53、朝の支度
「シルフィア様はこの短期間で随分受け身が上手になられましたね」
「お義母様に丁寧に教えてもらって、ルイーゼがいっぱい練習に付き合ってくれたからですよ。いつもありがとうございます」
「そんな。シルフィア様が毎日倦まず弛まず一生懸命取り組んでこられたからですよ! これからもしっかり練習していきましょうね」
「ハイ! ……ですが、あとどれくらい練習したらテオを投げられるようになるのでしょうか?」
「えっ?! シルフィア様、テオドール様にどのようなご不満がっ?!」
「……? テオに不満は全くないですよ?」
護身術の練習の後、私は綺麗に汗を流して着替え、鏡の前に座ってルイーゼに髪を整えてもらっていた。そして、現在、私の髪をサラサラにすべくせっせと梳かしていた彼女は鏡の中で手を止めて愕然としている。
なんだか随分と顔が青ざめている。急に気分が悪くなったのかもしれない。
そうだったら大変だ、と振り返ってルイーゼの手を取る。
「ルイーゼ、大丈夫ですか?! 体調が悪くなったのなら部屋まで送りますから、今日はお休みしてください」
「いえ! シルフィア様がテオドール様を投げ飛ばしたい理由を聞くまでは動けません!」
そこで、うん? と首を傾げた。理由?
「私、テオより強くなりたいのです。いつまでも皆さんに守られているわけにはいかないので、とりあえずテオを投げ飛ばせるくらい強くなることが目標なのです!」
そうすればあまりご迷惑をおかけしなくて済むはず、と両手でこぶしを作って力めばルイーゼがその場に崩れ落ちた。
「そ、そうでしたか……よかった」
んん? ルイーゼのこの反応、もしや私がテオのことを嫌いで投げ飛ばしたいと思われていた?!
私は慌てて椅子から降り、彼女の手を取って顔を覗き込んだ。
「ルイーゼ、大丈夫ですよ。私はテオより強くなって守る側になりたいだけで、テオが嫌いなわけじゃないですから」
「そうですよね?! よかった、本当によかった。シルフィア様に投げられて後足で砂をかけられて出ていかれたらテオドール様がどうなるか、想像するだに恐ろしい……」
「……君達は、何の話をしているの」
スウーッと冷気が漂う声が這い上がってきて、私とルイーゼは抱き合って飛び上がった。
恐る恐る声のした方を見ると、憮然とした顔で腕組みをしたテオが扉にもたれかかって目を細めていた。
「僕はシルフィアに投げられて後足で砂かけられて出ていかれる予定があるのかな?」
低い低い凍りついたその声に、ガッチリ聞いてた、とルイーゼが首を竦める。その隣の私はなぜか笑いが込み上げてきて笑顔で立ち上がった。
「私はテオが大好きですから、出ていく予定はないですよ!」
私の言葉で彼はくしゃりと顔を崩し、大きな歩幅であっという間に目の前にやってきて私をギュッと抱きしめる。それから、椅子にひょいっと乗せると髪を梳かしながら鏡の前に並べてあるリボンや飾りを一瞥した。それからおもむろに長い指で私の髪をスルスルと細く編み始めた。
「テ、テオドール様?! えっ、シルフィア様の髪を結えるのですか?!」
「うん。こちらは人手が少ないからね。ウータが休みの時や忙しい時は僕がやってるんだ。それにこうやって僕が結えたら夜会で崩れても直せるだろ?」
自分の妻の髪くらい結える夫でいたいからね、とテオは話す間も手を休ませることなくあっという間に完成させた。
「……テ、テオドール様。これは一体どうなっているのですか?! 私には複雑すぎてわかりません!」
鏡の中のルイーゼは目を皿のようにして私の頭を見ている。テオは器用だからウータさんが買ってきてくれる雑誌に載っている帝都最新流行の髪型を次々に覚えて私の頭で再現してくれるのだ。それにしても今日のはとても凝っているみたい。
「テオはすごいですね!」
「フィーアはどんな髪型にしても可愛いから、つい力が入っちゃうんだよね」
「……私ももっともっと精進いたします!」
「ルイーゼがいつも結ってくれる髪型も私は大好きです」
「まあ、僕も毎日シルフィアの髪を結うわけにいかないし、ルイーゼの腕も日に日に上がってきてるからこれから楽しみにしてるよ」
「お任せください! いつかテオドール様より素敵な髪型を完成させてみせます」
張り切って宣言したルイーゼに、テオは僕もまだまだ腕を磨くよ、と不敵に笑ってポケットから細い銀糸で編まれたレースのリボンを取り出し私の髪に結びつけた。
「これ、うちの特注品。模様が家紋の透かしになってるんだ」
……そう言われれば家紋に見えるような?
