52、帝都の朝
窓の外から新聞の投函される微かな音がして目が覚めた。帝都での住まいは大通りではないけれどそこそこ賑わう通りに面しているため、朝早くからいろんな音がする。
私は目をこすって身体を伸ばし、テオを起こさないようそっとベッドから降りた。それから、昨日部屋の隅に作ったぬいぐるみ用の棚へ行き、ウサギさん達を抱き上げて一緒に窓から外を覗く。
まだ夜が明けて間もない時間で空が新しい。三階から見おろした通りには、様々な人が行き交っていた。多いのは配達の人で新聞や牛乳、最近では焼きたてのパンも届けてくれるらしい。それから市場へ仕入れに行くのか、空の荷車を引いている人もいる。
聞こえてくる人々の生活音に耳を澄ませていたら、先日までいたハーフェルト公爵家の庭で鳴いていた鳥の声を思い出した。すると急に淋しくなって、私はウサギさん達と一緒にベッドに戻った。
彼らを端に並べ、モゾモゾと掛布の中に潜り込む。横になってスヤスヤと寝ているテオの顔をジッと見ていると、もっとくっつきたくなって彼の腕を持ち上げその間に自分の身体を押し込んだ。
……ああ、やっぱりここが一番安心する。
テオの身体にすり寄って目を閉じて微睡んでいたら、背に回された腕に力がこもって頭に何かが触れた、ような。
アレ、と頭を持ち上げてテオの顔を見ると目は閉じられている。もしかしたら気の所為だったのかも、と思いつつ小さく声をかけてみた。
「……テオ、起きてますか?」
反応はない。なんだ、気の所為かと彼の胸に頭をくっつけたところ、振動が伝わってきた。
この感じ、知ってる。テオが笑ってる時だ!
「テオ、起きてますね!」
再度見上げれば、今度は薄青の瞳が怒った私の顔を映していた。
「もー、寝たふりなんてひどいですよ!」
「ごめんね、フィーアが潜り込んでくるなんて滅多にないことだからじっくり味わいたいなあと思って」
本当はキスもして欲しかったのだけど、とつぶやいてテオが私の額の髪をかき上げて唇を寄せる。
これは恋人っぽい、気がする!
テオに恋をしていると告げた後、『じゃあ、僕達は夫婦で恋人同士だから、これからもっと仲良くしようね』と言われたのだ。ということで、私もお返しをしなければ!
張り切って私もぐーっと手を伸ばして彼の前髪をかき上げた。
……ん? キスするには遠すぎるかな?
テオの顔へ近づくために身体を上にずらそうとして、自分がガッチリ抱え込まれていることに気がついた。
「テオ?」
「うん?」
「動けません」
「うん。だって、朝起きたらフィーアはいないことが多いから、こうやって腕の中にいるのが嬉しくて。もうしばらくここにいてくれない?」
「それは構わないのですが、これだとキスのお返しが出来ません」
「あー。じゃあ、僕が顔を近づけるね」
そう言ったテオの嬉しそうな顔が私の方へ近づいてきた、その時。
コココンッ
「おはようございまーす! 先ほど気配がしたので……シルフィア様、起きられているなら護身術の練習をなさいますか? ……あ」
ルイーゼの声とともにそっと扉が開く気配がして私はパッと起き上がり、テオがガックリと項垂れた。
「おはようございます、ルイーゼ。練習します、今行きます! テオはどうしますか?」
「…………起きるよ。せっかくだからフィーアと一緒に練習する」
「あああ、申し訳ありません! 大事な時間をお邪魔してしまって……」
ノロノロと身体を起こしたテオに向かってルイーゼが必死に謝っている。テオは貼り付けたような笑みを彼女に向けた。
「仕事熱心でなによりだけど、ここは察して気を利かせて欲しかったな……!」
「あああ、大変申し訳なく……あっ、今からやり直しというのは」
「無理だろ……シルフィアはもう護身術の練習をする気になってるよ」
二人の視線を感じて振り向いた私は扉の取っ手に手をかけながら頷いた。
「ハイ、テオと練習するのは久しぶりですから楽しみです!」
「まあ、シルフィアが僕の存在を喜んでくれるならなんだっていいのだけどね」
テオがつぶやいてふわっと笑った。
