61、寝室にて
「……はい、これで終わりですが、しばらくは痛みますぞ。ハーフェルト次期公爵閣下ともあろうお方が、これはまた派手にこけられましたな?」
夜中に呼び出されたというのに帝城のお医者様は明るく快くテオの顔の手当てをしてくれた。もちろん、怪我の理由を言うわけにいかないので、テオが自分でこけたと説明したけれどお医者様には嘘だとバレているようだった。だけど、それ以上は突っ込まれず、お医者様は何かあれば遠慮なく起こしてくだされと言い置いて部屋から出ていった。
「さて。フィーア、着替えようか」
お医者様を見送って扉を閉めた途端、体がふわっと浮き上がった。後ろからテオに抱き上げられてそのまま寝室へ連れて行かれる。
フカフカの絨毯の上に降ろされて、向かい合ったテオはニコニコしてるけど目が全然笑っていなくて、私は困惑しつつ首を傾げた。
着替えると言ったって私の寝間着は破られてしまったのに。
「テオ、私は着るものがなくなってしまったので」
このままで寝ます、と続ける前にテオの手が私の着ている服に伸びてきた。
「これ、オネスト殿下の子供の頃の服だって言ってたよね? これはこれで倒錯的で悪くないけれど、その場合、僕の子供の頃の服を着てもらいたい……いや、そうじゃなく。僕の精神安定のために、こちらの服に着替えてくれる?」
私の袖の生地をつまみながら半分独り言のような感じで話すテオの顔は少し赤くなっていて、私は不思議に思いながらもテオのためならと差し出された服を受け取った。
真っ白なその服にはなんだか親近感があって気になった私は手の中の布を何気なく広げ、パッとテオを見た。
「これ、テオのシャツですよね!?」
大きいし、この手触りはいつも握ってるからよく知ってる!
「僕は何枚かあるから大丈夫。君はドレスで寝るわけにいかないだろ?」
予備のドレスならある、という台詞を封じられた私は本当にテオのシャツを着てもいいのかな、と思いつつそれに着替えることにした。
こんなことがないとテオの服なんて着ることがないから、ちょっとだけワクワクする。
では、と今着ている殿下からの借り物のシャツのボタンを外そうとして、テオの手とぶつかる。それで彼がまだ目の前にいることに気がついた私は片眉を上げて首を上へ傾け、彼へ低い声を出した。
「……テオ、なんでここにいるのですか?」
「えっ? フィーアの着替えを手伝うためだよ?」
「一人でできますから、隣の部屋に行っててください!」
「……今は君と離れたくない」
その呟きのような懇願でハッとして今夜の出来事が蘇ってきた。
暗闇に一人だった不安とテオと二度と会えなくなるかもしれないという恐怖、ズタズタに切られた大事なリボン……確かにまたここで一人になるのは怖い。でも、着替えを手伝ってもらうのも恥ずかしくて落ち着かない。
「……じゃあ、せめて後ろを向いててください!」
なんとか妥協点を提示した私へ、返事の代わりにクルッと背を向けたテオをしばらく眺めて動かないことを確かめた後、大急ぎで借り物の服からこれまた借り物の服へ着替えた。
……わあ、ブカブカだ。
殿下に借りた服とは違って、子供の頃の物ではない彼のシャツは大きくてひざ下まで隠れてしまう。もちろん袖も長くて手が出るようにクルクルと折り曲げていたら、気配を察したテオが振り返って手伝ってくれた。
「テオは大きいですね」
「フィーアは可愛いね」
その返しで合ってる? と目を瞬かせたら正面でひざまづいて私の袖を丁寧に折っていたテオがふっと笑った。
……ああ、テオのいつもの笑顔だ。
その笑みに私の全身がホッと緩む。テオが手の届くところにいて、彼の服を着て慣れた匂いと手触りに包まれて気が緩んだのかもしれない。
突如、ポタポタッと目から水が落ちてきた。
「フィーア!?」
「テオ、悲しくも嬉しくもないのに急に……」
話している間もそれは止まらず量すら増え、私が袖で拭く前にテオがタオルを顔に当ててくれる。それから、タオルごと包み込むように優しく抱きしめられた。
「……もう、大丈夫だよ。一人にさせてごめん、とても怖かったよね」
テオの言葉で涙が倍増する。
……そうか、私は泣くほど怖かったのか。
そう実感してしまうと何かが切れたように涙が流れ出て、私は目の前にあるテオの肩に顔を押し付けてめいっぱい泣いてしまった。
■■
小さな寝息が聞こえてきて、腕の中の妻を覗き込む。予想通り泣き疲れて眠り込んでいたのでベッドに移そうとしたところ、ぎゅっとシャツを掴まれたままなことに気がついて全身に幸せが満ちた。
彼女の温もりが消えるのも惜しく、自分もこのまま寝ることに決めて、起こさないよう抱きかかえたまま座り込んでいた絨毯の上からそーっと立ち上がった。
二人でベッドに入った後、しばらく眺めていたがシルフィアは深く眠っているようで全く起きる気配がない。涙の跡をタオルで拭いてそこに唇を寄せてみる。
……温かい。シルフィアがこうして無事にここにいることに感謝する。一歩間違えば永遠に失う可能性だってあった。自分の迂闊さを許せない。彼女を二度とこんな目に遭わせないと唇を噛み締めた。
コロンッ
突然手を離して寝返りを打ったシルフィアを慌てて引き戻す。
僕から離れないで!
