた。


 久方ぶりの交流日。 王城にある美しい温室の中で、花々に囲まれ、丹念に整えられたテーブルセットを挟んで向かい合う。 その場で交わされた第一声がこれであったことに、ユーリアは顔には出さずとも、内心で大きく動揺するほかなかった。


「……まずは、そのような結論に至った経緯を、詳細にお聞かせ願えますか?」


 動揺を覆い隠すように紅茶へと口を付けたユーリアは、美しい所作でティーカップを戻すと、目の前で俯いたままのカインへ静かに言葉を投げかけた。

 彼は、いつもと変わらぬ涼やかな表情を保つユーリアの姿を前に、視線を合わせることもできないまま、小さく頷く。


「そうだな……君は、今年入学してきたアリス・ライラックという生徒を知っているだろうか」


「えぇ。直接お会いしたことはございませんけれど、存じておりますわ。男爵令嬢でありながら成績優秀で、生徒会にも選ばれた方ですわよね」


 アリス・ライラック。 美しい桃色の髪に、鮮やかな緋色の瞳を持つ、大層愛らしい男爵令嬢である。

 彼女の噂は、ユーリアの耳にも度々届いていた。 今年度の首席入学者であり、容姿端麗でありながら学業成績も優秀。そのうえ一年生にして、栄えある生徒会の一員に選ばれた才女だ。

 本来であれば、ユーリア自身も生徒会に名を連ねる立場にあった。しかし公務と王子妃教育を優先するため、あらかじめ辞退していたのである。

 高位貴族が名を連ねることの多い生徒会に、下級貴族が選出されるのは極めて稀であり、そのため彼女に関する噂話は、妬みを含みつつも概ね好意的なものが多かった。

 中には身分をあげつらう者もいたが、それはごく一部に過ぎない。 身分の低さにも怯まず、一心に学業へ打ち込むその姿は、誰の目から見ても魅力的なものだった。


 カインは王族という立場もあり、生徒会に名を連ねることは半ば当然のように受け入れられていた。 しかしそれに伴い、ユーリアと過ごす時間はさらに減っていく。

 本来であれば最も接点を持てるはずの学園においても、常に生徒会活動で側にいるアリスとは異なり、ユーリアは遠くからカインの姿を見かける程度の関わりしか持てなくなっていた。


 声さえ届かないほど離れた場所から目にした彼は、驚くほど柔らかな表情を浮かべていた。


 思えばここ最近、ユーリアとの交流日に、あのような顔を見ることはほとんどなかった。

 取り繕うような笑みを交わし、ぽつりぽつりと近況を伝え合うだけ。

 出された紅茶を一杯飲み干せば、どちらからともなく別れの挨拶をして席を立つ――それが、いつの間にか当たり前になっていた。


 かつては和やかに言葉を交わし、取るに足らない話題で笑い合いながら菓子をつまんでいたはずなのに。

 いつからか、ユーリアとの交流は、彼にとっても、そしてユーリア自身にとっても、果たすべき義務のようなものへと変わってしまっていた。

 小さな贈り物を交換し、手紙を送り合い、辛いことがあれば励まし合いながら、少しずつ絆を深めてきたというのに。

 気づけば、交流日に贈り物を用意するのはユーリアだけになり、手紙を出しても返事が返ってくることは稀になった。

 彼女がどれほど言葉を尽くしても、カインが親身になって耳を傾けることは、もはやなくなっていた。


 ――思えば、この頃からすでに、カインの初恋は始まっていたのだろう。


 そうしたすれ違いを幾度も重ねれば、周囲が二人の関係性を察するようになるのも無理はない。 今では様々な視線や囁きが、容赦なくユーリアへと向けられていた。

 カインは、それらを知ってか知らずか、学園でも社交の場でもユーリアを擁護するような素振りを見せることもなく、自身の想いを優先するかのように、彼女への気遣いを次第に失っていった。


 そんな彼に対し、心が少しずつ冷えていくのを感じながらも、それでもなお、幼い頃の面影を思い起こし、未練がましく、ほんの欠片でも期待してしまう自分がいる。

 あの小さな邸宅で過ごした、宝物のような日々。 そして、あの頃のカインがくれた温かな言葉の数々。

 厳しい王子妃教育を乗り越えることができたのは、ユーリアの胸の奥で今も輝き続けるその思い出が、確かに彼女を支えてくれていたからだ。


 彼から贈られていた品々や手紙、何気ない言葉までもが、一つ、また一つと失われていくたびに、言いようのない虚しさが心を軋ませた。

 それでもなお、思い出だけは色褪せることなく、美しいままであり続けた。

 あまりにも美しいがゆえに、それはいつまでもユーリアの心を縛りつけ、未練がましく過去のカインを求める、惨めな亡霊を心の内に生み出してしまうのだ。



 ユーリアの心境など、考えもしないのだろう。 カインは、久しく彼女には見せなくなった柔らかな表情で、アリスのことを語り始めた。


「彼女は、ユーリアと同じように成績優秀な才女だよ。それに努力家で、実に勤勉だ。周囲の者からも好意的に見られていて、彼女自身にも驕ったところがない。生徒会での活動を通して話すたび、その……彼女の内面を知って、次第に惹かれてしまったんだ」


 彼女を想いながら語るカインの顔は、年相応で、かつての彼を思い起こさせるほど無防備だった。 王族としての仮面ではなく、思わず浮かべてしまったかのような、何の含みもない表情。 その顔を見た瞬間、どのような言葉を尽くしても、もはやユーリアの声は届かないのだと悟る。


 ユーリアは短い沈黙ののち、静かに視線を逸らし、ひとつ、ため息を吐いた。


「……婚約に関しましては、家同士の結びつきでございますから、わたくし一人の判断では如何ともしがたいことですわ。それは、カイン様もご承知のはず」


「っ……それは、そうだが……」


 そもそも、カインとユーリアの婚約は、政略によって結ばれたものだった。


 カインの母であるアナベラの実家は裕福な商家ではあったが、王族を支える後ろ盾としては心許ない。 そのうえ、カインの上にはベラドンナ公爵家から嫁いだ王妃を母に持つ二人の兄があり、いずれも優秀で、彼に継承権はあれど、その可能性は決して高くはなかった。

 ベラドンナ公爵家は政略により娘を差し出すこととなったものの、謹厳実直ゆえに表立って権力を使うようなことはない。王が王妃を差し置いてアナベラを寵愛している間も静観していたほどだ。

