71、小さな日常 二人で朝食を
バッとカーテンを開けると外は眩しい朝の光に満ちていた。今日も暑くなりそうだな、と目を細めて街を見下ろせば、もうたくさんの人が活動を始めていた。
私はクルッと向きを変えると、ベッドに駆け寄って膨らんでいる掛布を叩く。
「テオ、テオッ! 早く起きてください、もう通りに人が歩いていますよ」
……返事がない。本当にテオは寝起きが悪いんだから。
エイヤッと掛布を剥ぎ取ろうと引っ張ったら、反対に巻き取られるように引きずり込まれた。
「おはよう、フィーア。今日も朝から元気だね」
目の前のちょっと眠たそうな薄青の瞳がふわっと緩むのを見て、私はぷっと頬を膨らませた。
「テオ、今日は皆がお休みだから、新しくできたお店に朝ごはんを食べに行くって約束したじゃないですか。だから私、自分で髪を結んだのですよ」
早く起きてください、と言い終わる前にテオが飛び起きた。
「うわっ、ごめん!? ……ええと、ものすごく可愛いけど、僕が崩しちゃったからお詫びに結い直してもいい、かな?」
恐る恐る尋ねてきた彼の瞳の中の私は、お世辞にも可愛いと言ってもらえる状態ではなかった。昨日届いたばかりの雑誌を見ながら頑張ってみたのだけど、飾りはズレ、見事にグシャグシャだった。
……テオやルイーゼが結えば、これくらいで崩れたりしないのに。テオはどんな出来でもバカにしたり嘲笑ったりしないと知っているから、自分で結んだのを見てもらいたかったのだけど、これはまだまだ練習が必要かな。
薄青の中で、私がしょんぼりしている。
「フィーア、自分で結った髪を見せてくれてありがとう。せっかくだから同じ髪型にしようね」
……もっと練習して、テオに手放しで褒めてもらえるようになりたい。
こくりと頷いたら、頭に軽くキスされた。
「がっかりしないで、フィーア。そんな直ぐに色々できるようになっちゃったら、僕がお世話できなくて寂しいよ」
「ですが、私はテオに手間を掛けさせたくないのです」
「いや、全然手間でも迷惑でもないよ。君に構うのは僕の楽しみで喜びなんだから」
私のお世話をするのがテオの楽しみで、ルイーゼのお仕事、ということは。
「……もしかして、私は色々できないほうがいいのですかね?」
私、頑張る所を間違えてた?
不安になってテオを窺えば、真剣な顔で首を横に振られた。
「そんなことないよ。フィーアはできるようになりたいんだろ?」
「もちろんです!」
身の回りのことだけじゃなく、自分や他の人を守ったり、何でも自分でやれるようになりたい。力んで訴えればテオが頷く。
「フィーアがやってみたいことぜーんぶ、叶えるのも僕の楽しみで喜びだからどんどんやって欲しいな。でも、自分で出来るようになっても、たまには僕にやらせてね」
「はい!」
それなら、と私が頷いたのを見て、テオが勢いよく掛布を跳ねのけた。
「寝坊してごめんね。さあ、急いで支度して出掛けようか!」
■■
「おはよう、シルフィアさん。朝から二人でお出かけなんて珍しいね」
「おはようございます、ジャンニさん。はい、テオと新しいお店に朝ご飯を食べに行くのです!」
「あ、シルフィアちゃん、おはよー」
「おや、珍しいね。二人で朝の散歩かい?」
「お? 今日は早いな!」
隣のぬいぐるみ屋の正面のガラスを拭いていたジャンニとの挨拶から始まって、近所の花屋、角の雑貨屋、すれ違った牛乳配達、皆がシルフィアに声をかけていく。その度にシルフィアは足を止めてニコニコと笑顔を交わしている。
「……フィーアは人気者だね?」
「そんな、恐れ多いです。皆さん、ご近所の方で、食堂にもよく食べに来てくれますから、私のことを覚えていて声を掛けてくれるのです」
僕は君より長くここに住んでいるけど、こんなふうな付き合い方は出来なかったけどね、と心の中だけで呟いてにっこり笑い返す。
……シルフィアは思っていたよりずっと街に馴染むのが早かった。周囲の人々が友好的なのもあるが、それだってシルフィアの親しみやすさのなせる技だ。僕には到底できないことなので本当にすごいと思う。それと同時に、彼女の隣にいるのが僕でいいのかと不安になる。