大人しく元の位置に戻って僕の胸に顔を擦り寄せてきた彼女をさっきより強めに囲って、なお不安が募る。
僕は寝起きが悪いから、起きたらまた居なくなっていたらどうしよう。……よし、今夜は寝ないで見守っていよう。
せっかくなので妻の寝顔を朝までゆっくり眺めようと仄かな灯りに照らされている彼女へ目を向けた。
……九ヶ月前、噂を集めなんとかシルフィアにたどり着いた時、彼女は満身創痍で倒れていた。直ぐ様この部屋に運び込み医者の手当てをうけさせ、看病という名目で今と同じように昏々と眠る彼女の寝顔を眺めていた。
あの時の彼女は痩せて顔色も悪く目も虚ろで感情がほとんどなかった。今は全体的にふっくらして喜怒哀楽があり、隣で無防備に眠っている様子はたまらなく愛しい。僕が彼女に安心をあげられているのならこれほど嬉しいことはない。
だけど、シルフィアを守りたくて大事にしたくて結婚したはずなのに、この九ヶ月を振り返ってみれば僕は彼女を傷つけ泣かせてばかりのような気がする。
カミーユの件、弟の結婚式で絡まれたこと、今夜。僕が一番幸せにしてあげられると思っていたのに、自信が揺らいできた。実際、僕といることによって彼女は逆に辛い目にあっているのではないだろうか?
だとしても、僕はシルフィアと別れたくない。例え彼女にとってもっと安全な場所があるとしても、初めて手に入れた、愛する人が僕と一緒に未来を歩いてくれるという幸福を手放したくはない。
とすれば今、僕がやるべきことは落ち込むことでも自信を失くすことでもなく、彼女の安全と幸せを今度こそ守り切れるように考えることだ。
護衛を増やせばいいというものではないことは父が母で立証済みだ。シルフィア自身を強くするのは現在進行形で行っているが、時間がかかる。……後は、小道具かな。しかし、あれもかさばるし使い方を間違うと……
可愛すぎる妻の寝顔を眺めながらアレコレ考えていたら、いつの間にか僕も眠りに誘われてしまっていた。
「ハーフェルト次期公爵夫人、おはようございます。まあ、目が腫れておられますよ、どうなさったのです!? それにお召し物までいかがされたのですか? え? 着られなくなった? 寝間着自体がなくなった!?」
隣室から突然響いてきた侍女の甲高い声で目が覚め、シルフィアがベッドに居ないことに気がついて飛び起きた。
次いで薄く開いた扉の隙間から漏れ聞こえてくる会話にヒヤリとする。侍女の勢いにタジタジの妻がうっかり昨日のことを話してしまう前にフォローしなくては。
ベッドから降りようと体の向きを変えたところで、侍女のため息とともにとんでもない台詞が聞こえてきた。
「まあ……ハーフェルト次期公爵閣下がそんな方だったなんて」
ちょっと待って!? 僕は妻の寝間着をズタボロにしたとんでもない暴力夫にされてない?
シルフィアは多分この言葉の意味するところを理解してない。噂になる前に打ち消さないと!
「おはよう!」
扉を勢いよく開けた僕の顔を見た侍女が、今度は息を呑んでシルフィアへ青い顔を向けた。
「次期公爵夫人は、お強いのですね……」
しまった、僕の怪我がシルフィアに殴られたことになってる……!
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
そして、とんでもないうわさが城内を駆け巡る…!