62、妻、別れを惜しむ
「ハイ、テオ。あーんしてください」
テオが痛そうに小さく開けた口にフォークで果物を運ぶ。
「……まあ。テオドールが大怪我をして朝食に来られないというから見にきてみれば、ただ妻に甘えたかっただけじゃないの」
辺りがパキッと凍るような声がして、二人で向かい合って座っていた椅子から、揃って小さく飛び上がった。
「伯母上、先触れはどうなさったのです。せめてノックくらいしていただかないと、どんな恥ずかしい場面を見ることになるかわかりませんよ?」
まだ若干顔は赤いものの、瞬時に立て直したテオが冷えた笑顔で返した言葉に、皇妃殿下と私は顔を見合わせ目で会話した。
『シルフィア、貴方がたはいつもそんなに恥ずかしいことをしているの!?』
『してないと思います!』
大体、恥ずかしいことって具体的にどんなこと!? もしかして、私が知らないだけで実は見られたらとっても恥ずかしいことをしてるとか!?
動揺のあまり思わず席を立ってテオと距離を取ろうとしたら、逆に引っ張られて彼のひざに飛び込む形になった。当然のように、そのままテオに捕まって身動きが取れなくなる。
……これは、私でもわかる。今、私は恥ずかしい状況だ!
「……テオドール。娘が嫌がることをしないで頂戴。シルフィアの顔が真っ赤になってのぼせそうよ。ちなみにノックはしましたからね」
「伯母上、シルフィアは嫌がってないですよ。貴方がおられるから恥ずかしがっているだけです。それと、ノックをしたら返事があるまで待つべきでは?」
「もちろん、シルフィアが『ハイ』って言ったのを聞いてから入ってきたわよ」
「ああ、『ハイ、あーん』のハイを聞き間違えたのですね」
「……テオドール、貴方、顔の怪我だけみたいなのに、何故私の娘の手を煩わせているの? 自分でお食べなさい」
そう言われてみれば確かに皇妃殿下の言う通りで、テオは手に怪我をしているわけではないから私が食べさせる必要は、ない。
「そういえば、なんで私はテオに食べさせていたのでしょうか!?」
「僕がそうしてほしかったから」
「そ、そうですか……」
我に返って叫ぶもアッサリいなされて、そのまま彼のひざの上に座り直させられた。
「伯母上、立たせたままで申し訳ありませんでした。こちらの椅子にどうぞ」
テオが笑顔で先ほどまで私が座っていた隣の椅子を指し示す。
「まー。貴方、リーンより図太いわね!」
「伯母上ほどでは。大体、そうでもないとハーフェルト家の長男なんてやってられませんよ」
テオの怨念が籠もったその台詞に、皇妃殿下が苦笑しながら私の向かいに腰を下ろした。
「その家に生まれてしまったものは仕方がないわ。生まれる先は選べないのだから。……貴方達、昨夜は怖い思いをさせて申し訳なかったわね。シルフィアに怪我はないと聞いてはいるけれど、本当に何もなかった?」
皇妃殿下は私の両手を取り、濃い緑の瞳を心配そうに揺らして私の全身を鋭く観察する。
「お母様、私は元気です。でも、テオの怪我が酷くて」
「何言ってるの、僕はかすり傷。伯母上、シルフィアの心のほうが傷ついていますよ」
私達の話を聞いた皇妃殿下の顔が緩む。
「二人がお互いを思いやってるのは分かったわ。……だからこそ、今回の件をどう詫びていいのか。今朝オネストから報告されて、血の気が引いたわ。陛下なんて烈火のごとくお怒りになって、あっというオネストが持ってきた追放の書類にサインをしてしまったのよ」
私が彼等の運命を決めてしまったのか。ちょっと怖くなってテオを見上げればコツンと額がくっつけられて、大丈夫、と優しく一言降ってきた。
「そう。シルフィアの希望ということで帝都からたった100km四方の範囲になったけど本当にそれでよかったのかしら。もちろん、西の国にも入国禁止よ。だけどねえ、やったことがあまりにも酷いからよくよく反省できるようにしないとね」
……100kmって、少なかったの!? それにテオの国にも入れないの? あの人達、どうやってリボンを手に入れるのだろう。