最近、シルフィアは公爵夫人などという窮屈なものになるより、こうやって街で暮らすほうが性に合っているのではないかという考えが浮かんでは叩き消している。
もし望まれたら僕はその生活をさせてあげられるだろうか? 結婚前は彼女が望むならなんでもできるつもりだったのに、予想外のことばかり起こって自分の不甲斐なさに愕然とする。
だけど、今、手をつないで隣を歩くシルフィアの足取りは軽く、僕といること楽しんでくれているようでホッとする。
「あっ、着きましたよ! いい匂いがしてますね」
以前は何の店だったか記憶が定かでないが、看板だけ新しいその小さなカフェは、既に半分以上の席が埋まっていた。
カランというベルの音をさせてシルフィアが扉を開けて入っていく。いつの間にか僕が彼女の後からついていくようになっていた。数カ月前だったら僕が先に扉を開けて彼女を通していたのに。
店頭のガラスケースの中から食べたいものを選び、飲み物を注文して先に支払いまで済ませる。この形式が初めてのシルフィアは、緊張するのか、僕にピッタリとくっついてパンが並ぶケースを覗き込んでいる。
「うーん、どれも美味しそうで迷います」
「フィーアが食べたいものを好きなだけ頼んで。それを分けあえば色んな種類が食べられるだろ?」
「それはだめです! テオはテオの食べたい物を頼んでください。私だってテオの好きなものを知りたいのです」
むー、と口をとがらせて怒るシルフィアに口元が緩むのが止められない。今朝起こされた時といい、彼女からこうして感情をぶつけてもらえることが嬉しくてたまらない。
強気な発言をしたのに、何を食べようかものすごく悩んでいる。そんな所も何もかも可愛い過ぎる。
目移りしている妻の視線を辿って、迷っているものにアタリをつけると、しれっとそこから二つ選んで注文した。
シルフィアの食べたいものが僕の食べたいものなのだから間違ってないよ、という言い訳を考えている時点で怒られるかもしれないが、事実だから許してほしい。
シルフィアは一瞬、疑うような視線を向けてきたものの、注文してしまってはどうしようもないと諦めたのか何も言わず、一番食べたそうだった焼きたてのブリオッシュを頼んだ。
空いていたテラス席に向かい合って座り、お互いのパンを半分ずつ分け合う。先ほどまでちょっとむくれていたはずのシルフィアが目をキラキラさせて、ぱくっとパンにかぶりついた。
「美味しい! 焼きたてでパリパリしていて、中にクリームが入っています! いつもと違う場所で朝ごはんを食べるってとっても楽しいですね」
よかった、機嫌が直ったみたいだ。ほっと胸をなでおろして僕も同じ物を一口食べる。なんだか以前ほど甘い物が苦手じゃなくなった。
……夫婦って色々似てくるっていうよね。でも、シルフィアが僕みたいな腹黒い性格になるのは嫌だなあ。
シルフィアがサクサクと音をさせながら美味しいと顔中で表現する様子を見て、道行く人がカフェに吸い込まれていく。
……シルフィアはやっぱり街が似合うな。
心がゆっくり軋んでいく。僕は彼女を間違えた場所に連れて行ってしまったのではないか? 貴族社会という彼女を虐めていた場所に留まることを強要してしまったのでは。
「……君はどこで暮らすのが一番好きなのかな」
うっかりこぼしてしまったつぶやきに、正面の妻が首を傾げた。
返事次第では僕の今後を変えないといけないな、と思いながら息を止めて返答を待つ。
「もちろん、テオのいるところですよ!」
迷いのない目で直ぐに返された答えに息が止まる。聞き間違えたのではないかと、恐る恐る聞き返してみる。
「僕の側ってこと?」
「ハイ、私はテオの側で暮らすことが一番好きです!」
そっか、街だとか、貴族社会なんて関係ないな。僕もシルフィアの隣が一番住みたい場所だ。
住む場所に悩むなら、いっそ両方に家を持ってしまえばいいんだ。
「本当にシルフィアが僕の妻でよかったな」
じっと藍色の瞳を見つめてめいっぱいの愛を込めて伝えれば、目の前の妻が盛大に照れた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
なんとか、1話完結! でも次は前後編……。
カフェで朝ご飯、いいなあ。