19 魔女と元首席宮廷精霊師
ティアット公爵家の侍女ミリア・ロゼッタは、何があろうとも己の主人であるアマリリス・ティアットと運命をともにすると決めていた。
アマリリスとユルグムの間に赤い光球が現われたときミリアの頭に過ったのは、アマリリスと過ごしたかけがえのない日々だった。もしこのままアマリリスが死んだとしたら、ミリアはきっと精霊神とて許さない。七代末まで祟る所存だ。
ダグラスの出した赤い光球がユルグムが放った黒い光球に抑え込まれたとき、ミリアは心の中でユルグムを褒めたたえた。今まで山男としか呼んでいなかったことをちょびっとだけ申し訳なく思った。
ミリアは茫然とするアマリリスを抱きしめ、後ろに下がらせる。魔女の標的がアマリリスならこの場からは離れた方が良い。
ミリアはグレアムとともにアマリリスを連れ、戦場になろうとしているこの場所から少しでも遠く離れるために駆けだした。
「ダグラス! 首席精霊師ともあろうものがいつまでその魔女の言いなりになっている!」
ダグラスに向かって叫ぶグレンの声にダグラスの眉がわずかに動いた。ユルグムの声は届かなかったようだが、主君であるグレンの声はダグラスに届いたらしい。
「グレン! ほかの精霊師たちが到着したらティアット家の兄弟を魔女から隔離させろ」
ユルグムの言葉を受けてグレンが頷く。宮廷精霊師たちが来るまでにはおそらくあと十分以上はかかる。それまでは仕方ないが、魔女からはできるだけ早く離したほうがいい。
「嫌よ! やっと私のものになったのに!」
魔女がエリックとマリオンの身体に縋りつくように抱き着く。魔女に勢いよく抱き着かれた二人の身体が揺れたが、表情は依然虚ろなままだ。
「魔女よ。過ぎた欲は己の身を亡ぼすぜ」
「何よ! 私が愛し子になればみんな喜んで私のものになるわ!」
緑がかった銀色の神秘的な瞳。撫子色の美しい髪。眉を下げて涙ぐむ魔女は、一見すると儚げな美少女だ。その美少女が涙ぐむ様はとても可憐で労しい。だが魂はどうしようもないほどに醜悪だ。精霊神がそばにいる今、ユルグムには魔女の魂のねじれが手に取るようにわかった。
「だとさ。どうなんだ? あの娘を愛し子にする気はあるのか?」
『馬鹿なことを。我の愛し子はアマリリスだけだ』
ユルグムの問いに答えたのは、中空に現れた精霊神だ。急に現れた精霊神を見て、グレンが言葉をなくし、目を大きく見開いている。
『魔女よ。そなたに恨みはないが、我の契約者がそなたを屠るというのでな。悪く思うな』
「……契約者だと? ユルグム。どういうことだ?」
我に返ったらしいグレンがユルグムを問いただす。しかしユルグムはグレンの疑問を一蹴した。
「その話はあとだ」
「……嘘。嘘。嘘。嘘。……嫌よ! せっかく自由になったのに! 十五年も! マリアベルの中に閉じ込められていたのに! 助けてダグラス!」
魔女の声に応えるように、ダグラスがユルグムと精霊神に向かって片手をあげる。その手の平には赤い光が集約し、やがてダグラスの身長を超えるほどに大きくなった。
『ほう。あやつの精霊はなかなかに強いな。あやつが死んだら我の眷属にしてやろう』
「おい! ダグラスは殺すなよ!」
『む……。面倒な』
「普段仕事しないんだからたまに出て来た時くらいちゃんと働けよ!」
『口が悪いぞ、ユルグム。まったく……アマリリスを見習え』
「余計なお世話だ!」
ダグラスの手から赤い光が放たれると同時に、ユルグムの手からも黒い光が飛び出す。大きさも威力もユルグムの放った光が勝っている。赤い光はみるまに黒い光に飲み込まれた。
『どうする。何度でも攻撃は防げるが、埒が明かないぞ』
「このままダグラスから精霊を引き離す」
黒い光はそのままダグラスに覆いかぶさり、ダグラスの身体を通過して地面に消えて行った。光が通過したあとのダグラスは体全体の力が抜けたかのように、その場に膝を突いた。
『精霊は離せたが魅了の力までは我では解けないぞ』
「そうなのか? あんたに任せれば解けると思っていたが……」
『魔女の使う力は自然の理から外れている』
「それは知っているが……」
『あまりに深く魔女の力を受けた者は魔女を殺しても元には戻らない。この場合はあの精霊師か』
「は? じゃ、どうするんだよ?」
『魔女と同等の力を持つ者ならば魔女の力を無効とすることができる』
「魔女と同等の力? 自然の理から外れた力だろう? それはもうその人物自体が魔女ということになるんじゃないのか?」
『自然の理から外れた力を持つ者がすべて魔女になるわけではない。魔女は悪しき魂を持つ者がなるのだ。悪しき魂を持つ者を我が愛し子にするわけがなかろう』