元々不可能に近い話だったが、こうなるともう絶望的だ。彼等はたった1回の過ちで人生を大幅に変えることになった。私も小さな出会いで人生が大きく変わったから、日々真剣に過ごさないといつどこで何が起こって未来が変わるかわからない。
考え込んでいたら視線を感じて目を上げた。すると、正面の皇妃殿下が何か言い難そうに閉じた扇を両手で握りしめ私を見つめていた。
「あの、それでね、シルフィア……」
もしや、もう、会いに来ないでとか、娘にするのをやめるとか言われるのだろうか? きっとそうだ、だって私の存在がこんな事態を引き起こし、オネスト殿下の側近を追放することになってしまったのだから。
せっかく娘ができたと喜んで優しくしてもらったのに、私もお母様と呼んで親しくできる相手ができてくすぐったくも幸せな気持ちだったのに、あっという間にそれがなくなってしまうなんて。
じわっと目が熱くなって視界が歪んだ時、皇妃殿下が扇を放り出し、再度私の手を握って目を覗き込んできた。
「お願いだから、これに懲りてもう来ないなんて言わないで頂戴。警備ももっと万全にするから、また会いに来て欲しいの。私から貴方に会いに行くのはとても難しいから貴方が来てくれるのをずっと心待ちにしていたのに、これで終わりだなんて悲し過ぎるわ」
必死で訴えてくる皇妃殿下の言葉に、私もその手を握り返して自分の気持ちを伝えなければと口を開いた。
「私も、お母様に会えて一緒にお話したりお買い物をしたり、とても嬉しかったのです。だから、これっきり会えないなんて嫌です」
そうして、最終的にそれを判断するテオの顔を見つめれば、皇妃殿下もじっと彼を見た。
テオは目を丸くしていたが、直ぐに小さく咳払いをして口を開いた。
「僕は、妻の希望を全て叶える夫でありたいと思っていますので、シルフィアが望むならいつでも伺いますよ」
「テオ、ありがとうございます! 今度は絶対にお茶を断りますから!」
パッと握りあっていた手を離して彼に抱きつけば、即座に抱きしめ返されて困惑したような声が降ってきた。
「フィーア、敵は常にお茶に仕込んでくるわけではないんだけどね。……伯母上、シルフィアはこんな感じなので是非とも帝城内の警備強化をお願い致します」
「ええ、もう絶対に可愛い娘へ危険が及ばないようにするわ! だから、近い内にまた会いにきて頂戴ね!」
■■
すり減った石畳の道をガタガタいいながら走ってきた豪勢な馬車が、ぬいぐるみ屋の前で止まった。ちょうど店の前に打ち水をしていたジャンニはビクッと肩を震わせた後、動きを止めて様子を窺った。
仕立ての良さそうな制服を着た御者が馬車の扉をうやうやしく開けると同時に、少女と見間違うほど小柄な女性が飛び降りて明るい声で挨拶をしてきた。
「ジャンニさん、こんにちは。ただいま帰りました!」
「やあ、シルフィアさん。お帰りなさっ!? ちょ、ちょっと、テオドール様に何があったの!?」
彼女に続けて馬車から静かに降りてきた青年の顔に、ありえない大きさの湿布がドンと貼られているのを見て、ジャンニは目を限界まで見開いた。
「帝城の階段でコケまして」
いつも以上に冷たく無愛想な彼の答えにジャンニは一歩下がりつつ、妻のこと以外には常に沈着冷静で隙のない目の前の男と階段でコケて大怪我することが結びつかず、思わず余計な口をきいてしまった。
「えっ!? シルフィアさんがコケたのを助け損ねたのですか……?」
「私はコケていませんよ!」
反射のように返ってきた、青年を唯一揺らがせることができる相手からの答えに、ジャンニは即座に察した。
……俺に言えないような事件に巻き込まれたんだな、シルフィアさんが。
翌日、新聞に小さく出ていた『皇太子殿下の側近交代』の記事を眺め、ジャンニは一人頷いた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
第五章の本編は、ここで終了です。次はかんさつ日記になります。