72、小さな日常 夫妻、お祭りに行く 前編
「そういえば、今夜はお祭りですね。テオドール様とシルフィア様は行かれますか?」
朝食後にお皿を運んでいるとテーブルを拭いていたフリッツさんが尋ねてきた。
「お祭り?」
「あっ、今日だった? 忘れてた、今夜空いてたかな」
私が首を傾げた横でテオが急に慌てだした。持っていた空のパンかごをテーブルに置くと走って食堂から出て行く。どうしたのかな、と見送っているうちに戻って来ると、手帳を見ながらフリッツさんと何事か話している。
私はこの間に台所へお皿を運んでしまおうと歩きだした。重ねたお皿の上についでにパンかごを乗せてテオ達の邪魔をしないよう、そうっと近くを通った途端、手の中の食器が消えた。頭を上げれば、お皿とかごを軽々と片手に持ったテオが、なんだかご機嫌で顔を覗き込んできた。
「フィーア、今夜街でお祭りがあるんだ。お菓子の屋台もたくさん出るから行ってみない?」
「お菓子の屋台がたくさん!? 行きたいです!」
飛び上がって手を叩けば、テオの顔がほころんだ。
「よし、じゃあ決まり。ウータ、夕飯はそっちで食べるから」
かしこまりました、と笑顔で頷くウータさんへ、私と台所から顔を覗かせたルイーゼが視線を向ける。
「お菓子以外もあるのですか?」
「ウータ伯母さん、帝都では夏の夜にお祭りをするのですか?」
「昼間の暑さを避けて涼しくなる夜に、皆で楽しむのが今日のお祭りです。屋台ではお菓子以外の食べ物や雑貨も売っていて、その他に音楽の演奏や大道芸などの催しが明け方まで続いて、それは賑やかなのですよ」
私もぬいぐるみ屋が閉店してから夫と行きます、と続けたウータさんの説明にルイーゼが目を輝かせた。
「シルフィア様、エルベでは真冬の年が変わる夜にお祭りがあるのですよ。私は警備する側で、とんでもなく忙しくて緊張感の高い日だったけど、今日はシルフィア様と楽しむ側に回れるのですね!」
「エルベは冬の夜にお祭りがあるのですね! 私もいつか行ってみたいです。ルイーゼ、今夜は一緒に楽しみましょうね!」
わくわくと手を取り合って喜んでいたら、フリッツさんとテオがしぶーい表情でこっちを見ていた。
「ルイーゼ、フィーアが喜んでるから一緒に楽しんでもいいけど、君は一応護衛も兼ねてること忘れないでね」
「全くだ」
眉間にしわを寄せたテオと目を吊り上げたフリッツさんに注意されて、申し訳ありません、と首を竦めたルイーゼを見て私は宣言した。
「私、絶対迷子にならないよう気をつけますから、ルイーゼとお祭りを楽しみたいです!」
迷子だけの護衛じゃないんだけど、とつぶやいたテオが私の前に来て綺麗な笑みを浮かべた。
……あ、なんか嫌な予感。でも、私はルイーゼの主なのだから、彼女がお祭りを楽しめるようにしなくちゃ。
「テオ、私はルイーゼにも楽しんでほしいです」
「そうだね、僕もそう思うよ。でも、お祭りは人が多くて皆浮かれていて危険だらけなんだ。どうする?」
ちょっと意地悪そうな顔になったテオが、首を傾げて私を見てくる。
……これは、ルイーゼの主として試されている!
私はキッとテオを見返して片手を挙げた。
「ずっとテオと手をつなぎます!」
「なるほど、いい案だね。それから?」
えっ、それだけじゃダメなの?! うーん、じゃあ、ルイーゼとも手をつないでおくとか? 悩んでいるとテオの腕が伸びてきてふわっと抱き上げられた。
「混んできたらこうやって移動する、と約束してくれる?」
「はいっ、約束します!」
急に近くなった薄青の瞳が真剣にこちらを見つめてきて、なんだかドキドキする。気恥ずかしくなってテオの肩に顔を伏せて隠したくなるのをぐっとこらえて、ルイーゼのためなら、と力強く約束するとテオが満足そうに頷いた。
……ん? これはもしかしてテオの思うつぼ、なんだろうか?