私は、彼のこの優しい笑顔が一番好きかもしれない。そう思ったら口からポンと気持ちが飛び出していた。
「テオのその笑顔、大好きです」
ヒュッと息を呑む気配がしてテオがその場に崩れ落ちた。
「……嬉しすぎて心臓が止まるかと思った。僕もう一生この顔でいる」
ずっと同じ表情のテオを想像する。食事の時も寝ている時も読書をしている時も同じ……かなり怖い。
「あの、テオ。ずっと同じは怖いです」
「シルフィアに怖いって言われた……」
思わず訴えたら、テオの顔が真っ青に変わった。言い方、間違えたみたい。どう言えばよかったのかな。
「あっはっは、テオドール様は今日もシルフィア様に翻弄されてますねえ! いやー、この方をここまで揺さぶることができるのは、世界広しといえどもシルフィア様だけですよ」
開いていた扉からフリッツさんの大きな笑い声がした。
「当たり前だろ。僕は誰よりもフィーアに嫌われたり怖がられたくないんだよ。最愛の妻だからね」
最愛の妻と言われて顔が熱くなる。
……テオは『可愛い』『好き』『愛してる』と毎日言ってくれてその度に私は嬉しくなる。でも、最愛とまで言ってくれる彼に対してさっきの私は気持ちを上手く伝えられなかった。
悩んでいたらあっという間に立ち直ったテオがやってきて、私をヒョイッと抱き上げた。私は近くなった彼の横顔を見てポンと手を打った。
「私はテオが好きですから、笑顔だけでなくテオのいろんな表情を見たいです。だから、あの笑顔は大好きですが、固定はしないでください」
……今度はうまく伝えられたかな?
頭を傾けてテオの顔を覗き込めばテオは極上の笑みを浮かべて頷いてくれた。
「僕もフィーアのくるくる変わる表情全てが愛しくて大好きだよ」
全身が沸騰して髪の毛が逆立った。テオはどうしてこういうことを平然と言えちゃうのだろう。……嬉しいけど、私は照れてしまって同じように返せなくて申し訳ない。
だから、せめてこれくらいは!
私は首を伸ばして、ニコニコとこちらを見ているテオの額にエイッとばかりに唇を押し付けた。
「さっきの続きです!」
よし逃げるぞ、と彼の腕から飛び降りようとしたら、しっかりと捕まえられていて脱走は失敗に終わった。
「なんで君はそうやってやり逃げしたがるの? 僕はフィーアがしてくれて、とても嬉しいのにお返しをさせてくれないなんて」
そういいながらテオがまた私の額にキスをする。
……次、私がお返しのお返しのお返しをするの?!
それだとお返しが終わらないのでは、でも、お返ししないと……とテオの額を見つめていたら彼が吹き出した。
「フィーア、直ぐのお返しにこだわらなくていいんだよ。僕達は一生、一緒にいるのだからいつでも待ってるよ」
そっか、一生一緒にいるならまたの機会でいいのかな……と考えて重大なことに思い至る。
「でも、それだとお返しがいっぱい溜まって分からなくなります」
「そうだね。だから、本当はお返しなんて気にしなくていいんだよ。フィーアがしたい時にしてくれれば僕はいつでも大歓迎なので」
「わ、私だっていつでも大歓迎ですよ!」
反射的に力んでオウム返しをしてしまった。直後、目の前のテオがいたずらっぽい笑みを浮べて私は青ざめた。
……しまった、テオがなんだか悪い顔になっている。
「いつでも、大歓迎なんだ?」
「いつでもだけどいつでもじゃないです!」
やっぱりいつでもは困る、と言い直そうとしたのに、全くよくわからない返答になってしまい慌てた。
「ははっ、大丈夫。フィーアが困るような時にはしないよ」
ワタワタする私に吹き出しながらテオが言ってくれて私はホッとした。
「よーし、ではそろそろ皆で護身術の練習をしますかね?!」
フリッツさんの明るい声で、その場にテオと二人きりじゃなかったことを思い出した私は固まった。
……ディーがいたら、また二人の世界に行ってるって言われてしまう、もー恥ずかしい!
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
帝国へ帰ってきました。