 王は、年頃の娘を持ち、ベラドンナ公爵家と同等の権力を持つリリィシアム公爵家に話を持ちかけることにした。 ユーリアを王族へ迎え、カインの後ろ盾として公爵家が彼を支援する代わりに、公爵家の事業に対してさまざまな便宜を図る――そうした、明確な利害のもとに交わされた契約である。

 それは、愛してやまなかったアナベラとの間に生まれた息子の立場を守るため、王自らが整えた縁談だった。

 この結びつきは、カインにとって命綱とも言えるものであり、何よりも重く受け止めるべき契約のはずだ。 それが理解できない年齢ではないというのに、彼は、降って湧いた夢に浮かれるように、目の前に差し出された幸福だけを追い求めている。

 美しい初恋に溺れて、彼自身が積み重ねてきたはずのものを崩そうとしていることにも気が付いていない。


「それに……身分の差も、問題になるでしょう。カイン様のお母様であるアナベラ様も、そのことで随分とご苦労なさいましたではありませんか。ライラック様は確かに優秀でいらっしゃるのでしょうけれど、家や学園で学ぶことと、妃教育とはまったくの別物です。 ……辺境の男爵令嬢である彼女に、それを耐え抜けるとは、わたくしには思えません」


「つまり、諦めろ……そう言いたいのか?」


「えぇ、さようでございます。公爵令嬢であるわたくしでさえ、幼いころから厳しい教育を受けてまいりました。それを、僅か数年で身につけねばならないのですよ? それがどれほど茨の道であるか……。 それに、ライラック様のお気持ちは、きちんと確かめられましたか? 身分の差は、カイン様がお考えになる以上に大きなもの。 もし、カイン様の何気ない言葉に対し、ライラック様が身分を思って本心を返せていないのだとしたら――それは、カイン様の一方的なお気持ちに過ぎません」


 その言葉に、カインが露骨に不機嫌さを滲ませたのがわかった。 頑なだと感じたのだろう。 彼は小さく息を吐くように自嘲気味に笑い、呆れたように肩を竦める。


「君の言うような一方的な思いなんかじゃない。彼女は、いつだって真摯に言葉を返してくれている。 ……それに、この間、母上の邸宅に連れて行ったときは、随分と話が弾んだんだ。どうやら 自領にある思い出深い別邸を思い出すようでね、それは嬉しそうに笑ってくれた。あの場所は、私にとって大切な場所だ。 そのような場所で彼女と過ごしたひととき、ほんの僅かな時間は――母上が生きていた、あの頃を……ただ楽しかった日々を、思い起こさせてくれた」




 カインのその言葉を聞いた瞬間、ユーリアは殴られたかのような衝撃を覚えた。




「まさか……連れて、行ったのですか。あの場所に……」


「あぁ、勘違いしないでほしい。けして彼女一人を連れて行ったわけではない。もちろん、きちんと父上からも許可をもらって、休暇を利用して生徒会の者たち数人を連れて行っただけだよ。 ……君も、昔は休暇の度によく訪れていただろう? なぜ、そんな顔をするんだ」




 今、自分がどのような表情を浮かべているのか――それすらもわからない。 ただ、身体から血の気が引いていくような感覚に襲われ、ユーリアは言葉を失った。


 輝かしく、美しい思い出という宝石が詰め込まれた場所を、何も知らない者たちに無慈悲にも踏み荒らされたかのような喪失感。

 数人と行ったというのも世間体を考えただけで、本当に連れて行きたかったのは彼女一人、なのだろう。

 絶望にも似た、暗く重たい感情が胸の奥で渦を巻き、今にも口から溢れ出してしまいそうになる。 それでも必死にそれを押し殺し、ユーリアはテーブルの下で震える手を、ぎゅっと握りしめた。


 カインはユーリアが震えていることにも気づいていない。

 ユーリアから目をそらし、現実から逃れるように俯いたまま身勝手な言葉を口にする。


「君の努力も、献身も、私なりに理解していた。今まで、それに縋ってきたことも事実だ。 ……だが、このままでは、私という存在は君ありきのものになってしまう。だから……」


「――わたくしから、離れたいと。そう、おっしゃるのですね」


「君が悪いわけじゃない。私の心が、まだ未熟なだけだ。 王族という重責を、兄たちを差し置いて期待され続けるという重荷に、耐えきれなかった私の責任だ。 こんなことを君に言うのは、おかしいと分かっている。それでも……もう、私を解放してほしいのだ。 君という、あらかじめ敷かれた道の上から、どんな形であれ外れたいのだ」


 そう言葉を紡いだ彼の表情は、ひどく疲れているようにも見えたが、それ以上に、どこか吹っ切れたような安堵を帯びているようにも感じられた。


「……あの時の、約束は」


 掠れた声で絞り出されたユーリアの問いに、カインは俯いていた顔をあげ、わずかに首を傾げる。


「約束……とは?」


 その一言が、ユーリアの努力を、献身を、そしてこれまで歩んできた人生そのものを、音を立てて崩していった。


 やはり、あの頃に交わした約束は、すでに忘れ去られていたのだ。 これが、カインとユーリアの関係が年月を重ねるごとに希薄になっていった末の結果なのだと、自身の不甲斐なさと、彼の無神経さに、思わず自嘲の笑みが漏れる。


 学園に入るまでは、愛とは言わずとも、すれ違いながらも互いを気遣い、良好な関係を築けていた――そう、信じていた。 たとえ会える時間が減ったとしても、小さな贈り物や手紙を交わし、限られた交流日には近況を語り合いながら、将来を想いあう穏やかで幸せな時間を過ごしていたはずなのに。


 それらすべてが、今となっては色褪せ、遠い夢の中の出来事のように感じられた。


「ふふ……本当に、愚かでしたこと」


「……なにを、言って――」


 俯いたまま何事かを呟いていたユーリアが顔を上げた、その瞬間。 彼女の表情を目にしたカインは、凍りつくような感覚を覚えた。

 その瞳からも、表情からも、先ほどまで確かに感じ取れていた熱が消えている。 そこに在ったのは、感情の揺らぎを一切映さない、貴族令嬢としてのユーリアの姿だけだった。


「婚約解消につきましては、陛下と公爵家当主である父との話し合いによって決まることでしょう。 わたくしは、決定した事柄に従うのみですわ。 ……これ以上の会話は、無意味でしょう」