よくよく見ないとわからないな、と鏡に映ったリボンをじっと見つめていたらテオが真面目な顔になった。
「用心し過ぎて困ることはないから、今日はこれをつけててね」
そう言って鏡越しに見つめ合った薄青の瞳には不安が揺れていて、私は思わず振り返ってテオを抱きしめた。
「大丈夫ですよ、テオ。今日は帝城へご挨拶に行くだけですから、何も起こりません」
「……あの城は大きくて人が多すぎるから、何が起きてもおかしくないんだ。それになんというか、ハーフェルト家は妬まれやすいからフィーアは特に気をつけないと」
その言葉で目を丸くした私にテオが急いで続ける。
「大丈夫、僕が側にいるから」
「それなら安心ですね」
ホッと息をついてギュッとテオに巻き付けている腕に力を入れる。
……何があってもテオから離れないようにしよう。だって私がいなくなったらテオはきっとすごく心配するもの。
「いいかい、フィーア? 帝城内の噂は信じない、出された飲食物は僕がいいと言ってから口にする、僕以外の人についていかない。これだけは守ってね」
私は彼の目を見つめてハイ、と大きく頷いた。
■■
「えっ?! ルイーゼは一緒に行かないのですか?」
「はい、今回は皇帝陛下のお招きということで帝城からお迎えの馬車がきておりますし、ご夫妻のお世話をする人手も足りているとのことで付き添いは禁止されているのです」
アパートメントの前に停まっている豪華な馬車に乗り込む直前、驚く私へ困り顔で説明するルイーゼの横でフリッツさんも不満げに頷く。
「そうなんですよ。こういう場合は全て向こうが用意する形になるそうで」
なんだか急に不安になって隣のテオを見上げたら、彼は平然としていて私の視線に気がつくとふわっと笑った。
そっか、テオがいるから大丈夫だ。
私も微笑み返して馬車に乗り込んだ。
「おや、シルフィアさん、おはよう。テオドール様とお出かけかい?」
その時、アパートメントの隣のぬいぐるみ屋の扉が開いてジャンニさんが出てきた。これから店の前の掃除をするらしく箒を手に持ったまま、着飾った私達ときらびやかな馬車を見て目を丸くしている。
私はどう説明すればいいのか悩んで、チラリとテオの表情を確認してから口を開いた。
「……ええと、ハイ。ちょっとそこまで私の養父母にご挨拶に行ってきます。今夜は向こうで泊まって、明日帰ってきますのでジャンニさん、ルイーゼ達をよろしくお願いします」
何をよろしくするのかな、と思ったものの他に思いつかなかったのでそう挨拶して馬車の窓から手を振った。
「おう、任せといて」
ジャンニさんは軽く受けて、動き出した馬車に向かって手を振り返してくれた。
「行ってらっしゃーい……ってちょっと待って、アレってどこの家紋?!」
「馬車のアレっすか? え、ジャンニさん見たことありますよね?」
「えっ、ねえアレってよく見るアレで合ってるの?」
「多分、合ってますよ」
「ルイーゼさん、本当に?! ……え、ということはシルフィアさんの養父母って……」
怯えるジャンニへフリッツとルイーゼがなんとも言えない視線を向けた。
「まさか、シルフィアさんは大陸随一の帝国皇帝陛下の養女なの?!」
揃って深く頷いた二人に、ジャンニは声にならない悲鳴を上げた。