36、夫は画策するも
「はい、日差しがきついからこれ被って」
小さな頭につばの広い大きな帽子を乗せる。途端に僕の視界から可愛い妻の姿が消え、帽子だけになった。
「テオ、ありがとうございます。どうですか、似合ってますか?」
落ちないように帽子の端を両手で押さえつつ見上げてきた濃い藍の瞳に僕しか映ってないことに心が溶ける。
「君のために誂えたように、とても似合っているよ」
お義母様に頂いた帽子が似合って嬉しいです、とニコニコしている妻が『テオ』と僕の名を呼ぶ度に抱きしめたくなる。『テオ様』と呼ばれていた時はまだ遠慮されているようで、薄布一枚ほどの壁が僕達の間にある気がしてもどかしかった。
「エルベの街は帝都と同じくらい賑わっていて、美味しいお菓子のお店がたくさんあるとディーが言っていました。とっても楽しみです」
僕を見上げたまま全開の笑顔でワクワクしている彼女へ無意識に手を伸ばせば、パシッとはたかれた。
「テオ、今日は抱き上げ禁止ですよ」
僕達は身長差がかなりあるので、可愛い妻の顔を間近で見たくて隙あらば抱き上げてしまう。それが子供扱いに思えるらしく、今朝ついに禁止令を出されてしまった。
だけど彼女を抱き上げることが身に染み付いているので、その温もりと柔らかさを感じられないことが辛過ぎる。この状態が続けば禁断症状が出そうだ。
「ねえ、フィーア。今日一日ずっと駄目なの? 僕は耐えられそうにないのだけど。街にいる間は我慢するから、今、思いっきり君を抱きしめて補給させてもらっていい?」
そうしないと息が絶えそう、と付け足せば慌てたシルフィアが両手を伸ばして抱きついて来てくれた。
・・・なんという幸せ。
機を逃さず抱き上げて、顔を寄せてキスをする。また! という表情をしつつも補給という名目があるからかシルフィアはされるがままになってくれている。
こちらに来てから色々あったけど、慣れるに従ってシルフィアから過度な遠慮がなくなってきた。時々、甘えてくれたり躊躇なく自分から触れてくれるようになった。
・・・このまま抱いて街に行ったら怒られるだろうか? きっと怒られるな。
「テオ、補給できましたか?」
真横から覗き込んできた彼女を離すのが惜しくてもう一度だけ、とキスをしようとしたところでノックと同時に扉が開いて濃い金の髪が飛び込んできた。
「お義姉様、準備できました? もう、また二人の世界に入ってたの?!」
妹のディートリントの叫びとともに腕の中から妻が消えた。あっという間に飛び降りて妹の所へ行ってしまったのだ。
・・・僕に容赦ないシルフィアも愛してる。
「お義姉様、丁度今日から移動遊園地がきてるのですって。一緒に行きませんか?! 限定のアイスクリームが売っているのです」
あっ、それ、僕が誘おうと思っていたのに!