「ユーリア、私は――」


「それ以上、何もおっしゃらないでください。 ……失礼いたします」


 ユーリアは無礼に当たると理解したうえで、なおカインの言葉を遮り、静かに席を立った。 彼女にとって、もはやこの場に留まる理由は何一つ残されていなかった。 この交流日も、おそらく今日が最後になるのだろう。


 未だ言葉を発することすらできずにいるカインをその場に残し、ユーリアは一度も振り返ることなく歩き出す。 温室の扉を閉め、しばらく廊下を進んでから、ふと足を止めた。


 振り返れば、彼を置いてきた美しいガラス張りの温室が、少し遠くに見えている。


 ほんの数十分――あの温室で過ごした時間は、それだけだった。 だが、その短い時間の中で、カインも、そしてユーリア自身の人生も、すべてが変わってしまった。


「……あの場所が大切だったのは、わたくしも、同じなのですよ」


 誰に聞かせるでもなく、ユーリアはそう呟いた。


 王子妃たる者、どれほど辛いことがあろうとも、人前で涙を見せてはならない――そう教え込まれてきた。

 それでも、彼との距離が少しずつ離れていくたびに、心は泣いていた。 勇気を振り絞って声を掛け、疎ましげに扱われるたび、胸は痛んだ。 不安に押し潰され、眠れぬ夜を幾度も過ごしたこともある。

 そんな夜には決まって、あの宝石の庭を思い出した。 自分に大丈夫だと言い聞かせ、あの約束を思い出せと胸に刻み、体を小さく丸めて、静かに眠りについた。


 彼にも、こんな葛藤があったのだろうか。

 優秀な兄たちと比べられ、思うような結果を出せず、それでも周囲からの期待だけは大きく、王から注がれる過剰な愛情にも疲弊して。

 そんな中で、過去の幸福と、母に似た穏やかな気性を持つ少女に心を焦がし、宝石の庭へと彼女を連れていき、在りし日の面影を求めたのだとしたら。


 過去に縛られていたのは、きっと――カインも同じだったのだろう。


「リリィシアム公爵令嬢、ユーリア様」


 廊下に立ち尽くし、物思いに沈んでいたユーリアに影が差す。

 ゆっくりと声のした方へ振り返ると、そこには近衛の騎士服を身に纏った一人の男が立っていた。


 すらりと背の高い、近衛に相応しい優美な容姿。

 彼が王妃付きの近衛騎士であることは、ユーリアも承知している。

 そして、その彼が自分に声をかけた理由も――理解していた。


「王妃様がお待ちです。……こちらへ」


 ユーリアは騎士の言葉に静かに頷くと、騎士の元へと歩み寄り、ゆっくりと温室から遠ざかっていった。


 物語として語るならば、あまりにもありきたりで、つまらない結末だろう。

 その後、王子さまは最愛の人を手に入れて、幸せに暮らしました――たったそれだけで終わってしまう話だ。


 けれど、現実は酷く残酷だった。






 ***






 ユーリアが騎士に導かれた先は、王宮から少し離れた場所に佇む一軒の屋敷だった。

 案内されるがまま中へと入り、一室へ足を踏み入れると、そこには王妃が物静かに腰掛けていた。

 伏せていた視線をユーリアへと向け、ただ一言――座りなさい、と告げる。


 ユーリアは静かに礼をし、向かいのソファへと腰を下ろした。

 磨き上げられた窓ガラスから陽光が差し込み、室内には淡く色褪せた明暗が生まれている。

 柱時計の刻む規則正しい秒針の音が部屋に木霊し、その沈黙をより鮮明にしていた。


 やがて、再び扉が開かれる。

 そこに立っていたのは、桃色の髪をした――カインの想い人、アリスだった。


 室内の人物を認めた瞬間、アリスは小さく息を呑む。

 それでも震える身体を必死に抑え、静かに一礼した。


「さぁ、ライラック嬢もお座りなさい」


 王妃の言葉に、少し躊躇いながらも、アリスはユーリアにも礼をしてから、その隣へと腰を下ろした。

 二人が揃ったのを確認すると、王妃はテーブルに紅茶を供していた使用人を静かに下がらせる。扉が閉じられ、室内には再び沈黙が落ちた。


「まずは、ライラック嬢。……カインとは、随分と親しいのかしら? ああ、発言は許します。お話しなさい」


 王妃の問いかけに、アリスは小さく返事をしながらも、言葉を選ぶように一瞬視線を伏せた。

 膝の上で揃えていた手の震えを抑えるように、ぎゅっと握りしめる。

 そして、意を決したように顔を上げ、ゆっくりと口を開いた。


「私は、カイン殿下とは学園の生徒という括りの中での、先輩と後輩という関係に過ぎません……。けして、特別な想いを抱いているわけではございません。生徒会の活動でご一緒する機会は多くありましたが、私からは恐れ多くて……」


「あくまでも、生徒会の役員としての関わりしかない、と?」


 王妃の確認に、アリスは躊躇うことなく頷いた。


「……私には、故郷に残してきた恋人がおります。幼いころから結婚を約束してきた、大切な幼馴染です。私は彼と共に領地を良くするために、学園で多くを学び、その知識を持ち帰ることだけを考えてまいりました。殿下から頂いたお言葉の数々は……確かに、そのような関係を示唆するものが多かったように思います。ですが、誓って、想いを通わせるような関係ではございません」


 その言葉に、ユーリアは静かに息を呑んだ。


 ――カインの想いとは裏腹に、向けられた当の本人であるアリスは、そのような未来をまったく望んではいなかったのだ。


 学園で得た学びを故郷へ持ち帰り、愛する人と共にその知識を生かして領地を豊かにする――それが、彼女にとってのささやかでいて確かな夢。

 しかし、美しい容姿と学びに対する誠実な姿勢に目を留めた王族――カインに想いを向けられたことで、その日常は歪み始めた。

 身分の差という越え難い壁の前で、アリスは彼の言葉を巧みに受け流すこともできず、ユーリアや自身の婚約者への罪悪感や、カインの態度による周囲からの圧力に、アリスは次第に追い詰められていった。


