73、小さな日常 夫妻、お祭りに行く 後編
お祭りの主な会場となる公園に近づくと、道の両側にびっしりと屋台や路上の出し物が並び、見渡す限りの空間が人で埋め尽くされていた。あちこちから聞こえるバラバラな音楽と喧噪で、隣を歩くフリッツとさえ声を張り上げないと会話もままならない。
僕は約束通りシルフィアを抱き上げて歩きながら、間近にある小さな顔を窺った。柔らかい白金の髪を編み上げて僕の髪と同じ色のリボンを結んだ彼女の頬は結婚当初に比べてふっくらとして紅潮し、瞳は好奇心でキラキラと輝いていた。
……僕の妻はいつ見ても可愛くて、どれだけ眺めていても飽きることがない。
「テオ、抱き上げてくれてありがとうございます。思っていたよりずっと人が多くて迷子になるところでした」
以前、街で迷子になったことを思い出したのか、ぎゅっとしがみついてきたシルフィアの指に、あの時渡した結婚指輪が光っているのを確認して安堵する。これがあれば彼女は守られるはず。彼女を抱えている僕の左手にも同じ指輪があることにくすぐったい幸せを感じる。
「いつも思うけど、いったいどこからこんなに人が集まってくるのだろうね」
「テオはこのお祭りに来たことがあるのですか?」
「うん、近くで催されているし時々覗いてた。確か去年はカミーユに無理やり連れてこられたんだ」
まあでも、去年の僕は人の多さに辟易して公園に足を踏み入れることなく、さっさと帰ったんだけど。
そんな僕が今、前回音を上げた時より混雑した中を歩いている。しかも、嫌だとも思わず、帰ろうという気にも全くならない。僕をここまで変えることができるシルフィアって本当にすごい。
しみじみと感動していたら、相変わらず羽のように軽い彼女が僕の腕の中から肩越しに身を乗り出し、弾んだ声を上げた。
「テオッ、遊園地です、お義母様と乗ったメリーゴーランドがありますよ!」
ひときわ明るく賑やかな場所を指差し、勢いが良すぎて落ちそうになったシルフィアをしっかりと抱き直しつつ僕もそちらへ視線を向けた。
「ああ、本当だ。お祭りには移動遊園地がつきものだからね」
移動遊園地には、子供だけでなく大人たちもたくさん来ていた。メリーゴーランド以外にも、空中ブランコや高所から降りてくる乗り物があり、それらの奥に暗めの建物が見えた。
おや、あれはもしかして。
隣のフリッツに目で問うと、僕の視線を辿った彼はにやりと笑って言った。
「テオドール様、珍しいものがありますね」
「あれってあれだよね?」
「間違いないですね。夏にはぴったりのあれでしょう。もう日も暮れましたからちょうどいい時間じゃないですかね」
「『あれ』ってなんですか?」
不思議そうに聞き返すシルフィアと同じく、分かっていないルイーゼが首を傾げてこちらを見てくる。
『あれ』の前に着いて僕の腕の中から地上に降りたシルフィアは、なぜ遊園地の中におうちが? と、つぶやきつつ次々に中へ入っていく人達を見、中から聞こえる悲鳴を聞いて僕のシャツの裾を掴むと、何をする場所かと不審げな表情を浮かべた。
「…………お化け屋敷、ですか?」
目を細めて看板を読んだシルフィアが横に倒れそうになるくらい大きく首を傾げる。その横でここが何かを把握したルイーゼが青くなって後ずさった。
「ええっ、私、信じてないですけど、そういう類はあんまり得意じゃないんですよね」
「なんだ、ルイーゼはお化け屋敷が嫌いなのか」
「いえ、機会がなくて入ったことないんです」
「じゃ、行くしかないな。シルフィア様、ここは涼しくなる場所ですよ。滅多にない機会ですから是非、ルイーゼと一緒に体験してみましょう」
「はいっ、行きます!」
シルフィアが怖がるようならやめておこうと思っていたら、ルイーゼの反応を面白がったフリッツが入る方向に言いくるめてしまった。
「……お屋敷というには随分傷んでいますが、こんな所に住んでいるお化けとはいったい?」
お化け屋敷というものが何かよくわかっていない様子にちょっと後ろめたさを感じたけれど、怖がるシルフィアに縋りつかれてみたいという誘惑に勝てなかった。ルイーゼに苦手なら外で待ってるか? と、声を掛ければふくれっ面で、失礼な、いけますとも! と力んだ答えが返ってきた。……無理しなくていいのに。
「わ、全身包帯でぐるぐる巻きですよ! あっちは黒いマントの人がいます、うわあっ何か飛び出してきました、暗闇から急に出てくると驚きますね」
しっかりと手を繋いではいるものの、シルフィアからは怖がっている様子が全く感じられない。それどころか、ワクワクした様子で暗闇を見回している。どうも彼女はこういう類に強いようだ。僕は内心でがっかりしつつも、せっかくなのでシルフィアと楽しむべく手を握り直して進む。
「きゃーーーっ! でたあああっ!」
「うわっ、そんな力を入れてしがみつくなって」
後ろから聞こえるルイーゼの叫び声とそれに振り回されているらしいフリッツをちょっとうらやましいと思う。だけど、興味が湧きすぎて井戸を覗き込んだり、襲ってきた人造人間のメイクをじいっと間近で観察しているシルフィアと一緒に歩く僕も十分振り回されていいるのかもしれない。そうだったら、嬉しい。
■■
「……ルイーゼ、もうお金がありません」
