64 小さな日常 雨の日は 前編
パタッと軒先の屋根から音がした。パタパタッと続けて聞こえてきて、俺と店長は腰を浮かせた。パタパタッパタッと連続してきたところで窓と店外へ分かれて走った。
パタンパタンと店長が窓を閉め、俺は外壁に取り付けられているオーニングをクルクルと伸ばして、歩道に雨を避ける空間を作る。
ここ数日晴天続きで、カラカラに乾いた石畳に次々と染みが出来ていく。突然の天気の急変に、道行く人達が次々と雨宿りにやってきた。皆、この気まぐれな雨がいつ止むかと濡れた身体を拭きながら空を見上げている。
そのうち、しばらく止みそうにないと悟った人から頭にタオルを乗せて走りだしたり、時間潰しに店内に入ってくる。
うちはぬいぐるみ店の看板を掲げているが、西の国の雑貨や食品も相当数扱っている。大っぴらに宣伝していないので、ほとんどの人が入ってきて初めてそれに気づく。皆、意外に思うのか、こういう時の売れ行きも馬鹿にできない。
さあ、新規客の獲得機会だ、と店内に戻ろうとしたところで声を掛けられた。
「ジャンニさん、こんにちは! お仕事、お疲れ様です」
この悪天候の中でも元気いっぱいなこの声は、と振り向けば予想通り小柄な貴婦人がいた。今日は雨仕様で上品な薄青の裾にレース模様をあしらったレインコートを着て同じ色の傘を持ち、雨靴を履いている。
「こんにちは、シルフィアさん。こんな雨の中、どちらへお出掛けですか?」
勢いは弱まったものの、雨はまだしとしとと降り続いている。こんな悪天候下で見るからに上流階級の女性が外を歩いているというのは、かなり珍しい。オーニングの下で雨を避けている人達も、ちらちらとこちらを窺いつつ聞き耳を立てている。
「テオとフリッツが図書館へ行っているので、傘を届けに行くのです」
「……ああ、ナルホド」
大好きな夫の役に立ちたいと張り切っている彼女に、彼が帰るまでに雨は止むのでは、なんてことは言えず適当な相槌で誤魔化す。彼女はくるりと回って雨具を披露すると嬉しそうに手を振った。
「これ、雨でもお出かけができるようにとテオが用意してくれたんですよ。私、傘も雨靴もレインコートも初めて使うので、雨が降るのを待っていたんです。行ってきますね!」
「なるほど、行ってらっしゃーい!」
ここにいる人達にとっては憂鬱な雨の中を、飛び跳ねるような足取りで去って行くシルフィアとお供のルイーゼを小さく手を振り返しながら見送る。
……まるで初めて雨具を買ってもらった子供だな。
昔、親に雨靴を買って貰い、同じようにはしゃいだ日を思い出す。今のシルフィアよりも十歳以上幼かったが、初めてだと同じような反応になるんだな、と頷き扉に手をかけた。
「やあ、店員さん。先ほどの方はどちらのお嬢さんかな? この辺りにお住まいのようだが、とても天真爛漫で可愛らしかった。身なりからして大きな商会の娘とみた。ぜひ、うちの息子を縁談相手に立候補させたい」
突然、真横で雨宿りしていた紳士に腕をつかまれ早口で畳み掛けられた。
……えっ? 天真爛漫ってことはルイーゼじゃないよな。ということは、シルフィアさんに縁談!? あの会話で息子の嫁にしたいって!? えええ、シルフィアさん達の身分とか、どこまで話していいの!?