 カインの婚約者であるユーリアに助けを求めることができれば、あるいは違ったのかもしれない。

 だが、辺境の下級貴族に過ぎない彼女が、公爵令嬢であり王子の婚約者であるユーリアに直訴するなど、叶うはずもなかった。


 それでも諦めきれず、領地に居る父へ助けを求める手紙を送り、カインの一方的な執着を必死にかわしながら日々をやり過ごしていた、そんな折――内密に、王妃から一通の手紙が届いた。

 そして、その招きに応じるまま、アリスはこの場へと導かれたのである。



「そう。……でもね、このままでは、あなたはカインに娶られることになるわよ?」


「そ……それは、どういう……」


 王妃の無慈悲とも言える一言に、アリスは激しく動揺する。

 今にも崩れ落ちそうになりながらも、どうにか疑問の言葉を絞り出した。


「カインを溺愛する陛下が、あなたを与えようとするからよ。リリィシアム嬢に代わって、あなたをリリィシアム家の養子とし、そしてカインに嫁がせる。それが無理であるならば、リリィシアム嬢を正妃のままに、ライラック嬢を側妃にする……もちろん、男爵家にも、公爵家にもそれ相応の見返りを与えて……あの人の、いかにもやりそうなことだわ」


「そんな……っ! それでは……私は、私は……っ」


 絶望という感情に呑まれるように、アリスは両手で顔を覆った。

 指の隙間から零れ落ちた涙は、ゆっくりと手の甲を伝い、ドレスの袖を濡らしていく。


 そんな彼女を見て、ユーリアは思わず手を伸ばし、その背をそっと撫でた。

 全身で嘆き悲しむその姿は、どこか羨ましくもあり、同時に痛ましくもある。

 ユーリアは言葉をかけることもできぬまま、ただ静かに、優しく背中を撫で続けた。


 アリスの努力も、誠実さも、けしてカインのためのものではない。

 生まれ育った故郷と、そこで待つ家族や恋人、そして領民のためだけに向けられた、ひたむきな想い。

 その在り方は、ユーリア自身のものよりも、なお気高く、尊いもののように感じられた。


 ユーリアの努力と献身は、そのすべてがカインへと向けられていた。

 在りし日を胸に刻み、彼と肩を並べて立つためだけに、ひたすら己を磨き続けてきたのだ。


 隙を見せれば、容易く追い落とされる。

 ほんのわずかでも気を緩めれば、カインは王族としての価値を失いかねない。

 たとえ王が絶対的な味方であったとしても、やりようはいくらでもある。

 ――そう、アナベラの死のように。


 そして、今この場にいる御方は、きっと躊躇などしないだろう。

 それは、自らの息子に王位を継がせたいという私情からではない。

 国のためにあろうとする、国への絶対的な献身――その名の下に。


 そう、何もかもが遅すぎたのだ。

 ユーリアがいくら完璧であろうとしても、それをカイン自身が疎ましく思うようになってしまえば、もはや意味はない。


 おそらく――アナベラの死を境に、王妃である彼女の計画は動き始めていた。

 ユーリアとカイン、それぞれの教育係を選定したのも王妃だ。

 その後の学びの内容、日々のスケジュール、公務の配分に至るまで、すべては彼女の掌の上にあった。


 二人の間にすれ違いが生じていくことも、ユーリアの過剰な責任感や王妃に対する警戒心でさえも――最初から見越されたうえで、意図的に手が加えられていたのだろう。


 カインの中にいつのころからか芽生えた劣等感を、少しずつ、確実に煽るために。

 そしてユーリアという存在そのものを、重荷として疎ましく思わせるために。


 長い時間をかけて、静かに、しかし確実に進められてきた計画は、すでに終盤へと差しかかっている。

 あとはきっと――落ちていくだけなのだ。


 王妃は表情を変えることなく、アリスの嗚咽が室内に響く中、静かに口を開いた。


「落ち着きなさい、ライラック嬢。あなたのお父様からも、嘆願の手紙が届いています。身分的にも、決して王家へ嫁げるような娘ではないと。あなたにすでに婚約者がいることも、きちんと書かれていましたわ。実に誠実で、働き者だとも。ただ……故郷に残してきたその方は、平民なのよね?」


「は、はい……。元は、とある貴族の庶子として生まれましたが、成人してすぐに除籍され家を出たと聞いております。現在は我が家で執事をしております。うちは商家上がりの男爵家ですから……たとえ今は平民であっても、誠実な彼であれば婿として迎え入れようと、そう……父が申しておりました」


「では、貴族としての教育は受けていたということね」


「そう、聞いております」


「それならば、男爵には私が取り計らいましょう。あなたはすぐにでも家へ戻り、その方と籍を入れなさい。ただ……平民という身分のままでは、いけません」


 王妃のあまりにも大胆な提案に、アリスは驚愕のあまり目を見開いた。


「か、彼を……貴族籍に戻せと、そうおっしゃるのですか? しかし、彼の家は……」


「生家である必要はないわ。わたくしの知っている貴族家へ、養子縁組を頼みましょう。とても仲の良いご夫婦なのだけれど、子に恵まれなかった方々がいらっしゃるの。そちらに話を通してみます。事情を説明すれば、きっと協力してくださるでしょう。あなたが領地へ戻る頃には、すべて整えておきます」


 まるで、あらかじめ決められていたかのような口ぶりだった。

 ――いいえ、もしかすると、すでに話は通してあるのかもしれない。


 あまりにも滞りなく進む話に、アリスの涙はいつの間にか止まっていた。

 思わず、といった様子で肩を抱いていたユーリアと視線を交わす。


 やがて、どちらからともなくゆっくりと身体を離すと、アリスは深々と頭を下げた。


「……ライラック様。あなたは、被害者だったのですね」


「リリィシアム様……申し訳ありませんでした。私が、高位の方への接し方を誤ったのです……」


「いいえ」


 ユーリアは静かに首を振る。


「学園でのあなたの様子を、わたくしは折に触れて拝見しておりましたが……常に節度をもって接していらしたように思いますわ。ただ、あなたがあまりにも魅力的だった。それだけのこと」


 一瞬、言葉を選ぶように間を置いてから、ユーリアは続けた。


「誠実で、優しくて……高位の方にとっては、何よりも美しい宝石だった。それだけですわ」


 ユーリアの言葉を受け、アリスは改めて深々と頭を下げた。

 そして王妃が呼び寄せた侍女にそっと支えられながら、静かに部屋を後にする。


「彼女に婚姻歴がついてしまえば、たとえ純潔であったとしても、王族として迎え入れることはできないわ。きちんとした貴族同士の婚姻ならば、それがたとえ陛下の勅命であっても、国法が彼女を守るでしょう」


