67 小さな日常 妻、闘う2
僕の腸は煮えくり返っていた。どうして叩いても叩いてもシルフィアにちょっかいをかけるやつが後を絶たないのか。その度に彼女の心が傷ついたり、けがをすることに心底怒りを感じていた。
そして、シルフィアが自分の痛みに関して鈍すぎることにも。
彼女がこれくらい平気です、と言うたびに僕の心は大きな音を立てて軋む。彼女が本気でそう思っていることが分かるから、余計に僕と出会うまでの過酷な暮らしを想像して苦しくなる。
だから。これは、八つ当たりを多分に含んでいる。みっともないこと甚だしい。だけど、止められないからシルフィアには聞かないでいてもらうことにした。
いきなり耳を塞がれたシルフィアがきょとんとしつつも、大人しくされるがままになってくれたのを確認して、目の前で胸を反らせて腕を組んでいるルビーニ伯爵令嬢へ視線を移す。シルフィアを睨んでいた彼女は、僕の意識が自分に向いたことに気がつくと慌てたように笑みを作った。それへ冷笑を返して口を開く。
「君は面白いことを言うね。私がシルフィアと結婚したのが慈善事業? それはなんとも非効率的な事業だね」
……本当に慈善であれば、シルフィアにとってよかったのにね。あいにく僕はそんな出来た人間じゃない。
「誰がどう見てもこれは慈善でしょう? 虐げられていた娘を救い出して妻にするなどと言えば聞こえは良いですが、ハーフェルト公爵家にとって益になることは何もないではないですか!」
ビシッと指差して言う令嬢から、シルフィアを遠ざける。聞こえてなくても妻に傷がつきそうだ。
「そうかな? ルビーニ伯爵令嬢、知ってる? 慈善の目指す先は相手の自立、一人で生きていけるようにすることなんだけど、私はシルフィアを手放す気が全くない上に、できることなら自立させずただひたすらに頼らせて愛でて囲い込んでいたいと思っているんだから、これは真逆だろ」
どちらかというと人間をダメにする方向。こんな本音をシルフィアに聞かせるわけにはいかないんだよね。彼女なら、これを聞いても軽く『いいですよ』と言いそうなのがまた……。
僕自身、常々表に出さないようにしている考えだから、当然伯爵令嬢は怯むか逃げると思っていたのに逆に羨ましいといった様子で、僕のほうが引いた。
え、もしかして女の人ってこういうのアリなの? 勇気を出してシルフィアにも聞いてみようかな。……いや、止めておこう。
ちらりとシルフィアのほうを窺えば、彼女はじっと伯爵令嬢を見つめていた。何を言っているか聞こえていないはずなのに、必死で僕らの会話を知ろうとしているようで、不安になった僕は彼女の耳をふさぐ手に力を入れてしまった。
さすがに痛かったのか、厶、と顔が歪んで目線で抗議されて慌てて力を緩めた。
……どうしよう、軽く睨んでくる顔がものすごく新鮮で可愛い。
まだ僕の知らない表情がたくさんあるんだろうな、それをこれから一生かけて見られるんだ、と思うと胸が躍った。
「ご存じないでしょうが、私はこの綿ぼこりと同じクラスだったのでよく知っているのです。この女は、勉学など一切せずいつも教室の隅でぼうっとしているだけでした。聞くところによれば、文字も書けないとか。ですから、公爵夫人になんて到底なれる女ではありません!」
シルフィアのことを考えていたのに、聞き飽きた台詞で中断され、僕の機嫌は急降下する。さっきより力が入った訴えに、こちらが本当に言いたかったことか、とため息がこぼれ出る。
この令嬢はそれを言って自分の株が上がると本気で思ってるのかな。
苛立ちを抑えるべく腕の中のシルフィアに頬を寄せ、柔らかな髪に触れて、ほっと息をついた。
僕の妻は本当に可愛い、こうして触れられる所にいてくれるだけで幸せだ。だから、僕は彼女を守らないと。
気を引き締めて目の前の伯爵令嬢を真っ直ぐ見下ろした。
「私が彼女の過去を知らずに妻にしたと思うか? もちろん、全部知っているとも。そして、そんな状態のシルフィアを黙って見ていた君が公爵夫人になれると? 困っている者、弱き者へ手を差し伸べることすらできないなんて、君こそ不適格だろ」
さっと青ざめて唇を震わせながらも、ルビーニ伯爵令嬢は胸へ手を当てて言い募った。
「ですが、誰がどう見ても、何も出来ないその女より私のほうが公爵夫人に相応しいはずです。私は学院の成績は上位、見た目もマナーも完璧、文字だって美しく書けますわ」
「まあ、そういう点が重視される公爵夫人には君のほうが向いているのかもしれないけど」
彼女が勘違いをしないよう、即座に続ける。
「だけど、私の妻であるハーフェルト次期公爵夫人に求められるのはそんなことじゃないんだよね」