「シルフィア様もですか。私もです。後どれくらい使えます?……あ、じゃあ、私の分と合わせてあの飴を買いませんか?」
「それはいいですね」
お化け屋敷から出てあちこち回った後、シルフィアとルイーゼが二人で顔を寄せ合い、お互いの財布を覗き込んでひそひそと相談している。
お祭りという場所は非日常で、人はその熱に当てられてつい、財布の紐を緩めてしまう。シルフィア達もその例に漏れなかったようで、持ってきたお小遣いの大半を使ってしまったようだった。欲しいものがあるなら強請ってくれたらいいのに、シルフィアは断固として自分の分から出すと言い張ったから僕のお財布はほとんど減っていない。ちょっと、かなり、寂しい。
……それにしてもこの二人、仲が良すぎないかな? 夫の僕より息があって楽しそうだ。
そりゃ、仲が悪いよりはいいけれど、僕といる時はもう少し遠慮してほしいなあと屋台に走っていく二人をじっと見つめていたら、嬉しそうなシルフィアが駆け戻って来て目の前に棒のついた飴を差し出して来た。
「はいどうぞ、いちごあめです。四本買えたので皆で分けたらちょうどいいかなって。それに、これなら甘い飴の部分が少ないのでテオも食べられるかな、と思ったのですが……」
元気いっぱいだった声が段々と自信なさげになりしぼんでいく。このまま見守っていると握っている飴ごとひっこめられそうな気配がして、僕は慌てて彼女の手首をすかさず捕まえ、つやつやの飴でくるまれた真っ赤なイチゴをそのまま口に入れた。
甘いけど、僕のためにシルフィアが選んでくれたものは最上の味がする。
「うん、おいしい。ありがとう、フィーア。ところでたくさん買ったね?」
「はい、皆にお土産です」
「お、土産?!」
お祭りでお土産を買うという発想はなかったなあと彼女から預かっている腕の中の荷物を眺めれば、これはお父様とお母様とお兄様、こっちはジャンニさん……と延々と名前が出てくる。
……皇帝一家に街のお祭りのお土産を買うのは君が初だと思うよ。そりゃ、喜ばれるだろうけど。
そんなに買ったのならあれだけあったお小遣いが尽きるのは当たり前だ。僕は小さくため息を吐き出しつつシルフィアの瞳を覗き込んだ。
「フィーア、全部自分のために使ってよかったのに」
「全部自分のために使いましたよ。私は、皆にこの楽しさを伝えたくてお土産を買ったのです。今度会った時に渡して、ルイーゼとお菓子を買ったり、テオとお化け屋敷に入った話をしたいのです!」
きょとんとした顔で返されたその答えは、なんだかとても彼女らしく思えて、僕の心がほかっと温かくなった。
「もちろん、テオにも買いました。帰ったらお祭りの話をしましょうね!」
「えっ、僕にも?! 一緒に来たのに?」
「はい。ほら、いつもテオが買ってくれる今日の記念です」
「あー、……じゃあ、僕から君へのお土産をこれから探しに行きたいから一緒に来てくれる?」
「もちろんです!」
パッと顔を輝かせた妻の温かく柔らかい手をしっかりと握った僕は、口の中のいちごあめを転がしながら、もう一度屋台を覗きに行った。
■■おまけ■■
翌日、お化けについて知りたいというシルフィアに書庫から本を探して渡した。さすがにこのアパートメントには子供向けの物は置いてなかったので、やや本格的な内容だったかもしれない。でも、お化け屋敷が平気な彼女なら大丈夫だろう、と思っていたのだが。
「……テオ、まだ寝ないですよね?」
夕食後、窓の外が暗闇に染まった自室で残った仕事や勉強をしていたら、小さなノックの音がしてそっと扉が開いた。寝支度を終えウサギのぬいぐるみを抱えたシルフィアの藍色の瞳が遠慮がちに覗く。珍しい彼女の様子に僕はふっと動きを止めた。
いつも僕は遅くまで本を読んだり勉強をしているから、眠くなったら遠慮せず先に寝るように伝えていて、彼女もそうしているのだけど。何かあったかな?
「どうしたの? 珍しいね、一人じゃ眠れない?」
「ええと、その……!」
不思議に思って尋ねてみれば、ちらりと僕の背後に目を遣ったシルフィアが小さく飛び上がり、駆け寄ってきた。そそくさと後ろの開きっぱなしの窓を閉め、カーテンをきっちりと閉じるその様子に既視感を覚える。
……あ、昔怖い絵本を読んだ後のパットの動きに似ている、ということは。
もしや、あのお化けの本が怖かった?! できることなら今すぐ一緒に寝室へ付き添ってあげたいけど、昨日お祭りに行ったためやらないといけないことが溜まっている。
「ごめんね、僕はまだやることがあるんだ。よかったらそこのソファで待っててくれる?」
シルフィアの方へ身体を向けてから目の前の大きなソファを示して謝ると、彼女はホッとしたように頷いた。邪魔をしないようにという配慮か、ウサギのぬいぐるみと共に抜き足差し足で移動するとソファの隅っこにちょこんと座る。それを見届けた僕は大急ぎで仕事を片付けていった。終わりが見えた頃、ふと見遣ればシルフィアは安心しきった顔でクッションに埋もれて眠っていた。
……僕の存在は、君に安心をあげられているのかな。
そうだったら、僕はこの上なく幸せだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
ちょっとした隙間とかが怖くなる妻に、棚ぼたで密かに喜ぶテオ。