 扉の向こうへと消えていくアリスの背を、王妃は微動だにせず見送っていた。

 やがて扉が完全に閉まるのを見届けると、その視線をゆっくりとユーリアへ向ける。


「あなたはあなたで……すでに覚悟を持って、こちらへ来たようね」


「……はい」


「後悔はしないの?」


「後悔ならば、すでにし尽くしました。今さら悔いたところで、わたくしが歩んできた人生が変わることはありませんから」


「随分と潔いのね。あれほどカインに固執していたというのに」


 王妃の言葉を受け、ユーリアはふと視線を落とし、すでに冷めきった紅茶の水面を見つめた。


「……カイン様とわたくしは、きっと長く側にありすぎたのでしょう。この想いが、過去への執着なのか、それとも彼自身への愛情なのか……自分でも分からなくなってしまったのです。わたくしは家族とは縁遠く育ちました。その分、アナベラ様とカイン様、そして陛下から、“家族”というものの形を教えていただいたのです。あの邸宅の中で見た、幸せな家族の姿を……いつまでも忘れたくはなかった。カイン様となら、あのような家族を築いていけるのだと……そう、信じておりました」


「アナベラ妃だからこそ、殺伐とした王家の中で、ひと時の夢を見せることができたのよ。あの女は……わたくしから見れば、魔性だったわ」


 王妃は当時を思い返すように、わずかに物思いに沈みながら視線を窓の外へと移し、淡々と語った。

 あの頃、王妃とその子供たちは、アナベラのために用意された邸宅で、夫であり父でもある王が自分たちや国よりも、理想の家族像というものに溺れていくのを見て、いったい何を思っていたのだろうか。



「彼女は、ライラック嬢よりも考えなし……いえ、天真爛漫だったわね。まるで物語の主人公のように、あっという間に多くの人の心の在り方を変えていった。……だからこそ、国の中枢には置いてはおけなかったのよ。彼女のような存在は、不確定を引き寄せる。良い方向にも、悪い方向にもね」


 王妃は一度、言葉を区切る。


「現に、彼女が亡くなってから随分と時が経った今でも、あなたもカインも、陛下でさえ……未だにアナベラが見せた“夢”に囚われている。それによって生じる歪みは、決して無視できるものではないわ。ここで縁を断たねば、いずれ同じようなことが起きるでしょう。巡り巡って国が乱れることは、決して許されないの」


 王妃の表情は、どこか見覚えのあるものだった。

 ――そう、まるでつい昨日まで、鏡の前で見ていた、ユーリア自身の顔に浮かんでいた表情だ。


 長年、少しずつ溜め込んできた負の感情が、体中を這い回り、自身を黒く染め上げていることに気づきながらも、それを見て見ぬふりをしているような――悍ましく、そしてひどく空虚な顔。


 王妃は冷めきった紅茶に、ティースプーン一杯分の砂糖をさらさらと落とした。

 砂糖の粒に揺れた紅茶の水面が波紋を描き、白い結晶はゆっくりと沈み込んでいく。


 決して交じり合うことなく、底へと沈殿し、すべてを飲み込んだのち、何事もなかったかのように波紋は静まった。


「わたくしたちは、似ているわね。結ばれるはずの人とは心から交わることなく、この砂糖のように、本当の心を沈めたまま……相手の都合のいいように、静かに笑うの」


「……王妃様」


「それが、王族からわたくしたちに求められた価値よ。感情を表に出さず、常に冷静に物事を把握しなさい。王を立て、常に一歩引きながらも、最大限その役に立ちなさい――何度も、何度もそう言われてきたわ」


 王妃は、まっすぐにユーリアを見据える。


「あなたにも、身に覚えがあるでしょう? わたくしと同じ教育を、あなたにも施したのだから」


「……はい」


 小さく頷いたユーリアに、王妃はほんのわずかに表情を和らげた。

 そして、砂糖が沈んだまま、なお混ざりきらない紅茶に口をつけると、ゆっくりとカップを元の位置へ戻す。


「あらかじめ磨き抜かれ、完璧にカットされた美しい宝石を与えられても見向きもせず、たまたま目に留まった、磨けば美しくなるであろう原石を欲しがる……。王族に求められるがまま身につけてきたものが、何よりも王族に疎まれるだなんて――本当に、皮肉な話よね」


 王妃は小さく息を吐き、かすかに肩を竦めた。


「……あぁ、ごめんなさいね。あなたといると、どうにも息がしやすくて。つい、話し過ぎてしまうわ」


 その言葉に、ユーリアもまた、恐れ多くも似た感情を抱いていた。

 今まで、目の前の御方とこれほどまでに長く言葉を交わしたことはない。それでも、王妃の口から紡がれる一つ一つの言葉が、まるで自分自身の喉から発せられているかのような錯覚に陥るほどだった。


「わたくしはね、確かにあなたとカインをすれ違うよう誘導したけれど、それでも様々な場面で猶予を与えていたわ。互いに歩み寄り絆を作ることが出来たのなら、けしてこのような結末にはならなかったでしょう。結果的にあなただけが歩み寄り、カインは途中で足を止めてしまった」


 王妃はソファからおもむろに立ち上がると、傍らの棚へと歩み寄り、手にしていた鍵で扉を開ける。

 中から数枚の書類を取り出し、それを静かにユーリアの前へと置いた。


「さぁ、これらをよくお読みなさい。そして――あなた自身の手で、すべてを終わらせるの」



 目の前に差し出された数枚の書類へ、ユーリアは躊躇うことなく、ゆっくりと手を伸ばした。

 そこに記されているであろう自身の運命をなぞるように、彼女の瞳は静かに文字を追っていく。


 室内を満たす沈黙の中、響くのは柱時計の規則正しい秒針の音だけだった。

 やがて、時を告げる鐘の音が鳴り渡る。


 ユーリアの手には、繊細な羽根ペンが握られていた。

 その先からは、彼女の心の内を映したかのような、踊るように美しく整った文字が、確かに紙の上へと刻まれていく。



「カイン様がわたくしを過去とするのなら、わたくしも、カイン様を過去といたしましょう」






  ***






 ユーリアは、わずかに心弾む思いを胸に抱きながら、馬車に揺られていた。

 馬の蹄が石畳を打つ音と、道の上で回る車輪の響きが重なり合う。


 窓に引かれたカーテンを指先でそっとつまみ、外を覗けば、差し込む日差しが指を照らし、ユーリアの白い肌をいっそう際立たせた。

 視線の先には、少しずつ目的地が近づいてくる。――久方ぶりに目にする、あの学び舎。


 今日は、休学していた学園へと、久しぶりに足を踏み入れる日だった。


 ここ最近、煩雑だった諸々の手続きもようやく終わり、ユーリアの周囲にも幾分かの落ち着きが戻りつつあった。

 王妃の采配は実に見事で、あらゆる事柄が滞ることなく、まるで定められた流れに沿うかのように進んでいき、気が付けばすべてが終わっていた――そんな錯覚すら覚えるほどだった。

