由布子
海沿いのゆるいカーブを、ゆっくり走る一台のバイクがあった。
平日の午後まだ浅いこの時間帯には、交通量が少ない。
(いいお天気! 今日を選んで正解だったわ)
由布子は、カーブの膨れた部分にさしかかり、リーンウイズできれいに曲がると、フルフェイスのヘルメットのシールド越しに、大きく現れる空と海を見ながらそう思った。
空は青くやわらかな形の雲が、ところどころにぽっかりと浮かんでいる。その空を映した海もまた青く、太陽の光に輝きながらゆったりと広がっていた。
本来なら、六月のこの時期は梅雨空が続く筈なのだけれど、この一週間、殆ど曇ってもいない。
天気予報も長期になると外れることがあり、予定を決めるのには役に立たないこともあるけれど、今回は予報通りだ。それでも、もしも雨ならレインウェアを着こんで走るつもりで準備をし、この季節だからそうなっても致し方ないと覚悟をしていただけに、晴れた空がとても嬉しかった。
由布子の父は、早くに亡くなっていた。
母は父の生前から始めていた輸入雑貨店を営み、由布子を育ててくれた。しかし母はまだ若くて女性としても魅力的だったので、仕事ばかりではなく、いつのまにか恋愛を繰り返すのにも忙しくなってしまい、夜の外出が多かった。
由布子は幼い頃から一人家で母の帰宅を待つ生活をしていた。経済的には困らなかったが、母親の愛情については友人たちと同じものを与えられない寂しさを感じて育った。
いつの間にか、親子の心の間には距離ができていた。母親には自分から相談をすることがなくなり、母親のことも理解が出来なくなってしまっていた。
由布子は、学生生活の半ばからアパートに暮らし、アルバイトをしながら生活をして来た。母には母の生活があり、大人になった自分が一緒にいるよりも、別に暮らす方がお互いの時間を有効に使えると思い始めたからだ。
若くお洒落な母親だったので、大きくなってからは、よく知らない人たちから姉妹と間違われた。家を出る少し前の頃には、近所の人たちが「由布子ちゃん、お母さんが若くて姉妹みたいで良かったわね。みんなが羨ましがるでしょう?」などと、声を掛けて来た。
勝手な想像を否定したところで何も生まれないし、改善されることもない。そういう時、由布子は曖昧な笑顔を作って誤魔化すのが常だった。他所の家庭のことは、たとえ親しくしていても理解できないものなのだろうと思う。
大学を卒業後、製造業を営む会社に就職をし、OLとして働きはじめた。家庭的な事は嫌いではなかったので、時折ベッドカバーをパッチワークで作ったり、凝った料理に挑戦したりもする。
職場では、特に大きなストレスを感じるわけでもなかったが、同じことの繰り返しの毎日の中で、ふと非日常的な出来事に憧れることもあった。
バイクの免許証を取得したのは、学生の頃で、最初の2年は自宅から通学していた為、学校までの距離が遠く、時間の節約の為に免許を取得した。
お陰で同じ学部の友人たちからツーリングに誘われ、よく遠出をした。
バイク仲間には気持ちのいい人が多かったし、男女の境界が関係なくなるような開放感を感じられるところが魅力的だった。あっさりした性格なので、女の子同士の関係よりも、さっぱりした男の子たちとの方が付き合いやすいと感じていた。そうすると周囲には男の子が多いというのに不思議なもので、友人同士からは恋愛に発展することが少ないということなのか、彼氏はなかなかできなかった。
最初のバイクはレーサーレプリカで、ライディングポジションはきつかったけれど、トラックの横をすり抜けるのにも、夜道を走る時も性別の分からないところが気に入っていた。
しかし、だんだん肩や腰の筋肉が疲れるなどのデメリットを感じるようになり、最近になって今のアメリカンタイプのバイクに乗り換えた。
今回の旅の目的は海辺に一泊し、都合が合えば、その近くに住むネット上の友人と会ってみることにある。
平日を選んだのは、その方が日中の道路が空いていると考えたからだ。有給休暇は、ほとんど使っていなかったし、仕事も手の空いている時期だった。
その人とはSNSサイトで出会い、毎日言葉を交わしている内に親しくなった。恋愛に発展するかどうかは考えていなかったけれど、とてもいい人なので、長い付き合いの出来る友人としての関係が築けるなら、それで十分だと思っていた。
お互いの住所を明かした時、そう遠くない所に住んでいることが分かったので、実際に会ってみたくなったのだ。
年齢は、由布子よりも三歳年上の三十一才独身で、広告代理店でデザイナーをしていると聞いている。
気さくな人なので、何でも話し会える友人になれそうな予感があった。
