26、兄について
「いやもう、本当になんで僕は帰国翌日から城に呼ばれてるわけ? 今日はシルフィアに屋敷を案内するって約束してたのに」
朝食後、家族に見送られて馬車に乗った途端、兄が愚痴りだした。さっきまで見送りに来た義姉上に愛をささやいていたのに。
「そりゃ、兄上が宰相補佐の肩書を持ってるからじゃない? 父上が留守だし」
「だからといって休暇中の学生を呼び出すなんて、この国にはそんなに人材がいないのか?」
「兄上よりできる人はそんなにいないでしょ。本当は十八で成人したら城勤めの予定だったけど留学する代わりに、こちらにいる時は出仕するって約束したんだよね? 行かなきゃダメだよ」
珍しく駄々をこねている兄を諭せば、これまた滅多にないことに兄が悄気げた。
「・・・その時は、シルフィアがいなかったから」
その一言に全てが凝縮されていて、思わず吹き出しそうになる。あの冷徹な兄をここまで変えるとは、恋愛結婚って恐ろしい。
「兄上は結婚して本当に変わったよね。義姉上と一緒にいる時、別人だもんね」
「そこまで変わってないだろ」
「変わったよ! 雰囲気がうんと柔らかくなって、心の底からの笑顔が増えた。母上もディーも喜んでたよ」
「ディー! シルフィアを怯えさせてないか心配でたまらないんだけど?! ああ、今直ぐ帰りたい」
狭い馬車の中で立ち上がって騒ぐ兄を座らせて宥める。
本当にこの人は俺の兄なの? 中身誰かと入れ替わってない?!
「もうすぐ城に着くからね? ディーも昨日のことはものすごく反省してたから大丈夫だよ、多分」
「多分じゃ困るんだよ。ディーが今頃シルフィアにとんでもないことを吹き込んでそうで不安だ。今日はサッサと終わらせて、僕はパットより先に帰るからな」
ああ、いつもの兄になった。
「それはご随意に。俺はイザベルの所に寄って帰るから。あ、到着したみたい」
馬車が停止した気配に扉を開けて身軽に飛び降りれば、後ろから深夜の吹雪のような冷え切った兄が出てきた。
「成る程。では、遠慮なく全力で執務に取り組もうか」
結婚前のような暗く凍った目をした兄に周囲の人々がヒッと体を強張らせた。
「あ、兄上。こないだ城で新作のお菓子が出てね、とても美味しかったからお土産に持って帰ったら義姉上が喜ぶと思うよ」
吹雪を撒き散らしている背に声を掛ければ、パッと兄が振り向いた。
「分かった、頼んでおく。ありがとう、パット」
喜ぶ義姉を思い浮かべたのか、兄は周りに花が舞っているような幸せそうな顔になった。行き交う人がその変化に驚いて棒立ちになっている。多分、皆、こんなふわふわの兄を見るのは初めてだろう。腰を抜かしている人まで視界の端に見えた。
そういえば、義姉は優しい方の兄ばかりで凍った方を知らないのでは。まあ、世の中には知らないほうがいいこともあるよね・・・。
■■
・・・なんて、お可愛らしいの!
女子会と称したお茶会で、大きな椅子にクッションを乗せて、その上にちょこんと座った義姉をうっとりと見詰める。覚えたてのマナーを気にしているのか、時々動きを止めて考えてから手を動かす様にも心がキュンと跳ねる。
家族以外には冷酷無情な長兄が帝国で愛する人を見つけて結婚したと父から聞いた時、まず頭をよぎったのは偽装か騙されているのか、ということだった。
だけど、既に自分から爵位に合った人なら誰でもいいと父の側近に妻選びを放り投げていたのにわざわざ偽装する必要はないはず。それなら騙されているのかと思ったが、あの長兄に限ってそれはない。ということは、本当に愛する人を見つけたのだろうと考えた途端、相手への興味が沸き立った。
あのテオ兄様が、本ではなくて人間の女性に恋をした?!
