20 庭師
「大丈夫かしら? ユルグム」
「精霊神と契約しているのですよ? これでやられたら二度とうちの敷居は跨がせません」
「厳しいわねミリア。もうちょっと優しくしてあげられない?」
「お嬢様……! あの山男を庇うのですか⁉」
「その小芝居飽きたわ」
「一度しか付き合ってくれなかったではないですか……」
「はっはっは。お二人は仲が良いですねい。よきことよきこと」
朗らかに笑うグレアムの後ろには白薔薇が見える。幻覚ではない。今三人は温室の薔薇園の中に隠れているのだ。
「あらやだ……わたくしったら」
頬を染めて恥じらうミリアの後ろには紅薔薇が咲いている。まるで悪夢でも見ているようだ。
(まさか……ミリア本気?)
さすがにグレアムとでは年が離れすぎてはいないだろうか。グレアムの実際の年齢は知らないが、少なくとも六十は超えているように見える。対するミリアは二十四。グレアムが六十だとしても三十六歳差だ。
(三十六歳差……)
五十も年上の男の後妻になる未来もあったアマリリスからすれば、大したことではないように思えてしまうから怖い。さてどうしたものかとうんうんうなるアマリリスに、グレアムが唇に人差し指をかざす仕草を見せる。
「……お二人とも、お静かにしてくだせい。誰かが来たようですぜい」
グレアムの言葉に、アマリリスとミリアは身を寄せ合う。しかし薔薇をかき分け現われたのはユルグムだった。
「ユルグム! よかっ……」
「お嬢様!」
ユルグムに駆け寄ろうとしたアマリリスはミリアに止められた。止められたことでアマリリスはユルグムの赤い瞳が光をなくしていることに気づく。
「山男……このロリコンが!」
ちなみにロリコンという言葉もアマリリスがミリアに教えた。まさか使う日が訪れるとは思いもしなかったが。
「ユルグム……やられちゃったのね……」
「あいや……」
「精霊神は何をやっているのです! ユルグムがまんまとあの小娘に篭絡されるのを黙ってみていたというのですか⁉」
『仕方がないのだ。我はあの娘に近づきたくなかった』
ミリアの雄叫びに応えるように、突然精霊神の姿が現われた。
「精霊神様!」
「おったまげたない」
「あのような小娘ちょちょいのちょいとヤってしまえばよろしいではないですか!」
『あの娘の使う力は自然の理から外れたもの。我の力とは相性が悪い』
「殺せないと?」
『いいや。だがそなたとてゴキブリを殺すのは嫌であろう』
精霊神は眉を下げいささか悲しげだ。ミミズは食べるのにゴキブリはだめなのか。そうなのか……。というかゴキブリって。
「ゴキ……」
「む……わたくしもゴキは苦手です」
思わぬところでミリアの弱点を知ったアマリリスだった。
「儂は平気だいな」
「……いえちょっと、やっぱさすがに酷くない⁉ ゴキブリって!」
ゴキブリとはいくら何でもあんまりだ。そして実はアマリリスはゴキブリだろうがミミズだろうが平気でつかめる。だがゴキブリが世間一般では嫌われ者、邪魔者、厄介者、はみ出し者だというくらいの見識はあった。少し言い過ぎた。
「いいえ、お嬢様。お嬢様に仇なす者はすべて虫けらです」
「虫けら……」
「アマリリス……」
ふらふらと揺れながらその場に立っていただけだったユルグムが、アマリリスの名を呼んだ。
「あ! ユルグムのこと忘れてたわ……というか虫けらの後に続けて私の名前呼ばないで!」
叫んだアマリリスの腕をユルグムが引き寄せる。引き寄せられた拍子につまずいたアマリリスはユルグムの胸に自ら飛び込んでしまった。
「ひえ!」
(殺される⁉)
「山男!」
(殺されるの? 私。 精霊神様いるのに⁉ 精霊神の加護って意味ある?)
目に涙を浮かべるアマリリスの顔に影が差す。ユルグムの顔が覆いかぶさっているのだとアマリリスが気づいたときには、すでにアマリリスの唇はユルグムの唇によって塞がれていた。
(……え? え? えええ?)
わけもわからず固まるアマリリスに、唇を押し付けたままユルグムが囁いた。唇に吐息がかかり非常にくすぐったい。
「……口を開けろ、アマリリス」
「ユル……」
ユルグムの名を呼ぼうと開いたアマリリスの唇は、またしてもユルグムの唇によって塞がれる。
「この山男っ……むが!」
変な声をあげたミリアを心配してアマリリスが横目で見てみると、なんと精霊神によって口を塞がれていた。
(ええっ……! 精霊神様助けてくれないの⁉ 愛し子が襲われているのにいいの⁉)
精霊神の助けもミリアの助けもなぜか両手で自分の目を隠しているグレアムの助けも期待できないことを悟り、アマリリスは絶望する。しかしふと、殺されることを思えばキスくらいは許容すべきかもしれないという考えがよぎり、アマリリスは抵抗することをやめた。
(そうよ! キスくらい山犬に噛まれたと思えば大丈夫よ!)
