68 小さな日常 妻、闘う3
「シルフィア様、皆様に配る用のお菓子が十個、予備が五個入っていますからね」
「ハイ、分かりました。つまみ食いはしません」
「ひとつくらいなら大丈夫ですよ」
「ルイーゼ、私は我慢できますよ。それで、予備はなるべく残して帰りますね」
そうしたら一緒に食べましょうね、とルイーゼと悪巧みをしていたら酷く心配そうな声が降ってきた。
「フィーア、練習通りにすればいいからね。いや、でも絶対嫌な思いするよ。やっぱり、僕がついて行ったほうが……」
朝からずっとテオが落ち着かない。夏らしく白の薄い生地に銀糸で刺しゅうを施した一番いいお茶会用のドレスを着せてくれ、髪をいつもより複雑により華やかに結い上げて、例の銀糸のハーフェルト家専用リボンを結んだ後も、ずっと私の側にいる。心配してくれるのはありがたいけど、これは過剰だ。テオのほうが精神的に弱ってしまいそうでよくないと思う。
「テオ、私は大丈夫ですよ。皆さんが色々協力してくれたのでとってもいいお菓子が用意できましたし。このお菓子で、公爵夫人に必須の人脈を作ってきますね!」
お任せください、とテオを安心させようと胸を張ったのに余計に眉を下げられた。
「あんな意地の悪い令嬢主催のお茶会でいい人脈なんてきっと見つからないよ。今から風邪引いた事にしない?」
「しませんよ。せっかく用意したお菓子がもったいないじゃないですか。それに、ルビーニ伯爵令嬢は私を突き飛ばしたけれど、その後追いかけてきて骨が折れるまで踏んだり蹴ったり棒で叩いたりしなかったですし。そんなに意地が悪くないと思います」
ね、と同意を得ようと周りの人たちを見回せば、その場の全員が青い顔をして私を見ていた。
……アレ? 私、なにか間違ったのかな?
「シ、シルフィア様、私、もう絶対にお側を離れずお守りしますっ」
「いえ、気にせずお休みはとってください。皆さんの労働環境を守るのも公爵夫人の大事な仕事だって、お義母様が言ってました」
「いやあ、シルフィア様はつくづくとんでもない人たちとお暮らしになっていたんですねえ」
「皆さんと一緒にいると、それは強く思います」
いきなり涙目で縋ってきたルイーゼを宥め、フリッツさんとしみじみ昔を思っていたら、ぎゅうっと後ろからテオが覆い被さってきた。
「……フィーア、もうずっと僕の手の届くところにいて!」
「テオ、それは色々難しいですよ。ええと、ですから、私はいっぱい嫌な思いや痛い目に遭ってきて耐性というものがあると思うので、そんなに気にしなくていいのですよ」
「「「それは絶対ダメ」です!」」
三人の真剣な声が揃って私はたじろいだ。直ぐに背中から包むように抱き上げられて、耳元でテオの肺から絞り出すようなため息が聞こえた。
「……フィーア。それはね、つけちゃいけない耐性なんだよ。君はこれから先、少しだって傷ついたり辛い思いを我慢しちゃいけないんだ」
「だめなのですか? でも、本当に我慢はしていないのですよ?」
「駄目。それは麻痺してるだけだから」
「……だけど、私には自分が痛い思いをしているとか何を我慢しているのかとか、その時は分からないのです」
「…………そう、そうだね。……じゃあ、僕やルイーゼ、君の友人たちが突き飛ばされたり貶されているのを見たらどう思う?」
「それは、嫌です!」
そんなの、見たくないです! と叫べば、テオが綺麗な笑顔になった。
……あっ、これは、そういうことだ。
テオの言いたいことが分かって、私はきゅっと首を竦めた。
「ごめんなさい。……直ぐにはできないと思うのですが、今日から気をつけます」
「フィーアは人から叩かれたり傷つけられたら僕たちに置き換えてみて。見たくないと思ったらそれは君もされるべきではないことだっていうことを、これから覚えていってね」
ハイ、と頷いてから気合を入れてテオを見上げる。
「これから行くお茶会でも気をつけますね!」
そう張り切ったものの、どうすればいいのか分からず、心の中では途方に暮れていた。
■■
「まあ、さすがですわね。本日も素敵なドレス」
「あら、このお菓子美味しいわぁ」
ルビーニ伯爵家の庭で開かれたお茶会は私が想像していたより、うんと華やかで豪勢だった。色鮮やかなドレスを着た令嬢や貴婦人たちが籠の中のお菓子を交換し合って楽しそうにお喋りしている。テーブルの装飾もこれでもかっと盛ってあって、せっかくきれいに咲いている周囲の花が霞みそうなくらいだ。
そして、私も霞んでいるらしい。ここに来てもう一時間近く、誰にも声をかけられずウロウロしている。