海沿いの国道を走り続けて町に入ると、少しだけ海は遠ざかり、代わりに両側に民家や商店などが建ち並び始めた。
由布子が予約したのは、この町にある数件の宿泊施設の内、窓から海が見えるという小さなホテルだ。
国道沿いに立てられた看板をたどって、見え隠れする海を追いかけて行くと、ホテルはすぐに見つかった。
バイクを駐車スペースに駐め、タンクバッグと後ろに積んだ荷物のネットを取ってから、ヘルメットを脱いだ。
風に吹かれるのにまかせると、ストレートロングの髪は傷むし、排ガスなどで極端に汚れてしまうので、バイクに乗る時は必ず髪を束ねてからヘルメットの中に入れるようにしている。
外した髪のゴムをポケットに入れてから、何度か頭を揺すって髪をかき上げると荷物を提げてホテルへ入った。
チェックインカウンターで宿泊者名簿に名前を書くと、505号室の鍵を渡された。早速、小さなフロントを移動して5階へ上がるためにエレベーターに乗った。
エレベーターの中には、一面には、近所のレストランの名前が入った鏡が貼られ、その隣には朝食の案内、それから今週末に行われる花火大会の広告が貼ってあった。
それにしても、自分の暮らす街からほんの数時間で、花火大会のある海辺へ来られてしまうのだ。
由布子は、点在している頭の中の地図がつなぎ合わさる時の、不思議な感覚を味わっていた。
バイクに乗っていると、信号待ちの多い街中では暑さを感じるけれど、信号の少ない田舎の道や高速道路を長く走ると、この時期はまだ体が冷える。
それから万一転倒した時のことも考えて、由布子は必ず長袖の衣類を着用することにしていた。
(まずは、シャワーを浴びたい)
そう思った時、旧式のエレベーターが音を立てて、少し乱暴に停止した。
エレベーターと5階の床との間に2cmほどの落差があったので、由布子はちょっと肩をすくめながら廊下へと降り立った。
部屋は思ったよりも広くて快適だった。浴室は、最近改築されたらしく、新しい上に掃除がよく行き届いていた。
バイクの振動から解放された後にシャワーを浴びると、すべての不協和音が正されたように体が落ち着きを取り戻す。
汗が引いたところで薄いメイクを施し、持って来たシワにならない素材のドレスに袖を通した。
それが由布子の癖で、いつでも移動できるように荷物を整理すると、まだ時間に余裕があったのでメールのチェックをしてみた。
友人からの夕食の誘いが1件あったので「お休みを取ってツーリング中」と返事をした。
由布子が遊びの為に、有給休暇を取って休むのは珍しいことだ。考えてみれば、近頃は何か夢中になれるものも、なかなか見つからなかったのだ。
(帰ったら何か習い事でも始めようかしら?)
少しだけ昨日とは違う事を始めてみるのもいいかも知れないと思う。
(そろそろ時間かな?)と考えた時、目の前に置いた携帯電話が鳴り始めた。
「もしもし?」
「由布子さんですか?」
「はい、そうです」
「こんばんは。但馬彰です」
「あ、初めまして」
「初めまして」
「今、どちらですか?」
「あと5分ほどで、ホテルの前に到着できるかと思います」
由布子がちらりと時計に目をやって時間を確かめると、ちょうど約束の6時だった。
「わかりました」
「お待たせしてすみません」
「いいえ。約束どおりです。では、下へ降りてロビーでお待ちしていますね」
「そうして頂けると助かります。では」
「では、後ほど」
由布子は、さっと鏡を覗いた。
今頃になって、ちょっと大胆な事をしているような気もしたけれど、ドレスのデザインは上品だったし、これなら悪い印象は与えないだろうと思う。
薄いルージュを引き、バッグと鍵を手に部屋を出た。
エレベーターで1階に降り、由布子がフロントに鍵を預けているところに、入口から男性がひとり入って来た。
彰は写真で見るよりもずっと明るい印象の男性で、服装はカジュアルだったけれど、なかなかおしゃれだった。
由布子は男性の服装がいつもおしゃれであって欲しいとは思わないけれど、センスのある男性の方が好もしいと思っている。
女性によっては、自分の好みの服装を選んでパートナーに着せたがる人もある。けれど由布子の好みは個性のある人なので、そういう風だと物足りないと感じるような気がしていた。
「こんばんは」と彰の方から声を掛けて来た。
「こんばんは」と由布子も答える。
彰は、にこにこしながら「今日はね、おいしもののある場末の酒場にご案内しますよ」
と言った。
「なんで、場末なんですか?」
「場末に行かなければ、おいしいものが食べられないからです」
きっぱりと言う彰に、由布子は笑いながら(やっぱり面白い人だ)と思った。