アマリリスは目を瞑り無我の境地を試みる。だが無理だった。だいたい山犬に唇を噛まれたら死んでしまう。
仕方ないから今己の唇に触れているものは、別の何かだと考えてみる。今唇に触れているのはシイタケ。あるいはナマコ。あるいはナメク……これは想像してはいけない。えずきそうになったアマリリスは必至で堪えた。ここで吐くのはさすがにユルグムが可哀想すぎる。そしてきっとアマリリスにもダメージが残るだろう。
アマリリスが気を逸らすために色々と考えていると、ユルグムが突然アマリリスから唇を離した。ようやく終わったのかとアマリリスが安堵したのも束の間、ユルグムは今度は何故かアマリリスを抱え上げ、また口づけを再開した。今度はアマリリスがユルグムの顔に覆いかぶさる格好だ。
「……む。むう。うむ」
さすがに長すぎるとアマリリスが手を突っ張り脚をばたつかせてもがくが、文字通り首根っこを掴まれているため離れようとしても離れることができない。
(……とんでもない辱めよ!)
この場にはミリアにグレアムに精霊神がいる。グレアムは見ないようにしてくれているが、人前での口づけなど淑女のすることではない。しかも婚約者どころか恋人ですらない男とだ。
(というか、ミリアは仕方ないにしても精霊神様とグレアムさんは何で助けないのよ!)
どれだけそうしていたのか、ユルグムがおもむろにアマリリスから唇を離した。
「……解けたな」
「……何がよ!」
「魅了だ。魔女に魅了をかけられていた」
「むぐ……ぷは! ……このロリコン山男! 魔女に触れた唇でお嬢様に触れるなど神が許してもこのわたくしが許しませんよ!」
精霊神の手を振り払ったミリアが、ユルグムに吼えた。その手が太ももに伸ばされているのを見たアマリリスはあわててミリアをとめる。
「ミリア! ミリア、大丈夫よ! ナメクジに這われたと思えば大丈夫!」
本当は全然大丈夫ではない。乙女心はズタズタだ。公開処刑だ。
「……触れてない。血を飲まされただけだ」
そうは言いながらもユルグムはミリアから視線を逸らしている。何か後ろめたいことがあるに違いない。というか今すぐ謝れ。
「血を? 血でも効果はあるの?」
「体液という括りならば、むしろ唾液よりも血液の方が媒体としては優秀だ。俺も意識を保つので精いっぱいだった」
「それでなぜお嬢様に口づけるのです! 返答によってはこの伝説の呪具で撃ち抜きますよ!」
『アマリリスの体液ならば、魔女の魅了を解けるからだ』
ミリアの問いに、ユルグムの代わりに精霊神が答えた。
「私の? 何で……」
『そなたと魔女は同じく自然の理から外れた者。魔女となった者とならなかった者。相反するもの同士力を打ち消し合う』
「私が……ユウカと同じ」
アマリリスの身体から力が抜ける。やはり自分はあのユウカと同じなのだろうかと半ば絶望していると、ユルグムがすぐさま否定の言葉を口にした。
「違う。いいかアマリリス。お前はあの魔女とは違う。絶対、何があってもだ」
ユルグムがめずらしくも真剣な表情でアマリリスを見つめる。光が射しこむ赤い瞳は、ゆらめく炎のように美しい。
「ユルグム……」
「山男! いいかげんにお嬢様を降ろしなさい!」
ミリアがユルグムに向かって拳を振り上げる。しかしユルグムは今アマリリスを抱いているため、振り下ろす先を見失っている。ミリアはそのまま振り上げた拳を中空でぷるぷると震わせていた。
「降ろすのはいいが……立てるか?」
「え?」
ユルグムがゆっくりとアマリリスを地面に降ろす。ようやく足が地面についたと安心したのもつかの間、アマリリスはそのままへたりと地面に座り込んでしまった。身体中に力が入らない。
「え? あれ?」
安堵のためか、アマリリスの全身からは力が抜けていた。
「く……山男め」
『どうするユルグム。魔女にアマリリスを殺してこいと言われたのだろう』
「殺したふりをする。あっちはどうなっている」
『うむ。ルークとか言う精霊師はそなたや精霊を奪ったもう一人には及ばぬが、なかなか手強い。向こうは膠着状態だ』
「魔女の魅了は他の者には?」
『そなたにしたように血を凝固して飲ませれば幾人であろうと魅了できるな。まあ、今のところそれをするつもりはないようだが』
「ルークの隙を見て殺すしかないか。おい。あいつは殺せるんだろうな」
『我の力で滅せられぬものなどない』
「待って! ねえ、やっぱり殺すしかないの?」
物騒な会話を繰り広げる精霊神とユルグム。だがやはりアマリリスの心は決まらない。
『殺さぬなら飼殺すしかないな。だがそれも地獄の苦しみだ』
「でもユウカは……元は私と同じと言ったじゃない……」
