彼女と彼(赤ⅲ)
目を閉じると、遠くからピアノの音が聞こえる。
ビル・エヴァンス。
たしか『Peace Piece』だったと思う。あの曲は、昔から私の時間を少しだけ止める力を持っていた。
私はもう、あの森の小屋にはいない。
でも、それは死んだという意味ではない。
私がいるのは、「時間の外側」——時計の針が永遠に8時13分を指したまま動かない、そんな場所だ。
最初は混乱した。
森の小径を歩いていたら、ふと霧が深くなって、それから突然、音のない空間に包まれていた。
空気は澄んでいて、すべてがゆっくりと沈んでいくような、深い静寂があった。
ここには、過去も未来もない。あるのは「今」だけだ。
でも、それが不思議と恐ろしくはなかった。
むしろ、体の奥にあった重たいものが、少しずつほどけていくような感覚があった。
時折、誰かの足音が聞こえる。
それはたいてい、あの子のものだ。
赤いフードのパーカーを着て、小さな手にチーズケーキを抱えて。
彼は時々、この場所の入り口に立って、私の気配を探す。
見えるときもあれば、見えないときもある。
でも、それでいいのだと思う。
そして、あの狼——彼もここに出入りする。
彼はもう「食べる」ことをやめた。代わりに詩を読み、音楽を聴き、人の話を聞くようになった。
人は時に、姿かたちを変えるよりも、役割を手放すことで変わるものだ。
私はこの場所で、かつての記憶を一枚ずつ干している。
古くなった、でも大切にされた毛布のように、それらは風に揺れ、日に焼け、やがて色あせて、やさしいにおいを持つ。
あの子が再びここに来たら、私はまたケーキを焼こうと思う。
時間が止まっているなら、焦る必要はない。
むしろ、ゆっくりと生き直すことだってできる。
たとえば、最初にスコット・フィッツジェラルドを読むところから。