6 精霊の愛し子
「お待たせ、リリス。マリオン」
それからしばらくするとアマリリスとマリオンから離れて友人たちに挨拶をしていたエリックが戻ってきた。将来公爵家を継ぐ兄は氷の貴公子と呼ばれている父そっくりのとっつきにくそうな見かけに反し意外と社交的だ。
「兄様。そろそろ順番だよ」
「早いな」
「だって精霊師に手をかざしてもらうだけだしね」
マリオンの言葉に、アマリリスはなぜマリアベルが精霊神の加護を授けられなかったのかを考えた。
本来ならマリアベルが精霊師からの祝福を受けた際、精霊神からの加護を賜るはずだったのだが、それは起こらなかった。もしかしたらそれはアマリリスが未来を変えたせいではないだろうか。
アマリリスが十歳のとき、王家から婚約の打診があった。
夢の中では幼い頃としか言っていなかったため、何歳のときに打診があるかはわからなかったのだが、前世の記憶を思い出した翌日には、アマリリスは父に王家からの婚約の打診があっても絶対に断ってくれと念を押していた。
最初はとりあってくれなかった父も、その日からアマリリスの我儘が鳴りを潜め性格も行動も良い方向へ変わったことを受けて、王家からの打診があってもアマリリスの承諾なく勝手に受けることはしないと約束してくれたのだ。
そんなわけで、今のこの世界はアマリリスが夢で見た乙女ゲームの世界とは多少異なっている。
アマリリスも自分の将来がかかっていたため必死だったのだが、精霊神からの加護を受ける者がいなくなるのは、一国民としてはちょっと残念な気もするのだ。
「リリス。行くぞ」
考え事をしている間に、いつのまにか自分たちの番になっていた。
アマリリスは、エリックとマリオンに挟まれ、精霊師であるダグラスの前へと進む。そこで一度カーテシーをしてから、ゆっくりとしゃがみこんだ。エリックとマリオンも片膝を立て、それぞれがしゃがみこむ。
ダグラスの明朗とした声がアマリリスたちの頭上に降り注いだ。少しだけ低い甘めの声は、振動となってアマリリスの体を通過した。
まるで歌を歌っているかのようなリズムの心地よさにアマリリスは夢見心地でうつらうつらとし始める。
アマリリスが、今にも寝てしまいそうなことに危機感を抱いたその瞬間、ダグラスの声とは違う、琴の弦をつま弾いたような心震える音が耳だけではなく身体中に届いた。
音、と思ったそれが声だとわかったのは、その音が表す意味を頭が理解したときだった。
『我が愛し子よ。何を望む』
――我が、愛し子。
それは精霊神がマリアベルに投げかけるはずだった言葉。
アマリリスは己の身に起こったあまりの事態に、ただただ下を向き震えたまま、時が過ぎさるのを待った。
『我が愛し子よ。何を恐れる』
(恐れる? そりゃそうでしょ!)
アマリリスが恐れるもの、それは精霊神だ。
精霊神はいわゆる隠れ攻略対象というやつ(まあガイドブックには載っていたようなので実際には隠れてはいないのだが)で、主人公がこのルートに行くとマリアベルは最後には存在を抹消されてしまうのだ。
それはアマリリスが、なるべく考えないようにしていたことだった。必死に現状を改めようと思ったのは、何よりもこのルートが怖かったからだ。
ほかの攻略対象のルートでは、悲惨な目にはあっても死にはしない。だが、精霊神のルートだけは違う。心も、体も、魂でさえも。アマリリスという存在自体が抹消されてしまうのだ。
人知を超えた存在に抗う術など、アマリリスは知らない。だから、せめてそこまで精霊神を怒らせるような人間になるのだけはやめようと、今まで努力してきたのだ。
今、アマリリスの目の前にはおそらく精霊神がいる。なぜアマリリスの時に姿を現したのかはわからない。なぜアマリリスのことを愛し子と呼ぶのかもわからない。
『愛し子よ。面を上げよ』
ただ、今この時を乗り切らなければこれから先の未来など到底望めないのだということだけは、アマリリスにもわかった。
ゆっくりと息を吐きだしてから、アマリリスは目を瞑ったまま顔を上げた。相変わらず、アマリリスの身体は震えている。
首をめいいっぱい上に向け、アマリリスは意を決して目を開けた。
そして目を開けた先には――この世のものとは思えぬ程の美貌を持つ、存在がいた。
『我が愛し子よ。ようやく会えた』
その人外の美貌に微笑まれ、アマリリスは意識が遠のくのを感じた。
(会えた? 何で?)
