76 小さな日常 会えない時間に 3
「ああ、遅くなっちゃったな。久しぶりで集中し過ぎたみたいだ。シルフィアはもう寝たかな?」
「そうですねえ。随分と寂しそうになさってましたから、起きて待っておられるかもしれませんね」
すり減った石畳の歩道を街灯の明かりが等間隔に照らしている。その上を急ぎ足で歩きながらふとこぼした僕へ、フリッツが返した言葉に身体が強張った。
「え? フリッツ、シルフィアに会ったの!?」
「はい。ウータさんに言付けを頼んでいたところにちょうど帰って来られまして」
「寂しそうだったって……なんで言ってくれなかったのさ!?」
「…………集中されてましたので」
「食事中とか!」
「本を片手に無心でパンを齧ってましたよね」
アレ、パンを石にすり替えても食べてましたよ、きっと。と頷きながら続けたフリッツへ食って掛かる。
「休憩中とか!」
「……いつ休憩を? 食べてる時以外、ずっと先生方と議論するか書き物をなさってましたよね?」
「でもでも、シルフィアが寂しがってたのなら」
「実は、シルフィア様は『帰って来なくても私は全然平気ですので、こちらのことは心配しないでしっかり勉強してきてください』と仰っていました。シルフィア様が寂しがっておられたというのは、俺の勝手な推測です。なので、あえてお伝えいたしませんでした」
フリッツの言いたいことはわかる。シルフィアは僕がこうやって遅くまで学院で学ぶことが大事なことだと思ってくれていて、それについて怒っているとか直ぐ帰ってきて欲しいとか、全く思っていないんだ。ただ多分、寂しさは感じていて、それが顔に出ちゃったんだろう。
そして、どちらも彼女の本当の気持ちなんだ。だからといって、シルフィアの寂しさをそのままにしておくわけにはいかない!
ちらりと腕の時計を見て急速に心が冷えていく。
なんで僕はこんな遅くまで。あれやこれやと議題を広げず、続きを明日にするとか色々方法があったのに。
いや、そういうことじゃなくて。とりあえず今はできる限り急いで彼女の元へ帰るんだ!
「……あっ、ちょっとテオドール様っ!? そんな爆速で走らないでくださいよっ」
「追いつけないなら後でゆっくり歩いてこい! 僕は一秒でも早くシルフィアのところに帰る!」
「もうおやすみされてますって。シルフィア様がこんな時間まで起きておられたことないじゃないですか」
「それでも、急がないと僕の気が収まらないんだよっ」
フリッツがまだ何か叫んでいるが、もう無視してひたすら走って家を目指した。
息を切らせるなんていつぶりだろう。ひざに手を当てて扉の前で呼吸を整えてから、縋るように取っ手を握る。
……シルフィアはどうしているだろう? 寝ている可能性が高いけど、もし、起きていたらなんて声を掛けよう。謝り倒してもきっと彼女は『大丈夫』と言うだけだろうから、もっと彼女の心を和らげる、罪悪感が残らない言葉はないかな。少しでも彼女の気持ちを押し潰すことがないようにしないと。
不安と恐れで心が落ち着かないまま、僕はゆっくりと扉を押した。
「わっ、何かいる? えっ、フィーア!?」
扉の隙間から見えた正面の階段に白っぽい何かがいて、小さく飛び上がる。目を凝らせばその物体は蹲っているシルフィアで、慌てて駆け寄ってみるとぐっすり眠り込んでいた。
初秋とはいえ、夜は冷える。それなのに、こんな玄関のすぐ前で母からもらって大事にしているウサギのぬいぐるみだけを抱きしめて…………僕を、待っていた。
そう理解した途端、心がギュッと掴まれたように痛くなって、涙がこぼれそうになった。
「フィーア、ごめんね」
小さくつぶやいて、そうっとぬいぐるみごと抱き上げる。相変わらず、軽い。大事な妻が腕の中にすっぽり入っているのを確認して、ふーっと大きく息をついた。
穏やかな寝顔に安堵するとともに、罪悪感が押し寄せてくる。しかし、それと同時に僕の心の奥底には仄暗い気持ちも湧き上がっていた。
シルフィアは、ルイーゼやウータがいたのに、僕がいないことをこんなにも寂しがってくれた。そう思うと独占欲が満たされるような、なんだか後ろめたいような歓びが足先からじわじわと上がってきた。
…………できるなら、僕だけを必要として欲しい。
「え、シルフィア様!?」
遅れてきたフリッツの声で我に返り、シルフィアを起こさないように静かに階段を上がる。
フリッツの大きな声を聞きつけて、二階の自室からルイーゼが飛び出してきた。さらに一階の四部屋にそれぞれ暮らしているウータ夫婦や影の護衛たちも扉から顔を覗かせて目を丸くした。
「申し訳ございません! シルフィア様が降りてこられたことに気が付かず」
「私、起きていたのに、シルフィア様が部屋の前を通ったのに気付けなかったなんて……」
青ざめる護衛達とルイーゼ。確かに彼女が外に出ていたら大変なことになってただろうけど、さすがに扉が開けば気付いてくれるよね?