■■
アパートメントから一区画先の見慣れた通りが今夜は姿を変えていた。いつもなら馬車や荷車が勢いよく走っている石畳の通りには多くの人が行き交い、歩道であるはずの場所には屋台の簡易テントが並び、賑わっていた。
「シルフィア様、このお菓子も可愛いですよ」
「あ、これ知ってます! マシュマロです、こんなカラフルで可愛い形の物もあるのですね」
屋台に山と積まれたお菓子の中には、三色のマシュマロがクルクルと細長い棒状になったものや、キャンディのように棒に差して花やキラキラの飾りがついているものがあってその可愛さに気分が上がる。
「あっちにはアイスクリームもありますね!」
ルイーゼの差す方へ首を伸ばせば隣のテオが呆れたような声を出した。
「二人とも、さっきからお菓子にばっかり目が行ってるけれど先に夕ご飯を食べようよ。特にフィーアはすぐお腹がいっぱいになるのに、甘いものばかり食べたがるんだから」
ほらほらと手を引かれた先にはいい匂いの屋台が並んでいて、私とルイーゼのお腹が一気に鳴った。
「フィーアはどれが食べたい?」
テオに尋ねられてぐるりと見渡す。お肉や野菜を挟んだパン、真っ赤なパスタ、何かの串焼き、エビやイカのフリッター、……うーん、どれも美味しそう。テオと分けっこするのもいいなあ、と思ったところで近くの人が食べているオレンジサイズの丸い揚げ物が目に入った。
「テオ、あれは何の揚げ物ですか?」
「ん? あれはライスコロッケだよ。サフランライスの中にいろんな具が入ってるんだ。……ああ、あのお店で売ってるね。ひとつ買ってみようか」
どれどれと視線を向けたテオが合点し、その店に向かって歩きだした。つないだ手に引っ張られるように私も後をついていく。
近づいていくと揚げ油の音が大きくなって香ばしい匂いが空腹を刺激してきた。人気のお店なのか、揚げた端から売れている。私はわくわくしながら貼ってあるメニューを読んでいった。
トマトソースに、チーズにサーモン、これはホウレンソウで合ってるかな? ……いろんな具があって、ひとつだけ選ぶの難しいな。
顎に手を当ててうーんと悩んでいたらテオが提案してくれた。
「僕も食べたくなってきた。違う味を買って半分こしようか」
いつもなら喜んでそれに乗るのだけど、今日の私は少し考えてから首を横に振った。この量の揚げ物をまるっと一個分食べたらお腹がいっぱいになってしまう。
「いえ、これはひとつを半分こしましょう。私はお肉を挟んだパンや他の物も食べてみたいです。もちろんお菓子も!」
「了解っ」
嬉しそうに返してくれたテオと相談して、ライスコロッケはトマトソースとチーズが入ったものにした。他にテオが食べたいといったグルグルのソーセージや色々具材が選べるバーガーを買って近くのベンチに座る。
「美味しい。色々食べられて楽しいです!」
「喜んでもらえてよかった。祭りの中心はもう少し先の公園なんだけど、混むからこの辺で先に食べとかないとゆっくりできないんだよね」
テオは私の倍の速さで食べながら、後で呑みに行くから今は軽くにすると言うフリッツさんが摘まんでいるイカフライにまで手を伸ばしている。フリッツさんは明日休みだし、私達を部屋に送ってからルノーさんのおつまみで朝まで呑むのかな?
「そういえばチェレステさんの食堂は開いているのでしょうか?」
「祭りの客を当て込んで、朝までやってるそうですよ。……お酒が入ってちょっくら治安が悪くなってるから、シルフィア様は連れて行けませんがね」
「私ももう大人でお酒が飲めるし、ちょっとは強くなってますが、だめですか?」
私の知らない夜遅くの食堂を見てみたいな、と尋ねてみると、フリッツさんはちらりとテオを見てから目を泳がせた。
「そういわれると心苦しいのですが、シルフィア様はまだお酒を呑んだことがないし、また今度にしましょうかね」
だめかあ、と残念がっていたら目の前にさっき見た可愛いマシュマロの入った袋が現れた。テオの手のひらに乗ったそれを目を丸くしてみていたら小さく噴き出す気配がした。
「ふはっ、そんなに驚かなくても。これはご飯を食べ終わったらデザートにどうぞ。深夜の食堂は気になるけど、今日は混んでいるだろうからまた今度一緒に行こうね」
「はいっ! ……ところで、テオはいつの間にこのお菓子を買ったのですか?」
「ん? ふふ、いつだろうね?」
テオは含み笑いをするだけで教えてくれなかった。フリッツさんもルイーゼもずっと一緒にいたし、不思議だ。テオは魔法使いだったっけ?
手のひらに乗せられた袋を眺めて首をひねり、ルイーゼと分けっこしようと振り返れば、彼女はなんだか平べったく茶色い揚げ物を食べていた。
わ、何のフライだろう、おいしそう。……私も食べてみたいな。頼んでみようかな?
以前の私なら絶対に思いつかない考えが頭をよぎって、心がふわりと弾んだ。テオと出会う前なら、誰かが食べているものを分けて欲しいなんて言えなかった。子供の頃なんてどんなにお腹が空いていても、そんなことをすればひどく冷たい目で見られて罵倒されるか、叩かれて外へ蹴り出されかねなかった。
だけど、今は違う。頼めば快く分けてもらえて、自分の持っている物と交換していろんな種類を食べたりもできる。空腹に苦しむこともなく、食べたいものを選ぶことだってできる。すごく、すごく、幸せだ。
手の中のお菓子の袋をそっと撫でて、私はルイーゼに声を掛けた。
「あの、ルイーゼのフライをひとつ貰ってもいいですか? このマシュマロと交換してほしいのです」
「どうぞどうぞ! シルフィア様はお返しなんて気にせず、いくらでも食べたいと仰ってくださればいいのですよ」
もちろん、お菓子をいただけるのは嬉しいですが、と続けたルイーゼが差し出してくれたフライを口入れた私は小さく唸った。
……キ、キノコのフライだったなんて! 食べられるけど、このぐにっと感が何とも言えなくて苦手だ……。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
屋台での買い食いが意外と好きなハーフェルト家の皆さん。