時折届く長兄やフリッツ達の手紙から窺い知れるのは断片のみで、もちろん悪いことなど全く書いていない。皆揃って頑張りやで可愛いということばかりで、どんな容姿なのか性格は穏やかなのか苛烈なのか、さっぱりわからなかった。
父や母に聞いても会ってのお楽しみと言うばかりで教えてくれなかったので、そんな得体のしれない相手と息子が勝手に結婚してもいいのかと文句を言えば、二人とも『テオが選んだ相手だから』と頷くだけだった。
半年以上もそんな状態で放置され、募りに募った結婚相手への想いが会った途端、あんなふうに暴発するとは自分でも思っていなかった。だけど、見た瞬間にその予想以上の可愛らしさに理性が飛んでいってしまったのだ。まさかの人選だった。
母がいつものように穏やかに義姉から聞き出した話によると、彼女は生まれた時からまともに養育されず酷く虐待されて育ったらしい。結婚するまで自分の名も知らず文字の読み書きもできなかったというのは想像を絶していて、恵まれすぎている私は押し黙るしかなかった。
多分、母はその辺りのことは聞いていたのではないかと思う。だからというわけではないのだろうが、母が彼女へかける言葉は随分と優しくて、所々、体験者の共感が感じられた。それで、もしかして母も同じような経験があるのではと思い至った。
そういえば、侯爵令嬢だったという母の実家は存在しないし、母方の祖父母にも会ったことがない。
義姉も何か感じ取ったのか母へ心を開いたように見えた。さらに母の趣味の手作りのぬいぐるみを渡されると、緊張で固くなっていた表情が解けて時折笑顔を見せるようになった。
次は私に慣れてもらう番だわ! そして、あの笑顔を私にも向けて欲しい!
私は母を見習って穏やかにお淑やかに怖がらせないよう、ありとあらゆる欲望を抑え込み彼女へ話しかけた。頭の中はどうすれば信頼が勝ち取れるかと高速で回転していたが。
「お義姉様、今度私と一緒にそのぬいぐるみのウサギの服を買いに行きませんか? 近くにぬいぐるみ用の小物を扱う店があるのです」
「ぬいぐるみのお洋服ですか?」
「はい、カバンやスカーフなどもありまして、色々好きな物を合わせられるのです。テオ兄様っぽい雰囲気にすることもできるのですよ」
「このウサギさんがテオ様みたいに?! そういえば、灰色で目が薄青ですね」
まだ慣れないのか、テオ様呼びが時々混ざるところも可愛い。さらに両手でぬいぐるみを顔の高さまで持ち上げて首を傾げて眺める様子がまた可愛らしすぎて、つい抱きしめたいと腰を浮かせばそっと母に押さえられた。
「そうなの。そのウサギはテオの色なのよ。せっかくだから貴方の色のウサギも作りたいのだけどいいかしら?」
私の背に手を添えたまま母が義姉に尋ねれば、彼女の目が輝いた。
「私もぬいぐるみになれるのですか?! すごい、よろしくお願いします!・・・ええと、ディー、今度ぬいぐるみの小物のお店に連れて行ってください」
「ええ、是非! 明日、いえ今から行きましょう!」
ついにガタンと椅子をふっ飛ばして立ち上がった私の前から義姉の姿が消えた。
目線を上げれば、見慣れた長身の男が義姉を抱き上げてこちらを睨んでいた。
「あら、女子会に乱入なんてマナー違反よ、テオ兄様」
「何言ってるの、妻を守るのは夫の務めだよ」
「テオ様?! じゃない、テオ、もうお城のお仕事が終わったのですか?」
「うん、フィーアに会いたくて全力で終わらせてきたから出かけるなら僕と行こう?」
甘い顔で義姉にねだるように言う兄に、私の対抗心が火を吹いた。
「残念、お義姉様は私と行くって約束したところよ。兄様は明日もお城でしょ、お義姉様は私が責任持って案内するから安心して」
「絶対駄目。初めてフィーアと街に行くのは僕!」
譲らない兄と私が睨み合おうとしたその時、母が手を叩いた。
「二人とも、シルフィアの意見を聞いてないわよ。シルフィア、よければ貴方のぬいぐるみが出来てから四人で行かない? テオのウサギとお揃いの小物を持たせるのも楽しいわよ」
「テオ、とお揃い! 私、そうしたいです。テオ、ディー、いいでしょうか?」
サラリと新たな選択肢を示して義姉を一本釣りした母がにっこりと笑い、長兄と私は白旗を上げた。
その後、長兄と二人で母に呼び出され、『来たばかりのシルフィアをあちこち連れ回したら疲れさせるだけよ。パットの結婚式が終わるまでは街に行くのは控えたほうがいいわ』と窘められた。
母には逆らえない。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
弟妹から見た兄夫妻。