 彼女の全面的な協力がなければ、今頃自分はどうなっていたのか。そう思うだけで、胸の奥がざわめく。


 登校時間帯の校門前ロータリーは人通りも多く、馬車の出入りも絶えない。

 その賑わいさえ今はどこか懐かしく感じながら、外の冷え込みに備えて厚手のコートを羽織り、下車の時を静かに待つ。


 やがて馬車がゆっくりと停まり、扉が音もなく開かれた。

 遮断されていた周囲の喧騒が、冬の冷たい空気とともに一気に流れ込み、思わず目を細める。

 ユーリアが慎重にステップへ足をかけた瞬間、視界にすっと影が差し、誰かの手が差し伸べられた。


「……あら、なぜあなた様がこちらに?」


「今日が久しぶりの登校だと聞いてね。少しでも励みになればと思って」


 差し出された手の主――その青年は、寒さをまるで感じさせない朗らかな笑みを浮かべながら、ユーリアの手を取り、丁寧に馬車から降ろした。


「ふふ……もう学園生でもありませんのに、こんな目立つ場所でお待ちになっていたの?」


「構わないさ。ここの卒業生でもあるしね。それに学園長にも許可は取ってある。これくらい目立たないと、君のためにならないだろう?」


「お忙しいでしょうに……本当に、心配性ですこと」


 純粋な気遣いが嬉しくて、ユーリアは頬を淡く染めながら視線を逸らす。

 それを見て、からかうような笑い声が返ってきた。

 そんな二人のやり取りを、周囲の学園生たちは唖然とした様子で、遠巻きに見つめていた。


「ねえ、あちらの方……休学されていたリリィシアム様ではなくて?」


「それに、お隣の方は……え、やっぱり両親から聞かされていた話は本当だったの?」


「あのご様子、いったいどういうことですの? カイン様は……?」


 遠くから聞こえてくるざわめきの中には、すでに親から事情を知らされ、ある程度状況を把握している者もいるようだった。

 とはいえ、事が公になるのはまだ少し先の話だ。事情を知らぬまま、困惑する者も少なくない。


 ユーリアは彼の手を取ったまま馬車を見送り、そのまま校舎へと歩き出した。








 ――今、ユーリアの隣にいるのは、カインではない。


 彼は今、学園を休学したまま、王城の自室にて謹慎を命じられていた。


 カインが引き起こした一連の騒動は、すべて王城の内側で起きた出来事であり、人目のない温室で交わされた、きわめて密やかな一幕に端を発している。

 そのため、多くの者は何が起きたのかを知らぬまま、突如言い渡された謹慎処分と、陛下の退位を巡る噂に、大きな困惑を覚えていた。


 火種は、もともと存在していたのだ。


 正妃の同意も得ぬまま、王命という独断によってアナベラ妃を側妃として迎え入れたことに、階級を何より重んじる高位貴族たちは、決して良い感情を抱いてはいなかった。

 複雑な思惑が絡み合う貴族社会を、商家の娘が嵐のようにかき乱す――その光景を、好意的に受け取れる者などいるはずもない。


 たとえそれが、アナベラの純粋な想いと行動によるものであったとしても、社会の器に見合わぬものであれば意味を成さない。

 そして、その流れの上で、彼女の息子であるカインが起こした行動は、あまりにも致命的だった。


 ユーリアと別れた後、彼は陛下のもとを訪れ、事の次第を説明したうえで、ユーリアとの婚約解消を願い出た。

 そして――陛下がかつてそうしたように、己の「愛する人」を手に入れるため、動き始めたのだ。


 陛下は自身が先王に願い出た時と同じように、カインの望むままに王命を出す。

 しかし、事はそう都合よくは運ばなかった。


 今この時、王城という場を裏で円滑に取り仕切っているのは、王ではなく王妃である。

 多くの高位貴族たちが集うその中心で、彼女は密かにあらゆる部署へと指示を出し、必要な書類の進行を意図的に遅らせ、時間を稼いでいた。


 その間にユーリアはリリィシアム公爵家へ戻り、カインとの婚約解消の件を告げた。

 案の定、公爵家当主である父は事業の今後を思い激昂し、母は失望を隠そうともせずにユーリアを見つめた。

 慰める言葉一つかけることなく、繋ぎとめることもできない出来損ないは必要ないと詰られ、このような娘を持つなど恥ずかしいと嘆かれた。

 兄は淡々としたユーリアの様子に何かを察しているようではあったが、それでも口を開くことはなく、ただ叱責を受け続ける妹の姿を黙って見ているばかりだった。


 ユーリアは自ら除籍の書類を差し出し、その場で署名を受け取ると、小さな鞄ひとつを携えてリリィシアム家を後にした。

 家族とは縁遠く、ほとんど眠るためだけに戻っていた屋敷を振り返っても、胸に去来するものは何もなく、むしろ心の内が軽くなったような気さえしていた。

 リリィシアム公爵家が今後どのような道を辿ろうとも、ユーリアが再度振り返ることは無いだろう。


 そうして、予定通り王妃の遣わした使者に拾われ、ユーリアは王妃の所有する屋敷に、しばらく身を寄せることとなったのだ。


 一方カインは、長年婚約者を務めてくれていたユーリアに対して、多少の罪悪感こそ抱いてはいたものの、彼女の幸せを願うだけで、事の本質を完全には理解していなかった。

 政略の駒として扱われていた娘が、その役目を果たせなくなった時に、どのような末路を辿るのか――そんなことは、考えもしなかったのだろう。


 彼がようやくその現実に気づいたのは、アリスへの縁談の打診をしてしばらくしてからだった。

 随分と待たされた上に、結果「既婚者である」という理由によって縁談が退けられた時だった。


「アリスが……既婚者? どういうことだ! 彼女はまだ――」


「間違いございません。すでに神殿へ婚姻の証明書が提出され、受理されたことを確認しております。お相手は子爵家に籍を置く養子ではありますが、その血筋自体は伯爵家のもの。ライラック男爵家には嫡子がアリス様お一人のみであるため、婿を迎え、すでに家へと入られているとのことです」