理由がわからぬから余計に怖い。そもそも精霊神は声だけの存在で最後の最後、しかも隠しルートに突入した時だけ姿を現す仕様だったはず。なぜ、今、目の前に存在しているのだ。
涙目になったアマリリスの体が、ふと軽くなった。と同時に視線がいきなり高くなった。
抱き上げられたのだと気づいた時には、もう遅かった。人外の顔が、己の顔のすぐ近くにあった。己を見つめる比類なき紫の瞳は、虹彩が銀色に輝いている。
「嘘よっ。何でそんな女がっ」
見入られたように紫の瞳を見つめていたアマリリスは、聞き覚えのある声に我に返った。
あれはマリアベルの声だ。声のした方を見ると、マリアベルが先ほどのエスコート役の令息に抱えられてこちらを見ていた。正面から見たマリアベルはまさしく夢の中で見た主人公そのものだった。
さらさらとした真っ直ぐな撫子色の髪に、緑がかった銀色の瞳。まごうことなき美少女だ。アマリリスが見とれていると、すぐそばで身の凍るような声が聞こえた。
『黙れ、娘。我が愛し子を愚弄するか』
精霊神が言い放った瞬間、マリアベルの顔色が真っ青になった。アマリリスには身が縮む程度に聞こえたが、周りの者にとっては、それは死の宣告にも近い、絶対的な恐怖を与えるものだったようだ。よく見ればマリアベルと同じような顔色の者が多々見受けられる。
アマリリスは今更ながら、多くの者が、陛下でさえも膝をつき頭を垂れていることに気が付いた。そんな中で立ち上がり、意見を(?)を言ったマリアベルはさすが主人公と言ったところだろうか。
あるいは、自分が受けるはずだった寵愛を他の者に取られるのを、黙ってみていることが出来なかったのか。だが、どちらにしろ悪手だったことに変わりはない。
『我が愛し子よ。そなたが望むのなら、今すぐあれを消してやろう』
「大丈夫ですっ! 全然大丈夫です! お気になさらず!」
あれとはきっとマリアベルのことだろう。さすがにそれはあんまりだ。アマリリスでさえ、消されたのは愛し子であるマリアベルを罠にかけ傷つけるという大層な事をしでかした後だったのだ。さすがに吠えただけで消されるのはあんまりだ。
「あの、精霊神様はなぜ私の前に……」
一度大きな声をだしたからか、アマリリスの体から緊張が取れた。そのため思ったよりも冷静に、精霊神に相対することが出来た。
『ずっと、そなたを見ていた。そなたが池に落ちたあの時から』
「えっ、あの時?」
『そうだ。お前が落ちたあの池で青い魚が泳いでいただろう? あれは我だ』
「……え………ええっ?」
確かにあの時アマリリスが池に落ちた原因は、池に泳ぐ綺麗な魚を見つけ、それをもっと近くでみたいと思ったからだ。それは間違いない。ないのだが。この世の全精霊を統べる精霊神がそこらへんの池にいていいのか、とも思う。
しかも魚。確かにこの世のものとも思えぬ程に綺麗だったが、でも魚。
「あの時の……魚が……精霊神様?」
『ああ。少し下界に降りて遊んでいたのだ。美しい池を見つけたゆえな』
確かに、あの侯爵家の庭園も池も素晴らしかった。精霊神をおびき寄せるほどに。
フォーチュン侯爵家は、いや、庭園の管理は庭師の仕事。あの時アマリリスを助けてくれた庭師は誇っていい。だが、しかし。
「池に落ちたんだ……」
誰かがぽつりと囁いた言葉に、アマリリスは己の頬が一瞬で熱くなるのを感じた。言っちゃった……精霊神様。バレちゃった……私の黒歴史。
これは悶絶級の恥ずかしさだ。あれから良家のご令嬢の在り方を勉強し直したアマリリスには、あの時のことがどれだけ恥ずかしいことかもうわかっている。穴が合ったら入りたいとは正にこのことだ。だが、同時に開き直っている自分もいた。池に落ちたぐらいなんだと言うのだ。肥溜めに落ちるよりは数段マシだ。
『あの時のそなたの好奇心に満ちた目が忘れられなかった』