このままではアマリリスは同郷の者を見殺しにすることになってしまう。確かにユウカのしていることは容認できることではないが、改心する機会ぐらいは与えてもいいのではないだろうか。
『だが今のあれはすでに魔女という邪悪な存在になり果てている。傍目にはそうは見えずとも存在のあり様が歪み、捻じれているのだ』
「アマリリス。お前が思い悩む必要はないし。お前が責任を感じる必要もない」
「お嬢さま、花を護るためには花につく虫は殺すしかねえだいな」
「お嬢様のお気持ちはわかります。わたくしも無益な殺生は好みません。しかしお嬢様を護るためならば、わたくしはたとえ誰が相手であろうとこの手でその命を奪うことに躊躇はしません。もし躊躇った末にお嬢様を失うようなことにでもなれば、わたくしはその先一生自分のことを許すことはできませんし、生きてもいけないでしょう」
「そんな、ミリア……。ミリア、私も……。ミリアを護るためなら命を天秤にかけるわ!」
「お嬢様……」
「ミリア……」
「よし、決まったな」
「仲ええだな。よきことよきこと」
「問題はやっぱりルークだな。あいつは普段おっちょこちょいだが能力は高いんだ。くっそ……魅了になんかかかりやがって」
「山男! 他人のことを言えた義理ですか!」
「俺は意識を保ってここに来たんだよ! 魔女からの命令はアマリリスを殺せだったんだからな!」
「そうだいねい。あれほどの魔女に魅了をかけられてよく意識を保っていられたんべな」
「……あ? あんた……誰だ?」
「山男! グレアムさんに失礼ですよ!」
「こいつの方が山男だろ!」
グレアムさんは意外や意外、筋肉むきむきなのだ。お髭も立派で、確かに今のユルグムよりもよほど山男だ。
『うむ。先達に対し失礼だぞ、ユルグム。グレアムはそなたの二代前の首席精霊師だ』
「……………うえ?」
「…………何だと?」
「…………素敵……」
「三十年も昔のことだいね。今の儂はただの庭師だいね」
「……首席精霊師? あんたが……?」
「そうだいねい。お前さんには到底敵わんがねい」
「……何でここにいるんだよ」
「十年前儂は流しの庭師をしていたんだねい。たまたまここの庭木の剪定を頼まれたときに旦那様に気に入られてねい。それからお世話になっているだよ」
「そうなの⁉」
「流しの庭師……素敵………」
「……なあ、頼みがある。あんたルークの気をひいてくれないか」
「山男! グレアムさんを危険に晒すと言うのですか!」
「ええよ」
「え! グレアムさん⁉」
「グレアムさん! いいの⁉」
「お嬢様のお役に立てるなら、喜んで手伝うよい」
「そんな……グレアムさん」
「大丈夫だいな。ミリアさん。儂に危険は及ばんですよい。このパルにすべて任せておけば大丈夫だいな」
グレアムが青い小鳥の名を呼ぶと、スズメくらいの大きさだったものが、鷹くらいの大きさに変わった。
「その鳥……精霊だったのか?」
『うむ。なかなかに強い精霊だな』
青い鳥は精霊神の周りをバサバサと翼を動かし旋回している。どうやら喜んでいるらしい。
「……少しのあいだ、ルークを魔女から引き離してくれればいい。頼めるか?」
「任せるべな。な、パル」
グレアムからの信頼に応え、パルがくええと猛々しく鳴いた。ちょっと声が可愛くない。小鳥のときはぴいぴい泣いて可愛かったのに。
『む。どうやら向こうからやってきたようだな』
「……くそ! あの短気め」
「あなたが戻るのが遅いからですよ! そもそも口づけが長いんですよ! あんなにねっとりじっくりする必要はあったのですか! 乙女の唇を奪っておいて責任とれるのですか!」
「うあああ! ミリアやめて!」
「しょうがないだろ! あの魅了を無効にするには一定量の体液を取り込まないといけなかったんだよ!」
「うわあああん!」
「二人とも、お嬢様がお可哀想だべな」
グレアムに泣きつくアマリリスの頭を、ごつごつとした無骨な手がなでた。
「「あ」」
「ミリアとユルグムの大馬鹿! 嫌い!」
もう誰も信じられない。とんだ辱めだ。もうこの場で信じられるのはグレアムだけだとアマリリスは嘆く。実はちょっとおじいちゃんのようにアマリリスは思っていた。
「お……お嬢様! そんな……!」
ミリアが目を見開きわなわなと口を動かす。
「……あー、悪かった」
『そろそろここへ来るぞ』
「……ちっ! おいグレアム。さっきの頼むぞ」
「……山男! ……さんをつけないさい、さんを!……」
ミリアが小声で怒鳴るという器用さを披露している間に、ユルグムとグレアムは温室から出て行ってしまった。