「そ、そんなことが……あるはずが……。いや、今からでもどうにか父上に――」


「いいえ。それは、たとえ陛下であっても不可能でございます。すでに婚姻は正式に受理されており、ライラック様は王族へ嫁ぐお立場ではございません。これ以上、貴族同士の婚姻に干渉なされば、国法に抵触することとなりましょう」


 淡々と事実だけを述べる政務官の言葉に、カインは何ひとつ返すことができず、唖然としたまま立ち尽くした。


 ユーリアとの交流会が後味の悪い形で終わったことに、彼なりの罪悪感はあった。

 それでも胸の内に芽生えた想いだけは否定できず、その勢いのまま、アリスを手に入れようと動いたのだ。

 しかし、家の事情で領地に戻っているとばかり思っていたアリスは知らぬ誰かと婚姻しており、そのまま学園からも去っていた。


 この場で、カインが手にしているものは、いったい何なのだろうか。


 ユーリアは自らの手で手放し、アリスはその手をすり抜けるようにして王都を去った。


 今、彼のもとにあるのは、王から向けられた過剰な愛情と、この身ひとつだけ。

 支えてくれていた者を、自身の行いによって失い、その行方すら思い描くことができない。


「……ユーリアは……ユーリアは、どうした」


 呻くように漏れたその言葉に、昔から王城に仕える年嵩の政務官は、ことさらに冷たい眼差しを向けた。


「リリィシアム嬢は、リリィシアム公爵家からすでに除籍され、修道院へ入られると聞いております」


「修道……院? 除籍……?」


 呆然と繰り返すように口にするカインに、政務官が思わずといったように小さく息を吐いた。


「ただの政務官である私が、このような言葉を殿下に申し上げること自体、不敬であると承知の上でお話しいたしましょう。……王族から婚約を解消されたご令嬢が、どのようなお立場に置かれるのか。殿下は、それをお考えになったことがおありですか?」


「……それは」


「特に、リリィシアム嬢は、物心つく頃から王家で囲ってきたご令嬢です。王家へ嫁ぐにあたり、相応の教育を受けておいででしょう。それこそ、国の根幹に関わる事柄も含まれているはずです。そのようなお方を、安易に他家へ嫁がせるわけには参りません。ですから、婚約が解消された時点で外部に利用されぬよう、国の監視下にある修道院にて務めを果たしていただく――それが、当然の措置なのです」


「そんなこと……聞いていない……」


「本来、殿下にお伝えする必要すらない話でございます。政略の通り、リリィシアム嬢をお迎えになっていれば、何の関係もないことでしたからな。……私は、これほどまでに殿下の御心に寄り添い続けた方を、他に存じ上げません。いったい、リリィシアム嬢の何がご不満だったのか。私には――一生、理解できぬことでしょうな」


 辛辣な言葉を残し、彼は静かに一礼すると、そのまま部屋を後にした。


 閉ざされた扉の前に、カインは力なくへたり込み、どうにもならない現状に頭を抱えた。


「どうすれば……どうすればいい……」


 自身の置かれた立場に今更ながらに気づき、孤独と絶望が同時にせり上がってくるような感覚に、どうしようもなく体が震えて蹲ることしか出来ない。


 いつもなら、ユーリアが「仕方ありませんね」とでも言うように、いくつもの選択肢を示してくれていたはずだ。

 だが、彼女はもういない。

 カイン自身が、その手を振り払ってしまったのだから。





 カインの立場は、今回リリィシアム家を手放したことで、大きく揺らぐこととなった。

 あれ以来、部屋に閉じこもるようになってしまった彼のために、王はカインが欲しがるアリスへの縁談を無理やりまとめようと強硬策に打って出る。

 しかしその動きは、王妃と他の王子たちによって次々と阻まれ、最終的には貴族会議において王自身が糾弾される結果となった。


 それは、先王の代から続く悪習であり、あまりにも多くの事柄を、国を支える貴族たちの意思を顧みぬまま押し進めてきた当然の帰結でもあった。

 国の頂点に立つ王族としての在り方を、改めて問われることとなった末、王は退位を余儀なくされる。

 こうして第一王子、ヘザー・リラ・アマレスクが新たに王位へと就くこととなった。


 王妃もまた、王の退位と共にその座を退くことになる。

 だが、その表情にいつもの険しさはなく、どこか肩の力が抜けたような、すっきりとした笑みを浮かべていた。


 そして、新たに王位を継ぐ彼の隣に立つに相応しい女性として、王妃は一人の名を推薦する。


「王家に迎え入れても何ら問題のない教養を備え、何事にも真摯に取り組み、努力を怠らぬ淑女を――皆さまも、よくご存じでしょう?」


 王妃は長年にわたり、少しずつ自身の勢力を広げてきた。

 国を思う高位貴族の重鎮たちと手を取り合い、静かに、しかし確実に“反逆”を積み重ねてきたのである。


 根を張り、幹を太らせ、枝を伸ばし――

 そしてついに花開くその時を迎え、ここまで辿り着いたのだと言わんばかりに、王妃は穏やかに、にこやかに微笑んだ。





 ***






「学園内に、このように堂々と入ってしまって……本当に、よろしいんですの?」


 学生で溢れる校内を、卒業生が当たり前のように歩いていることに違和感を覚え、ユーリアがそう問うと、ヘザーはなんでもないことのように軽く笑った。


「言っただろう? 学園長にはちゃんと許可を取ってあるって。まぁ、教室の前までの話だし、このあと学園長にも用事があるからね」


「……ちなみに、どのようなお話を?」


「ん? もちろん――俺の婚約者を、どうぞよろしく、って」


「まぁっ! お止めくださいませっ」


 からかうようにそう言ってウインクするヘザーに、ユーリアは思わず淑女らしからぬ声を上げて抗議する。

 だが、それすらも可笑しいのだろう。ヘザーはくすくすと笑いながら、ユーリアの頭をやさしく撫でた。


 未だこうした接触に慣れていないユーリアは、不意に触れられたことに驚き、頬が熱を帯びていくのを自覚する。

 何とか平静を装おうとするものの、歩き方はどこかぎこちなくなってしまった。


「これから何かと大変なんだから、これくらいはしておいたほうがいいんだ。君はもうリリィシアム家の令嬢でもなければ、カインの婚約者でもない。こうして俺と一緒にいる姿を見せれば察する者も多いだろうけど……世の中には、とことん鈍い連中もいるからね。変に絡まれる可能性だってある。だから、少しくらいは甘えてほしいんだ」