あっ、あのお菓子、美味しそう。交換してくださいって、声をかけてもいいのかな。
何度かそう思ったけれど、自分から話しかけるのはためらわれた。学院にいた時、私と話そうという人はいなかったし、私と目が合うと顔を顰めて嫌がったから。
だけど、ひとつも減ってない籠の中を見れば、用意してくれた大好きな人達の顔が浮かんで苦しくなった。
皆が私のためにせっかく用意してくれたのに……やはり、私には普通の貴族のお茶会は無理なのかな。だけど、それではこれからずっとテオに迷惑をかけてしまう。社交界に出ても誰からも相手にされなくて、笑われてバカにされるだけの人が公爵夫人になんてなれっこない。
……本当は、シャルロッテ様みたいに仲良くなれる人がいるんじゃないかと思ったのだけれど、帝国の貴族令嬢達に私は嫌われすぎているから、ちょっと難しいみたい。このお菓子全部、持って帰ってルイーゼと二人で食べようかな。でも、朝と変わっていない籠のなかみを見たらルイーゼは悲しそうな顔をするに違いない。だれでもいいから、私とお菓子の交換に応じてくれる人はいないだろうか。
会場の隅っこの方の木の下で俯いていたら救いの声がした。
「あーら、綿ぼこり、いえ、今はテオドール様のお情けでハーフェルト次期公爵夫人の座にいるシルフィア様じゃないですか! ようこそ、我が家のお茶会へ。楽しんでいただけてるかしら?」
ルビーニ伯爵令嬢が、うふっと笑いながら声高に話しかけてきてくれて、内容はともかく、やっとお菓子の交換ができると嬉しくなった私は駆け寄った。
ひとつでも交換して帰らないと皆に心配をかけてしまう。それに、できることなら私がお茶会を楽しんだとテオを安心させたい。
「本日はお招きありがとうございます、ルビーニ伯爵令嬢。 ご挨拶が遅れてすみません、お姿が見えなかったものですから。これ、私の持って来たお菓子です、お友達に作ってもらったとても美味しい焼き菓子で……」
習ったことを思い出しながら勢いよく招待してくれた礼を述べれば、伯爵令嬢の目が光った。
「まあ! シルフィア様のお友達というと、まさか、働いているというあの街の食堂のお菓子かしら!?」
「私のお友達までご存知だったのですね」
驚きつつ、細い銀のリボンで口を閉じた包みをひとつ、差し出した。
「今日のために、特別に作ってもらった焼き菓子です」
紹介すると同時に閉じた扇が私の手のひらを叩き、パサッと音がして袋が地面に落ちた。
「お菓子がっ」
慌てて拾おうとしたら目の前にピカピカに磨かれたハイヒールが突き出され、袋の上に乗った。
くしゃり、という軽い音が聞こえて、私の頭が真っ白になった。
『えっ、お貴族のお嬢様達に食べてもらうお菓子!? じゃー、いい材料使わないとな』
『あら、シルフィアも手伝ったの? 美味しいわね』
『せっかくですからシルフィア様とお揃いの色のリボンでラッピングしましょう!』
『フィーアがお茶会を楽しめるようにしないとね』
……私の大事な人達が、あんなに私を想ってこのお菓子を作るのに協力してくれたのに。
「あーら、ごめんなさい。だけど、何の名声もないただの食堂の料理人が作ったお菓子をこのお茶会に持ってくるなんて正気なの? ハーフェルト家なのだからもう少し良いものを用意すると思ったのに、こんなゴミみたいなものを持ってくるなんて、やはり元が綿ぼこりだと次期公爵夫人になってもダメね。皆様、お見苦しいものを招待してしまってごめんなさいね」
その場が静まり返った。私は皆に注目されているのがわかっていたけれど、我慢出来なくて砕けたお菓子を拾って袋を開けてガーッと口に放り込んだ。
もぐもぐしながら、もしこれがテオだったら、お友達だったら、と考えた。さらにこんな目に遭っている私を見たテオ達が悲しむ顔が浮かんだ。その瞬間、私の中で何かがブツッと切れる音がした。
「……とっても美味しいです! このお菓子は、私のお友達のルノーさんが今日のために材料から吟味して丁寧に作ってくれたんです。これが私の用意できる一番美味しいお菓子です。それを貴方は食べもせず踏みつけるなんて、絶対許しません!」
叫んでから怒り心頭でルビーニ伯爵令嬢を睨みつけた。
「私だって二度と貴方のお茶会になんか来ませんよ! 皆様、私はこれで失礼致しますっ」
ぶん、と勢いよく振り向いて帰ろうとした私の前に一人の令嬢が立ちふさがった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
食べ物を粗末にしてはいけません! とキレるパターンもあった。