妻に去られた痛みと妹に先を越されたショックで僕は思わずよろめいた。
「テオ、大丈夫ですか?! 補給が足りませんでした?!」
「補給? ・・・ははあ、テオ兄様はまた純粋な妻を弄んでたのね。お義姉様、お兄様はお腹が黒すぎて今日はお出掛け出来ないみたいよ。お母様と三人で行きましょ」
「えっ?! ・・・大丈夫です、テオのお腹は黒くないですよ!」
僕の服をめくって確認して安堵するシルフィアに妹が身悶えている。これは飛びついて来るな、と止める態勢を取れば妹の目が光った。
「お義姉様。私も街で飛びつかないように今、お義姉様を補給させてもらってよろしいですか?」
お義姉様が不足して辛いのです、と訴えるディートリントにシルフィアは僕の時と同じように素直に両手を広げて抱きついた。
・・・補給は夫だけとしか出来ないと言っておけばよかった。
内心で後悔しながら、僕に勝ったと歓喜しているディートリントを見れば、その腕の中でシルフィアも幸せそうにしていたので、これはこれでいいかと自分を抑える。
シルフィアは熱を出して以来、僕以外にも甘えても大丈夫だと思えたのか、ディートリントとよくくっついている。
昼間は心の狭い夫だと思われたくないので黙って見守っているが、夜に二人きりになると我慢していた分、ずっと離さないで寝るまで彼女を膝に乗せて読書をしている。
シルフィアも一緒に読もうとしてくれるのだが、さすがにまだ経済書は難しいので大抵ぬいぐるみ達を抱えて僕の膝で寝てしまう。
その寝顔を眺めていると自然と笑みが浮かんできて身体が幸福感で満たされていく。僕は彼女が幸せであることを望んでいるけれど、時折独り占めしたい思いが暴走して自制がきかなくなりそうで怖くなる。
自分でもどうしてここまでシルフィアを好きになってしまったのか分からない。彼女の全てが愛しくてたまらない。出来ることなら僕の全ての時間を使って彼女を眺めて、その可愛らしい声を聞いて、身体に触れていたい。
狂気に近いその想いを深く深く心の内に押し込め蓋をして、僕はシルフィアへ笑顔を向ける。
「移動遊園地、僕も誘おうと思っていたんだ。行ってみる?」
喜ぶと思ったシルフィアは、ディートリントの腕の中で目を瞬かせて首を横に倒した。
「・・・いどうゆうえんちって何ですか? 動く美味しいアイスクリーム屋さんですか?」
ああ、そうか。彼女はまだ遊園地がどんなものか知らないんだ。
僕とディートリントは軽く視線を合わせて頷きあう。
「お義姉様、遊園地は子供から大人まで楽しめるとっても楽しい場所なのです。ご存知ないのなら、是非行きましょう」
ディートリントが誘えば、目を輝かせて僕の方を振り返った。
「大人も?! では、テオも楽しめますか?」
・・・ここで僕のことを気遣ってくれるなんて相変わらず妻は優しい。それにしてもワクワクしている妻は可愛すぎる!
シルフィアのあまりの可愛さに口元を押さえて身を震わせている僕へ、妹が早く返事をしろと冷たい視線を叩きつけてきた。
・・・実は僕自身は遊園地が楽しいと思ったことがないのだけど、家族が楽しそうな様子を見るのは好きだった。
「僕も(フィーアの笑顔が見られるなら)とても楽しめるよ」
「ディーも?」
「もちろん(お義姉様が喜んでくれるなら)とても楽しいですわ!」
それで安心したように更に笑顔になったシルフィアに感激したディートリントが、彼女を抱きしめ直す前にその腕から奪い返す。そのままちゃっかり抱き上げて頬を寄せる。
「では、予定が決まったところで出発しようか。最初はぬいぐるみ屋からだよね?」
「はい! 昨日、ディーと相談してお互いのぬいぐるみにお揃いの洋服を買うことにしたのです」
「えっ?! 僕のぬいぐるみとお揃いじゃないの?!」
あ、と小さく口を開けておろおろし始めたシルフィアを見て、僕のこと忘れてたんだなとの思いが過る。
最近、ディートリントという女友達のような存在が出来たことで、彼女の中で僕の存在が薄れているような気がする。
・・・それはシルフィアにとっていいことなのだけど、少し、いや、ものすごく寂しい。
「大丈夫ですわ。店に着くまで内緒にしようと思っていたのですが、お義姉様とお兄様のぬいぐるみにはお揃いの腕輪をお勧めするつもりでした」
「ぬいぐるみの腕輪なんて取り扱ってたっけ、新商品なの?」
「ええ。お兄様達の結婚指輪の話を聞いたお母様が思いついて、お父様があっという間に商品化したの」
ホワホワッとしているようで母の思いつきはよく当たる。父の素早い対応も物を言うが。きっともう腕輪も独占販売権を取得しているのだろうなあ、と両親の手腕に思いを馳せていると腕の中のシルフィアが身動ぎした。
「あの、ぬいぐるみ屋さんの商品はお義母様とお義父様が作っているのですか?」
「ええ、ぬいぐるみ屋はお母様のお店だもの」
知らなかった! と驚いているシルフィアが可愛くて再度補給と、ぎゅうっと抱きしめた。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この章は山なし谷なし、ただの日常にするぞ、と決めて書いてみました。