扉と一体化したように固まったジャンニの返事をニコニコと待っている紳士へ、同じくオーニングの下にいた配達途中の男が手を顔の前で振って笑い声を上げた。
「旦那、あの子はダメだ、もう結婚してるからな。ここらじゃ評判の仲良し夫婦でさ」
「そうそう、今も夫に傘を届けに行くんだってさ」
「なんだ、そうなのか……えっ、てことはあのお嬢さんは成人してるのか!?」
「……そういや、そういうことだな?」
「まあ、ずいぶん幼く見えるけど、そうなんだろうな?」
助かった、と思ったのもつかの間、増えたはずの援護射撃は急速に弱まっていって俺は再び窮地に陥った。
これは、俺が正解を言うまで収束しないんですよね? そうですよね。
どう説明すればシルフィアさんに迷惑をかけずに収まるのか、頭を悩ませているとまた別の方向から声がした。
「ええ、あの方はご成人されたばかりですので、まだお嬢さんに見えるのでしょう。ですが、本当にご夫君から愛され大事にされておりますので、ご子息には他のご令嬢をお探しになったほうがよろしいですね」
その饒舌な説明にホッとして頷きながら出処を見遣る。いつの間にか雨宿りに加わっていた背の高い男が、パチンと片目をつぶって寄越した。急ぎでどこかへ行く途中なのか、首を伸ばして天を窺うと腕時計をサッと確認して図書館の方向に足早に向かった。
……もしかして、アレかな? シルフィアさんの護衛の人だったのかな? 最近、帝城からも派遣されてるってウータさんが言ってたもんな。雨の中、本当にご苦労さまです。
「ジャンニ、中を手伝ってくれ」
「あ、親方。すみません」
「皆さん、もうしばらく降り止みそうにないので、よろしければ店内にどうぞ」
お茶もご用意しておりますので、と扉を開けて誘った店長の愛想の良さに、留まっていた人達がぞろぞろと入っていく。
……さすがです、親方!
■■
店の扉から首だけ出して空を眺めていたチェレステは、この雨の中で時折傘をくるくると回しながらご機嫌で歩いて来る娘に目を留めた。
しっとりと柔らかそうな薄青の生地で作られた繊細なレース模様のレインコートとお揃いの雨靴、同じ色だけど、柄の入っていない無地の傘。この天気の中、パッと可憐な花が咲いたようだ。
……お供まで連れてら。わざわざこの悪天候下に好き好んで外を歩くとは酔狂なご令嬢がいるもんだ。
首を振って屋内に引っ込もうとしてはたと気づくやいなや、その『令嬢』に向かって声を掛けていた。
……あれが彼女であるなら話は別だ。
「シルフィアちゃん! 雨の中、お出掛けかい? いいレインコートだね」
「チェレステさん、こんにちは! テオとフリッツに傘を届けに行く途中なのです」
「あー……そうか、それなら急がないとね。また来週から働いてくれるのを待ってるよ」
「はいっ、よろしくお願いいたします。では、行ってきます!」
いそいそと通り過ぎて行くシルフィアとルイーゼを見送って今度こそ店に戻る。昼休憩中の厨房で夜の仕込みをしていたルノーが不思議そうに尋ねてきた。
「シルフィアさんだったなら、ここで雨宿りしていってもらえば良かったのでは?」
「いや。雨が降ったから夫に傘を届けに行くらしくて」
その言葉でチラリと窓の外を見たルノーが苦笑いをした。
「ああ、それは引き止められませんね。……もうしばらく降ってくれるといいのですが」
「だね。西の空が明るくなってきていたから、もうじき止んじゃいそうで、急かせちまったよ」
「いつもより長く降っていますが、通り雨、でしょうねえ」
チェレステは軽く頷いてカウンターの上の惣菜を摘んで口に放り込んだ。それ見て片眉を上げたルノーが小皿を差し出した。
「あなたの分はここに取り置いてますから、こちらを食べてください」
「おや、用意がいいねえ」
「それ、お好きでしょう。いつも食べ尽くしそうな勢いで摘み食いされるので、多めに作ることにしたんです」
「……それは、また用意周到なことで。あんたの作るこれは美味しすぎて止まらないんだよね」
「そりゃ光栄なことで。たんと食べてください」
「毎日でも食べたいね」
チェレステは差し出されたフォークと小皿を受け取ってにっと笑った。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
今回は前後編です。二人のささやかなお話をお楽しみいただければ幸いです。