「え?」
何を言われたか咄嗟に理解できなかったようで、令嬢は目が丸くなったままで固まっている。僕はそれへ遠慮なく畳み掛けた。
「さっき、君はこの結婚がハーフェルト家の益にならないと言っていたよね? それ、逆だから。シルフィア以上にうちに益をもたらす人はいないよ。私は彼女がいることで、共に生きる場所を義務としてでなく、心から良くしたいと思うのだから。シルフィアと出会ったことで、私の存在理由は彼女になってしまったんだよ」
そう、愛する人がいる幸福を知ってしまえば、もう以前の殺伐とした自分には戻れない。そして、愛するのはシルフィアただ一人。僕はこれから先、何があろうと何を犠牲にしようと彼女が側にいてくれるよう願うんだ。
「では、なぜ街の食堂なんかで働かせているのですか? もう飽きたからでしょう? それで、ただ離婚するのは世間体が悪いから職につけて慣れたところで放り出すはず、と皆が言っておりますのよ」
ほら、反論できないだろう、と言わんばかりの令嬢は無視して、なんだその噂、と隣のカミーユに目線だけで尋ねる。彼も知らないようで高速で首を振って否定してきた。
ふーん、じゃ令嬢達の間でだけ語られているのかな。
それで他の人に先んじてシルフィアを叩き、僕の関心を得ようとわざわざ似合いもしない町娘の格好をしてきたのか。
「私は誰が何と言おうとシルフィアの手を放す気はない」
……たとえ、本人が望んでも。もう絶対にシルフィアと離れるなんて無理だ。
きっぱり言い切ればルビーニ伯爵令嬢の目が据わった。
「まあ、そうなのですか。それではこちらをどうぞ」
グイッと突き出してきた手に握られていたのは白い封筒で、僕がはねのける前にシルフィアが受け取ってしまった。
しまった、シルフィアの耳をふさいでいたことで反応が遅れた!
勝ち誇った顔の令嬢と不思議そうに手の中の封筒を眺めているシルフィアを見て僕は青ざめた。
「受け取ったわね!? 帝国社交界では直接手渡した招待状を受け取ったら必ず出席するということなのよ、ご存知でしょ?」
高笑いしそうな令嬢を睨みつける。
「これはもしや、噂の果し状というものですか?」
僕の手が離れて耳が解放されたシルフィアが首をひねりながら尋ね、ルビーニ伯爵令嬢が真っ赤な顔で怒鳴った。
「違うわよっ! 来週、我が家で開くお茶会の招待状よ! それぞれ自分が手に入れられる最高のお菓子を持ってきて交換するの。待ってるから逃げずにくるのよ?」
「私に、お茶会の招待状ですか? お菓子の交換……」
なんだか楽しそうだけど、どうして自分が呼ばれるのかさっぱり分からない、という表情でこちらを見上げてくるシルフィアへ頷く。
「君に暴力を振るった相手のお茶会になんて行かなくていいよ」
帝国貴族令嬢の慣習なんて従わなくても大丈夫、と続ければシルフィアが頬に手を当て考えこんだ。
「次期公爵夫人として慣習を無視するのはよくないと思うのですが、馬鹿にされて突き飛ばされたのに出席するというのもどうかと思うのです」
そこで言葉を止めた妻はにっこりと笑って続けた。
「ルビーニ伯爵令嬢、先ほど私を馬鹿にして突き飛ばした件を謝罪してくださったら、お茶会に出席いたします」
おや、シルフィアもいつの間にか、こんな貴族らしい返しができるようになっていたんだ。
僕が驚いている間にシルフィアは腕から滑り降りて、令嬢の前に立った。真っ直ぐ見上げられた令嬢の顔は悔しそうだ。
……さて、彼女はどうするのかな? 僕はどちらでも対処するよ。
じっと見ていると令嬢は唇をギュッと噛み締め頭を下げた。
「…………先ほど言ったことはテオドール様を心配しただけなのですが、貴方をバカにしたように聞こえたのなら謝罪いたします。それと、突き飛ばしたのではなく、うっかり伸ばした手が当たってしまったのですわ。お許しくださいね」
うっかり、じゃないだろ? 君の両手が意思を持ってシルフィアを突き飛ばしたのを僕はこの目ではっきりと見たんだ。
そう言いかけて、口を閉じる。目の前の小さな背中が自分の案件だと主張している気がしたから。僕を背中で止めたシルフィアは、伯爵令嬢へ一歩近づいた。
「私の勘違いとうっかりでしたか。分かりました。次はお気をつけくださいね。それではお茶会に出席いたします」
視界の端のカミーユが驚いて口を開けたのが見えた。
シルフィアはあの令嬢とお茶会で戦うことに決めたのかな。それともお菓子に釣られたのかな。どっちにせよ、僕は、彼女のために動くだけだ。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
テオのヤバイ思考がダダ洩れに。