そこからローカル線の線路沿いを歩くと、10分ほどで彰の言う場末の酒場に辿り着いた。
中はカウンターだけのお店で、八人ほどしか座れない。
入ったばかりの席には、つばの広い夏帽子を被り、真珠のイヤリングだけがちらと見える女性が座っていた。
その次には、勤め帰りのサラリーマンと思しき人たちが三人。
そのお隣に、後でもう一人来ると聞いたので、由布子は一つ席を空けて座った。
板前さんと奥さんが感じのいい人たちで、すぐにお店の雰囲気に打ち解けることができた。
由布子は初対面が苦手で、緊張をするのが常だった。
けれどもこの時は、彰が自分の馴染みのお店の中からここを選んでくれたお陰で、余計な神経を使わなくて済んだ。
こういうコーディネートの巧さは、彰の魅力でもあると思った。
隣のサラリーマンの声が大きくて、それが不思議な事にBGMの役割を果たし、お店の雰囲気を盛り上げている。
「たくさん食べましょうね」と彰が言い、地元のおいしいものを次々と注文してくれた。
由布子はお酒に弱い方ではなかったけれど、特にこだわりもなかったので、飲み物はビールや日本酒など、食べ物に応じて彰の選ぶ飲む物に合わせて飲んだ。
漁港のある町なので、お魚はどれも新鮮でおいしかった。
由布子は自分がお腹の空いている事に改めて気がつくほど、たくさん食べていた。
彰は、この土地が初めてで、知らないことの多い由布子の為に、魚の説明や捕れる時期やおいしい食べ方などについて、板前さんと話しながら楽しく説明をしてくれる。
箸の進み方がゆっくりになったところで、彰は、許可を求めてからメンソールの煙草を吸った。由布子の方には煙が来ないよう、ちゃんと配慮してくれたので、全く気にはならなかった。
その後、短いあいだ彰が席を立った。
由布子は、お酒を少しずつ口に運びながら、何気なく周囲を見回していると、店の入り口に座った女性がこちらを見ているのと目が合った。
彼女がにっこりと笑うので、由布子も微笑み返した。
どこか彰の微笑みに似ている。
(この土地の人は、みんなこんな風に温かく微笑むのかしら?)
由布子は、久しぶりに楽しい時間を過ごしている事に気がついた。
彰が戻って来たので、その気持ちを伝えようと思った。
そこで女性の微笑みをもう一度確認しようと扉の方へ顔を向けると、女性は既に扉の方を向いていて、顔が見えなくなっていた。
「ここは、雰囲気がいいですね」
「僕もそう思います。この田舎さの加減がちょうどいい。だから好きなんですよ」
「今は、こちらを向いておられないけれど、入口の横に座っていらっしゃる女性とね、さっき目が合ったの。そうしたら、にっこり微笑んでくださって……。私の暮らしているところでは、こういう事はないなぁと、考えていたんです」
「へぇ、そうですか……」
そう言いながら、扉の近くに座る女性へと視線を移した時、彰の目がピタッと止まった。
そして、どういう訳か、私たちの目の前に立っている板前さんが、ニヤニヤしながら背中を向けた。
由布子は彰と板前さん、入口の女性を見比べながら、何か悪い事を言ってしまったのだろうかと不安になった。
すると、彰がおもむろに立ち上がり、笑いながら入口の方へ歩いて行った。
そして「母さん。母さんでしょう?」と、その女性に声を掛けた。
「え……、お母さん?」
そう驚く由布子に板前さんが頷いた。
彼は、知っていたのだ。
お母さんと呼ばれた女性は、にこっと笑いながら立ち上った。
「あ〜あ、バレちゃった!」
「バレちゃった、じゃないでしょ? どうしてここにいるの?」
「だって、来てみたかったのよ」
由布子は、彰のお母さんの茶目っけのある態度に、思わず笑った。
板前さんが笑いながら「こちらへどうぞ」と言って飲み物を移動し、お母さんの席を彰の隣に作った。
彰は「しようがないなぁ」と言いながらも、小柄な母を従えて由布子の隣へと戻って来た。
「そういう訳で、母です」と彰が紹介してくれたので「初めまして。砂原由布子と言います」と由布子も挨拶をした。
彰の母は笑みを浮かべ、照れ臭そうに「彰の母です」と頭を下げた。
彼女が座ったところで、彰は母に向かって尋問だと冗談を言いながら、質問を始めた。
「ねぇ、どうして僕がここにいると分かったの?」
「分かった……っていう事とは違うのよ。だってほら、彰さんがいくつもここのお店のマッチを台所にため込んでるでしょう?だから、前から行ってみたいなぁと思っていたのよ」
「じゃあ何で、僕にそう言わなかったの?」
「だって言ったら、ダメって言われるような気がしてたんだもの。しようがないわよねぇ?」と、由布子の方を向いて同意を求めるので、由布子は慌てて頷いた。
「まぁいいや。でも、その帽子さぁ、変だから取ったら?」
