40、妻、戸惑う
「フィーア、君は何も気にしなくていいからね。皆、僕の好みを勝手に決めすぎ。僕はシルフィアの容姿だけじゃなく、全てを愛しているのに」
後ろからテオの声が聞こえたと思った途端、ふわっと身体が浮き上がって、あっという間に抱え上げられていた。
「テオ! 二度寝はいいのですか?」
すでに着替えも済んでいる彼に驚いて顔を覗き込んで尋ねれば、爽やかな笑顔が返ってきた。
「フィーアがおはようのキスをしてくれたからね」
現実だって気づいてた! でも、人前で言わないで欲しい。
私は慌ててテオの口を両手で塞いだ。するとくっくっと笑い声がして、正面のヘンリックさんが楽しそうな顔で口元に握りこぶしをあてて笑っていた。
「おはようございます、テオドール様。あんなに寝起きが悪くて女性に冷たかった方がこうも変わるとは、次期ハーフェルト公爵夫人はシルフィア様以外にはいませんね」
その言葉でテオがパッと勢いづき、とても嬉しそうな表情になった。
「そうでしょ! だけど、ヘンリックには申し訳ないことをしたと思ってる。でも、僕はシルフィアと出会えなかったら、ヘンリックの選んだ相手と結婚してたよ」
「今のテオドール様を見て、そうならなくてよかったと心の底から思っていますよ」
ヘンリックさんがしみじみと呟いた台詞に、テオが柔らかい笑みを浮かべ黙って私へ頬を寄せた。
「お義姉様ー、護身術の訓練に行きましょう。あら、ヘンリック、戻ってたのね。朝早くからお兄様に用なの?」
廊下を駆けてきたディーが目を丸くした。彼女へうやうやしく挨拶をしたヘンリックさんは、そうでした、と私とテオを交互に見ながら眼鏡を光らせた。
「私はお二人と入れ違いに帝国へ行っていたのですが、皇帝ご夫妻にもお会いする機会がありまして伝言を預かって参りました」
その言葉を聞いてテオがうっ、と呻いた。皇妃殿下はお義父様の実姉で、テオの伯母にあたるらしい。テオは伝言の内容に心当たりがありそうだ。
まさか、私のことで何か言われているのだろうか?!
急に心臓が落ち着かなくなって、テオのシャツの肩部分をぎゅっと握り締めた。
「フィーア、大丈夫だよ。君が心配することは何もないから」
その手にテオが自分の手を重ねて優しく微笑む。向かいのヘンリックさんは真顔のまま口を開いた。
「『テオドール。いい加減、妻はマナーを勉強中なのでまだまだ会わせられませんなんて言ってないで帝国へ戻ったら即、一緒に挨拶に来なさい。来なければ、こちらから押しかけるわよ!』とのことです」
高い声で皇妃殿下の声音を真似たらしいヘンリックさんが伝言を告げると、テオが思いっきり顔を顰めた。
「伯母上がそこまでキレてるなら、さすがにもう逃げ切れないか・・・」
「そのようです。皇太子殿下も随分とお怒りでした。『テオドールはいつまで私の妹を隠しこむつもりか』と」
「あー・・・」
片手で顔を覆ったテオの横でディーがポンと手を打った。
「そっか、お義姉様は帝国皇帝の養女になってテオ兄様と結婚したのよね。よく考えたらとんでもない貴人じゃない?」
「そんな。書類上だけのお話ですし、私はそのような天上の方々にご挨拶できるようなマナーがまだ身についていないですから・・・」
実家と縁を切るために名前だけ借りる形でテオが手配してくれた養父は、なんと世界最大の版図を誇る帝国皇帝だった。もちろん、相続関係は一切権利がない。
だから、皇族の方々は私のことなんて一切気にしなくて会うこともないものだと思っていたのに。
「ハッ、もしや私が不出来すぎるとお怒りで、それで養女取り消しでテオと離婚しろとか言われるのでしょうか?!」
そうなったら私はどうすれば?! と冷や汗をかいていたらテオの腕に力がこもった。
「絶対にそんなことにはならないから。君の事情を知った上で養女にしているわけだし」
「そうですね。皇妃殿下も皇太子殿下もシルフィア様ではなく、テオドール様に対してお怒りですから」
「テオに? 私のせいではなく?」
「テオドール様がいつまでもシルフィア様を独り占めしているからだそうですよ」
テオだけが怒られるなんて、どんな理由で? と不思議がっていると、ヘンリックさんが相変わらずの無表情でサラリと教えてくれた。だけどその内容はもっと理解しがたいもので、私の頭は混乱した。
ヘンリックさんとテオの話からだと、なんというか皇妃殿下と皇太子殿下とテオが私を取り合っているような・・・? まさか、そんなことは有り得ない。
私は正解はなんだろうと首を大きく傾げた。
「・・・うーん?」
「アラー、貴方がシルフィア? ヤダ、思っていた十倍カワイイ!」
話し方に反して重低音の声が廊下に響き渡った。
初めて聞く声だ。ということは、このお屋敷の人ではない? では、こんな朝に一体誰が訪ねてきたのだろう?