僕はぐっすりと眠るシルフィアを見つめて気を引き締めた。
「思うにシルフィアは、気配を殺すのがとてつもなく上手いんじゃないかな。彼女は生まれてこのかた、ずっと疎まれ虐め抜かれて人から隠れるように過ごしていた。それが身に染み付いてしまったんだと思う。だから、僕達は他の人に対するより神経尖らせて彼女を気にしていないといけない」
……それはもしかしたら、気がつくと見失ってしまっている母と同じなのかもしれない。
子供の頃から、母の気配が時々フッと消えることが気になっていた。母の実家がないことは知っていたけれど、その理由が分かってしまったようで心が痛くなった。
母のことは父が大事にしてるから、僕はシルフィアを何より大切にしないといけない。
改めてそれが身に染みて腕に力を込めれば、モゾ、とシルフィアが動いて目を開けた。
「…………あ、テオ、見つけました」
ん? もしかして夢の中でも僕を探してたの?
あまりの申し訳なさで項垂れた僕の首に、まだ眠たそうなぽやんとした表情で、シルフィアが腕を巻きつけて頬を擦り寄せてきた。
「テオ、おかえりなさい」
柔らかな温もりと馴染んだ匂いに包まれて全身に幸せが満ちる。
シルフィアは、優しくて可愛い僕のたった一人の妻だ。
僕は彼女に寂しい思いをさせてしまったことを心底悔やんだ。深い反省とともに、頭がどんどん下がっていく。
「フィーア、今日は寂しい思いをさせてごめんね。次はないように……フィーア?」
全身全霊で詫びようと話し掛けたがシルフィアからの反応がない。よくよく様子を窺うと、どうもさっきのは寝ぼけていただけで、彼女は未だ夢の中らしい。
今どれだけ謝ろうとも彼女には届かない。僕は寝息をたてるシルフィアへ頬を寄せてささやいた。
「明日、お詫びに君の好きなケーキを買って帰るね……いや、違うな。明日はケーキを買う時間も惜しんで帰ってくるよ。お詫びのケーキはまた今度一緒に買いに行こうね」
あ、食べたら消えてしまうケーキより、戒めとして形に残るもののほうがいいかもしれない。……となると、宝飾品がいいだろう。
一人、頷いて計画を立てる。
■■
「テオ、ここはどこですか!? 今日はケーキを買うはずでは!?」
「ここは宝飾品を扱うお店。ケーキはこの後で買おうね」
ドアベルの音とともに店の扉を開ければ、隣のシルフィアが戸惑った声を上げ、腕にしがみついてきた。そこから伝わってくる彼女の温もりで、全身にくすぐったいような優しい気持ちがあふれてくる。
僕にぴたりとくっついたまま首を伸ばして周囲をうかがっている様子が、弟が庭で捕まえた亀のようで愛らしい。
シルフィアが感情豊かになって、僕を一番に頼ってくれる。結婚した頃は、想像しても現実になるなんて思えなかった。
小さな白金色のつむじを見下ろして口元が緩む。その気配を察したのか、こちらを見上げてきたシルフィアの眉が下がっている。
「テオ……? あの、私、こういうのたくさん持っていますよ? テオやお義母様にいっぱいもらったので」
高いものだし、これ以上必要ないと思います、そう言ったシルフィアは、店内を見回して並ぶ品の煌びやかさに臆している。
「あれでも少な過ぎるくらいだよ。それに、これは僕のしでかしたことに対するお詫びだからね。この気持ちはケーキだけじゃ足りないんだ」
その途端、落ち着きがなかったシルフィアがキッ目を上げ、僕の腕を掴むと有無を言わさず引っ張って外へ連れ出した。
「何度も言いましたが、テオはお勉強が何より優先なので、遅くなったからといって私へ詫びる必要はないのです。そういう理由なら、余計にいりません!」
……これは、本気で怒っている? 僕は間違えた? ええと、どうしようか。
「フィーア、ごめんね。怒らないで? 僕の言い方が悪かった。ここで君の気に入るものを買って僕がいないときはそれを僕だと思ったら、寂しさが少しは薄れるかなって思うのだけど」
言い方を変えると、シルフィアの勢いが緩んだ。
最初からこう言えば良かったのかな。
「……でも、結婚指輪がありますし、テオの代わりなんて何もできないと思うので……」
次の言葉を探すように俯いたシルフィアが、突然、ぎゅううっと抱きついてきた。
「次からは寂しがらずに待っていますので、帰ってきたらいつもよりちょっと多く、こうやってしてください」
フィーア、それは何より僕の帰宅を早めるのに効果的だと思うよ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
最近、テオは妻に押され気味のような気がする。




