第40話:例のアレ再び
赤黒い呪瘴気の奔流が流れた瞬間、貴政は両手を前に出し、腹の底から叫んでいた。
「ATフィールド全開ッッッッッッッッッッッッッッッッッッッッ!」
瞬間、オレンジ色の力場の層が、周辺にいる仲間たちを守るように広範囲に渡り展開される。
日に一度だけ使用できる、ヒゴ=モッコス神の加護バリア。
それは貴重な切り札だ。
当然、温存は必須である。
だが貴政はこう思った――今、使わずしていつ使う? と。
ゆえにこそ、彼は躊躇わず、神の加護による無敵のバリアを広域展開し続けた。
しかし不穏な音がする。
ミシッ、ピシッ、とガラスのように軋むような音が広域に響き、事実それにはヒビのようなものがじわじわと広がり始めたのだ。
「ぬおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおッッッッッッ!」
しかし貴政は諦めない。
こんなところでバリアを解いて、全滅するわけにはいかなかった。
赤黒い奔流は止まらない。
ヒビの入ったバリアからは負のエネルギが漏れ出して、それが張り手を維持する少年の手をじゅうじゅうと穢し、焼き焦がす。
「ぐおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおぅぅぅぅぅぅぅ!」
それでもバリアを解かなかったのは、一重に彼のド根性、仲間たちを決して死なせぬという強い決意があったからだ。
どれほどの時間、ブレスが続いたかを正確に知る者はいない。
30秒かもしれないし、1分か、それ以上続いたかもしれない。
だが、なんにしてもそれは皆にとって永遠に等しい時間であった。
邪瘴気のブレスが終了するのと、ATフィールドが砕け散ったのはほとんど同じタイミングだった。
貴政の巨体は衝撃によって5、6メートルは吹き飛ばされる。
ちょうど、それはミュウのいる位置だった。
彼女は体に活を入れ、倒れた力士に呼びかける。
「タカマサっ! タカマサ、しっかりしてっ!」
そう叫んだミュウの目には涙が浮かんでいた。
それほど、ひどい状態だった。
彼の全身は爛れていた。
特に、邪瘴気を直接受けた両肘から先の損傷がひどく、それは重症の火傷のように、皮膚がずる剥け、赤くなり、肉が露出しているようだった。
ミュウは僧侶職ではないが、聖魔法を使った治癒ならばほんの少しだけ心得がある。
だが、それを使う精神力が今の彼女には不足していた。
こんな状況で何もできない。
その無力感が彼女を苛み、絶望の淵に引き込もうとする。
「どきな、お嬢ぉ!」
と、ヴェネッサが駆け寄って来て、彼の両手や全身に手持ちのポーションを惜しみなくかけた。彼女はまた、飲むタイプのポーションも持っていて、それを貴政の口に当てがって無理やり喉に押し込んでいく。
「どんなポーションでも構わねぇ! 泣いてる暇があるんなら、こいつに手持ちをぶっかけな!」
「で、でもヴァネッサっ!」
「でももだってもあるかってんだ! こいつがいなきゃ、あたいらは終わりだ! 回復アイテムを全部ぶちこむよ!」
そう言いながらヴァネッサは信仰魔法を唱え始めた。
ミュウはそのことを意外に思ったが、考えてみれば当然だった。
そもそも女戦士とは僧侶職になれなかった娘、落ちこぼれの聖女がなるものなのだ。彼女たちの本来の目的は、パーティに欠かせない女聖職者を男冒険者の魔の手から守り、その身代わりとなることにある。
つまり彼女たちは本来スウシャイ神の敬虔な信徒なのである。
というか神の加護という見えない防壁がなければ、ビキニアーマーなどという、機動性だけを重視した露出の多い鎧など端から着られるはずもない。
『オォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォ!』
獲物をしとめ損ねたイビルヤンカシュの咆哮が、再び、皆の鼓膜を揺らした。
そいつはまたも口を開け、赤黒い邪瘴気の塊をチャージしているようだった。
「万事休すたぁ、このことだねぇ」
冷や汗を掻いたヴァネッサが言う。
彼女は信仰魔法を諦めたらしい。
中途半端な魔法では蘇生は無理と判断したのだ。
「まさか死に際に隣にいるのが、オーク野郎とお前になるとはねぇ」
「馬鹿言わないで。チャンスはあるわ」
「チャンスだってぇ?」
「ええ、そうよ。というか、たぶん、その条件はタカマサが満たしてくれてるはず」
ミュウがそう言った時だった。
突如、地中から〝光の鎖〟――イビルヤンカシュを捕らえられるほどの規格外に太く巨大なもの――が、何本も現れ、邪竜の動きを拘束したのだ。
元々、上半身の一部だけを露出させている邪竜であったが、それらはまるで、あるべきものをあるべき場所に返そうというとするがごとく「それ」を地中に引き込んでゆく。
「ブレス攻撃は無料じゃあないわ。それを一度でも使わせた時点で、奴のパワーのいくらかを弱らせることに成功したのよ」
「ってことは、つまり……」
「その通り。タカマサがブレスを防いだ時点で、あたしらの勝利は決まっていたの」
言い切るとと同時に、光の鎖はイビルヤンカシュを完全に捕え、動きを封じた。
邪竜はもがき、暴れたが、封印のエネルギーはそれを上回る。
それは、ずるずると地面の中に引きずり込まれて行った。
邪竜の首はばたばたとのたうち、四方八方にブレスをまき散らしたが、それは虚空に花火を打ち上げるだけの悪あがきにすぎなかった。
「あ、姐さん! 見てくだせぇ!」
「アンデッドたちが消えてゆきますぞ!」
濃い邪瘴気の源泉が消えたことで、霊園内に沸き上がっていたアンデッドたちも消滅していた。
骸骨兵たちは灰となり、腐乱犬たちはぐずぐずと崩れ、生霊はもがき苦しみながら煙となって霧散する。
邪竜が地中に引き込まれ、完全に〝霊廟〟が沈黙した時、もはや周りで騒ぎ立てる者は何一つ、いなくなっていた。
「猫娘、お前……」
「あたしじゃない。全部、タカマサのおかげよ」
そう言いながら、ミュウは倒れた力士の胸にへたりこむように頭を乗せた。
彼女の猫耳がピクピクと動く。
その深部から力強い心臓の鼓動が聞こえてきたからだ。
声にならない安堵の声が彼女の喉から漏れ出した。