相手を見ようと身体をひねった途端、誰かに身体を引っ張られた。すぐさま、テオの方へ引き戻される。
「殿下、成人した妹を抱き上げるのは禁止です! 触れるのもダメです!」
「エーッ、夢だったのに。成人してから姉妹になったのだから幼い時にできなかった分、でいいじゃない」
「姉妹じゃないでしょう。殿下と僕の妻は兄妹です。しかも、義理のね」
だから、絶対にダメです、と私を頭ごとぎゅうっと抱え込んだテオが叫ぶ。
一体、誰?! 声質からして男の人だと思うのだけど、殿下ってまさか・・・?
「じゃあ、挨拶だけにするから妹の顔くらい見せてよ」
絶対、触らないでくださいよ、と念押ししたテオが私をそっと絨毯が敷き詰められた廊下の床へ降ろした。
まず目に入ったのは繊細なレースに縁取られた真っ赤なドレスの裾から見える同色の艶やかな靴の先。それから滑らかな布地のドレスを上へと辿っていけば胸の前で組まれた浅黒い、がっしりと筋肉のついた腕があって、幅広の肩の上には同じく浅黒い顔、そして爛々と光る緑の瞳が短い黒髪の中から私を見下ろしていた。
・・・ええと、テオと同じくらいの背丈でとても筋肉がついた男の人が、真っ赤なドレスを着て腕を組んで仁王立ちをしている、しかも派手目のお化粧バッチリというこの状況で私は何をすればいいのでしょうか?
ぽかんと目の前の人物を見上げて身動きができなくなった私へ、其の人から声が掛けられた。
「初めまして、シルフィア。貴方の兄のオネストよ。テオが貴方に全然会わせてくれないからヘンリックについて会いに来ちゃった!・・・ここにいる間は姉と思ってくれるとありがたいわ。私、女装が趣味なの」
私の頭は一気に混乱した。
私の実兄じゃない兄、ということは帝国の皇太子殿下?! でもここでは姉で女装が趣味??!
「あの、初めてお目にかかります、オネスト皇太子殿下。シルフィア・ハーフェルトでございます」
挨拶をしていないことに気がついて、とりあえず諸々棚上げし、ようやくそれだけを口から絞り出す。そして、知る限り一番丁寧なお辞儀をした。
「まあ、上手ね! もう、マナーなんて十分じゃないの。私と貴方は姉妹なのだからそんなにかしこまらないで『お姉様』と呼んで気軽に懐いてくれて構わないのよ」
お姉様、なんだ・・・。私はその化粧はしていても精悍な男らしい顔からそっと視線をずらし、目の前の人物を姉だと思う努力をした。
・・・そういえば、姉と呼ぶ相手ができたのは初めてだ。しかも、私を嫌うどころか好意を持ってくれている。
そのことに気がつくと身体の中から不思議な嬉しさが湧いてきた。
「お姉様」
顔を上げて小さく呼びかけると、緑の瞳がパッと輝いた。
「ああ、念願の私だけの妹だわ! シルフィア、いっぱい遊びましょうね!」
「ハイ」
「キャー、カワイイ」
つられて答えれば、身を捩って喜ばれた。
・・・ハテ、私は彼女(彼)と何をして遊ぶのでしょうか?
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
登場人物が増えていくのを止めたいのに止められない。すみません。兄に溺愛もやりたかった・・・!