「あははぁ……忘れてた!」
彰の母は、そう笑いながら帽子を脱いだ。
「彰さんがね、今日、夕飯はいらないって言ったでしょう?だから、もしかするかなぁと思ってたの! それで、お父さんに言ったらね、それじゃあ、ぜひ行って来いって言ってくれたからさ、畑を置いてね、さぁっとお父さんの食事だけ用意して、ここへ来たのよ」
自分の方を向いて話しかけてくれるので、由布子は相槌を打ちながら、母の話を聞いていた。
彰は半ば呆れながらも怒るわけでなく、あまり食べていないと言う母の為に料理を注文し、酒を注いだ。
由布子は、こういう親子の関係を眩しいものを見るような気持ちで、じっと眺めていた。
「で、親父さんも知ってたんでしょう?」
彰が板前さんに言うと、彼が楽しそうに答えた。
「だって、うちの彰がお世話になりますって、ご挨拶して頂いたんですから。それで新鮮なきゅうりも、たくさん頂いて……」
「ははーん、きゅうりが袖の下だったんですね」
「ははは、まぁ、そういう事です」
それから、母に向かって訊いた。
「それで、この帽子どうしたの?」
「ほら、顔を隠さなきゃと思って、急いでデパートへ行って買って来たのよ。だってぇ、畑の麦わらじゃ似合わないでしょう?」
「そりゃあ、そうだよな」
「だってあなた、こんなきれいな人と会うのに……」
由布子は、どんな顔をしたらいいのか分からずに下を向いた。
「隠してるんだもの」
「いや母さん、隠しているんじゃなくて、今日が初対面なんだよ」
「へぇ、そうなの。初めて会ったの? じゃあ私、お邪魔しちゃったかしら?」
「お邪魔しちゃった、って……」
彰が言葉に詰まったように言うので、その場にいたみんなが笑った。
そのあと彰の母に尋ねられるまま、由布子はバイクでやって来たこと、仕事の事や住んでいる街の話、一泊だけの滞在を予定にしていることなどを話した。
それらを一生懸命に聞く彰の母の態度には、素直な興味以外に余計なものがなく、とても安心することができた。
彰の母は、お酒を飲みながら陽気に話をした。
「でねぇ、その日は、いいお天気でさ、山菜を採ろうと思って山を上がっていたのね。そうしたら大きな音がして、自衛隊のヘリコブターがやって来たんですよ。それが、どんどんどんどん近付いて来て、《うわぁー、大きいなぁ》と思ったら嬉しくなっちゃって、『おーい!』って言いながら手を振ったの。するとね、何だかヘリコブターが山の上をくるくると回り始めて、何かを探すみたいにし始めたのよ。
《うわぁ、これは隠れなきゃ》と思って山の中の方に入ってさぁ、しばらく隠れてたらどこかへ行ったの。その間じゅう、もう、どうしようかと思って……。本当に怖かったんですよ」
その話を聞いていたサラリーマンの一人が、「遭難した人と間違われたんですよ、きっと。」と横から声を掛けたので、また、みんなが笑った。
彰の母は、とても明るくて、素朴な人だった。
由布子は、ふと自分の母親のことを思い出した。
両者は、全く似たところがないくらいに違う。
「それで、本当に明日には帰っちゃうんですか? 花火大会は、明後日なんですよ」と彰の母が言う。
「そうなんです。2日しか有給をもらって来なかったので」
「それは残念ですよ。もう1日休んだら、会社に叱られますか?」
「母さん、無理を言っちゃ駄目だよ。仕事なんだから」と彰が母親を制した。
「あら、ごめんなさい。だって今日は水曜でしょう? 明日が木曜だから、もしもうちに来て泊って行ってくれれば、ホテルなんかじゃなくってゆっくりしてもらえるかなぁって。そしてもう1日、金曜日も休んで土曜日の花火を見て帰ったら、日曜日でちょうどいいと思ったもんですから」
確かに彰の母の言う通りだ。
あと1日休みを取れば、花火が見られる。
彰の母の話を聞いていると、由布子も何だか、それを逃すのがとても惜しいことのように感じられた。
それに母親を大切にする彰の感覚が好きだったし、こんな風に素朴で飾り気のない彰の母といるのは心地よかった。
彰が農家の長男だと分かった以上「深入りしない方がいいわよ」と言いそうな友人の顔もちらと浮かんだ。
将来の事は分らないけれど、どうしてもこのまま帰ってしまうのは惜しい気がする。
もう少し長く、彰とこの母と一緒にいたい気持ちが募って来た。
これまで由布子の人生に欠けていたものが、ここにはあるような気がする。
そこまで考えた時、由布子は思い切って口を開いた。
「厚かましいのは分かっているのですが、お言葉に甘えてもいいですか?」
そして、それを聞いた彰の母が「やったぁ! 彰さん」と大喜びをした。
了
実在の友人をモデルに書いてみました。