「……ですが、覚悟はしてきましたわ」


 ユーリアを取り巻く環境は、すでに大きく変わっている。

 今の彼女はリリィシアム家の令嬢でもなければ、カインの婚約者でもない。

 その立場を失ったことで生じるであろう不都合や軋轢も、すべて受け入れる覚悟でここへ来たはずだった。


 それなのに――新たな婚約者であるヘザーは、隙あらばユーリアを甘やかそうとしてくる。


 これまでの人生で、誰かに甘えるという経験をほとんど持たなかったユーリアは、そもそも「甘え方」を知らない。

 だからこそヘザーは、それを理解した上で、少しずつ距離を縮め、時に強引なほどに手を引きながら、確実にユーリアの心を開いていった。


「君の覚悟は、もちろん尊重するよ。でもね――必要のない中傷を、俺は許すつもりはない。君はさ、もっと甘えていいんだ」


「ヘザー様……」


「ヘヴ、って呼んでって言ってるだろ?」


 戸惑うように見上げるユーリアに、ヘザーは笑みを絶やすことなく、穏やかにそう言った。

 カインとは明らかに異なるその距離感に、ユーリアがこれまで身につけてきた淑女教育は、ほとんど役に立たない。

 冷静でいようとすれば、ヘザーのさりげない甘やかしに崩され、どう振る舞えばよいのかわからず戸惑えば、今度は年上ならではの包容力で、不安そのものをそっと包み込まれてしまう。


 リリィシアム家から切り捨てられ、王妃の所有する屋敷に身を寄せることになったあの頃。

 何者でもなくなった自分の先行きを思い、不安に苛まれては、眠れぬ夜を幾度も重ねていた。

 けれど王妃の紹介で、その息子であるヘザーと言葉を交わすようになってから、彼のおおらかさと溌溂とした気質に触れるたび、ユーリアの心は少しずつ解きほぐされていった。


 前を向くことさえ怖れていた彼女は、気づけば、ほんのわずかだが――未来を思い描けるようになっていた。



 ヘザーと共に過ごすようになって、まだそれほどの時は経っていない。

 それでも、彼と時間を重ねるうちに、ユーリアはひとつだけ確信を得ていた。

 ――かつてカインに抱いていた感情は、決して恋ではなかったのだと。


 カインへの想いは、おそらく同情と家族愛。

 幼い頃から隣に在り続けた家族のような存在が、何かに傷つけられることが怖くて、大切な宝物を失うことが恐ろしくて、ただひたすら守ろうとしてきただけだった。


 だが彼もまた成人し、ユーリアより背も高くなり、もはや守られるべき存在ではなくなっていた。

 二人の道はすでに分かたれたのだと、今なら静かに受け入れられる。


 もう彼の背を追いかけようとは、思わない。


 ユーリアが自ら選び取った道の先に現れたのが、ヘザーだった。

 差し伸べられたその手を取り、今度は「共に歩む」道を進んでいく。


 いつの間にか、淡く色づきはじめていたこの想い――それこそが、きっと恋なのだろう。


「さあ、俺はここまで。行っておいで」


「……はい」



 ユーリアは、にじみ出るような自然な笑みをヘザーへと向けると、名残を惜しむように彼の手の温もりを手放し、教室の扉を開いた。

 その瞬間、教室内は水を打ったように静まり返り、居並ぶ生徒たちの視線が一斉にユーリアへと注がれる。


 カインとユーリアの休学、アリスの自主退学、そして王の退位と貴族たちの動向。

 数々の出来事が重なり、生徒たちの間では真偽不明の情報が錯綜していた。

 その渦中にある人物が、今まさに目の前に立っているにもかかわらず――ユーリアは少しも物怖じする様子を見せなかった。


 教室内をゆっくりと見渡し、洗練された優雅さで美しいカーテシーを披露する。


「皆様、突然の休学により、多大なご心配とご迷惑をおかけしましたこと、心よりお詫び申し上げます。諸事情により、リリィシアム公爵家からベラドンナ公爵家へ転籍することとなり、その手続きのため、しばらく学園を離れておりました」


 一拍置き、ユーリアは改めて名乗る。


「……改めまして、ユーリア・ベラドンナと申します。今後とも、どうぞよろしくお願いいたします」


 その言葉を合図にしたかのように、教室内はざわめきに包まれた。




 王命を私欲のために利用する王におもねり、ユーリアを代償として甘い汁を啜ってきたリリィシアム家は、もういらない。

 そして、一時の感情に身を委ね、これまで積み上げてきたすべてを自ら崩したカインの行く先に、ユーリアが付き従うことは、二度とない。


 王の身柄はすでにアナベラの別邸へと移され、静かな余生を送ることとなり、カインもまた、いずれ国外へと外交の駒として送り出され、この地を再び踏むことはない。


 王妃の静かなる反逆は成就し、その駒として動いたユーリアもまた、胸の奥に秘めていた暗く濁った感情を、ようやく昇華することができた。


 ただ流されるのではなく、ここを転換の時と定め、自らの手で舵を切ったのだ。





 もう、宝石の庭はいらない。









『約束しましょう。二人だけの、約束――』


『……どんな約束?』


『今度、別邸に行くときは、わたくしとカイン様と――二人で行きましょう?』


『二人で?』


『えぇ。だってカイン様がお一人で行ったら、アナベラ様を思い出して、泣いてしまうでしょう?

 だから、わたくしが一緒に行って、手を繋いでいてあげます』


『……泣かないよっ』


『絶対、泣きます』


『……じゃあ、母上に褒めてもらえるくらいになったら、一緒に行こう。

 泣かないくらい、強くなったら――』


『えぇ、約束しましょう。わたくしも、いっぱい頑張りますから』






 了






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