夢の中でそんな設定はなかったはずなのだが、しょせんアマリリスの知識は前世の妹からの又聞き情報だ。そんな裏設定もあったのかも知れない。
『愛し子よ。そなたに我の加護を与えよう。そなたが望むなら、この世界すら』
「大丈夫ですっ! 間に合ってます!」
世界征服は男の子が見る夢だ。アマリリスの心には響かない。ややあってアマリリスは豊かな自分の胸に手を当て考える……うん。大丈夫。響かない。
『愛し子よ。アマリリスよ。そなたに我の名を』
精霊神は抱き上げたままのアマリリスに更に顔を寄せた。その拍子に虹色の光が散る真珠色の髪がアマリリスの頬にかかる。耳元で囁かれたその名は、初めて聞く不思議な響きだった。アマリリスは復唱しようとその名を口にしてみたが、どうにも上手く発音出来ない。
『呼びにくいなら、そなたの好きに呼べば良い』
アマリリスは考えた。出来るだけ、本名を思い起こさせるものがいい。
「……じゃあ、リトゥ、はどうでしょう?」
『それで良い』
精霊神がアマリリスを見て微笑んだ。恐ろしいほどに顔が良い。ぜひにミリアに見せたかった。
『愛し子よ。そなたに仇成す者は、我の敵。よく覚えておけ』
最後の一言は、アマリリスに向けて言ったものではない。その発言こそが敵をつりそうだな、なんてアマリリスは思ったが、もちろん口にしない。アマリリスは出来る子だ。ミリアに鍛えられたのだ。
ゆっくりとアマリリスを降ろし、精霊神は消えた。精霊神の消えた先をぼけっと眺めていたアマリリスは突然後ろから抱きしめられ驚愕した。
「ひえっ!」
「リリスっ! 良かった。お前が連れていかれるかと思った」
エリックがアマリリスを後ろから抱きしめていた。あまり褒められた行為ではないが、冷静なエリックがそれだけ取り乱してしまうような状況だったのだろう。
「姉さまっ!」
今度はマリオンが抱き着いてきた。きっと今のアマリリスの姿は、兄弟に埋もれて周囲から見えなくなってしまっているだろう。兄弟の身体の隙間から周囲を伺い見れば、皆の目が一斉にこちらを見ていた。
驚愕、恐怖、欲望、嫉妬、様々な感情の入り乱れる視線だ。特に、嫉妬。
この視線には覚えがある。先ほどからずっと、アマリリスが感じていたものだ。その視線の持ち主にも、残念ながらアマリリスは思い至ってしまっている。
自分が受けるはずの加護を敵であるはずのアマリリスに取られた人物、この物語の主人公であるマリアベルだ。
なんて厄介なことになったのだろうとアマリリスは嘆いた。ゲームは今日この日、デビュタントから始まる。自分が主人公に成り代わろうなどと、アマリリスは思ったことなどない。しかし結果的にはそうなってしまった。それをマリアベルにどう取られるかが問題だ。
しかもマリアベルはアマリリスと同じ、前世の記憶があるようだ。それがどの程度のものかはわからない。アマリリスのように単なる過去の記憶、というより録画された映像記録を見せられたかのような不完全なものか、それとも完全に前世の人格に戻ってしまっているのか。もしそうだとすれば、マリアベルはこの世界に対して、かなりのアドバンテージを持っていることになる。
アマリリスとしては勝ち負けを競う気はない。どうすれば勝ちで、どうすれば負けなのかもわからない。だが、乙女ゲームによるとマリアベルがどの攻略対象とくっついてもアマリリスには結局地獄しか待っていないのだ。
前世のことを思い出したからこそ、すべての結末が地獄とは思わなくなったが、それでもアマリリスにとって分が悪いことには変わらない。
エリックとマリオンがアマリリスの敵になることはもうないだろう。だが、他の攻略対象とは、今日まで全く接触がない。マリアベルが前世の記憶を持っているとすると、すでに攻略対象に接触している可能性もある。
これはミリアと作戦を練り直さなくてはいけないだろう。これからの事を思うと自然と気が滅入る。アマリリスは知らずため息をついていた。