「……おい。その言い方……もしかしてアマリリスなのか?」
『そうだ。あとは力は弱いがあの侍女もだな』
「あいつら……どうりでおかしいはずだよ。自然の理から外れているんじゃな……しょうがねえか……」
『アマリリスほど純粋な魂を持つ者はそうはいない。あの侍女もまあまあだ』
なぜか満足そうに頷く精霊神を横目に、ユルグムは顎に手をあて思案する。
「……どうすればダグラスを元に戻せる」
『魔女が魅了の力を使う方法と同じ方法をとればいい』
「…………は?」
『あの娘の場合体液を通して対象を魅了しているようだな。ならば同じようにアマリリスの体液を与えれば魅了は解けるはずだ』
「……それ、アマリリスをダグラスに口づけさせろってことか?」
『そうだ』
「おい! 本当だろうなそれ! 間違いでしたじゃ済まねえぞ! ていうか愛し子にそんなことさせていいのかよ!」
『皮膚が触れるだけだ。それにアマリリスに害はない。もしくは血でも大丈夫だ』
「……っ! どのみちあの侍女に殺されそうだ……いやまて、侍女もだろ? 侍女ならどうだ? どうせアマリリスがやると言えば自分がやると言い出すだろうし」
成人を迎えたばかりのアマリリスよりもまだ侍女の方がマシだとユルグムは思っていた。決して山男と呼ばれ続けた日頃の恨みによるものではない。
『あの侍女では力が足りん』
「ああ……くそ!」
『何を悩む。我が愛し子の体液を与えるほどの者か? 放っておけばいいだろう』
「そうもいかないだろ……。魅了にかかったままの者は命を縮める。あれでもダグラスはこの国に必要な人間なんだよ」
「ユルグム……」
グレンの縋るような視線がユルグムに突き刺さる。ユルグムも友人としての二人を知っているからこそ、簡単に切って捨てることはできない。
「決めるのは俺じゃないぞ……」
「わかっている……」
「その前に……魔女をどうにかしなきゃだしな」
ユルグムとグレンの視線が魔女に注がれる。すでに魔女は到着した宮廷精霊師に囲まれていた。その中にティアット家の兄弟の姿は見えない。ちゃんと隔離したらしい。
ユルグムは精霊神から離れ魔女へと近づく。精霊神が近くにいなくとも、契約によって力は引き出せる。
精霊は悪しきものに近づくことを嫌がる。ユルグムの精霊が魔女を厭い逃げ出したように、精霊神とて必要以上に魔女には近づかない。
ダグラスの精霊が魔女のそばにいられたのは、きっとダグラスを護ろうとしたからだろう。そうやってそばにいるうちに、ダグラス同様取り込まれた可能性があった。人間と契約した精霊は人間との間に、精神での繋がりが出来るのだ。
「……嫌。嫌よ。何で……」
ふるふると首を振る魔女が、力なく地面に座り込むダグラスに抱き着く。
「ねえ、ダグラス! 助けて! ねえってば!」
「悪いな魔女。お前がいるとこの国が乱れる」
ユルグムの手が俯く魔女に向かって伸ばされる。この場にアマリリスの姿が見えないことに、ユルグムはほっとしていた。マリアベルの姿をしている魔女を殺すところを、アマリリスには見せたくなかった。
「……魔女じゃないのに……」
マリアベルの姿で魔女が呟いた力ない言葉に、ユルグムが一瞬動きを止めた。その瞬間を狙ったかのように、俯いていた魔女が顔をあげる。魔女は対象に口づけ、体液を摂取させることで魅了をかける。
ユルグムは魔女から離れるため後ろに飛び退いた。そして飛び退く動作をとったことで、目の前、己の口元付近に浮かぶ小さな赤い玉に気づくも対処が遅れた。
たった一瞬の遅れ。その間に小さな赤い玉はユルグムの口内へと飛び込んだ。
「くそ……血か!」
体液は唾液だけではない。精霊神が言っていたように血とて体液になる。むしろ唾液よりも純粋な力の源となりえた。
血液を凝固させ自由に操ることはこの魔女には出来ないだろう。できるとすれば精霊師のみだ。ダグラスの精霊はすでに精霊神の手にあるため、この血液の玉を操っているのは別の人間だ。
「ユルグム! ……くそ」
グレンが声をあげたが、その身体はまるでその場に縫い留められたかのように微動だにしていない。
「ふふ……。良かった別の精霊師も魅了しておいて」
魔女が顔をあげ、ユルグムに向かってにやりと微笑む。
「お前……」
「ロットの方が好みだったけど……精霊の力はやっぱりルークの方が強いものね。それにわたしが面食いだってことはさすがにもうバレてるだろうし」
宮廷精霊士であるルークは次席、ロットは三席だ。確かにルークの方が精霊師としての腕も才能も上だ。
魔女の言葉を聞いた瞬間、宮廷精霊師とともにこの場に来ていたアルフォンスがルークを制圧しようと襲い掛かる。しかしルークは精霊の力を使い地面をすべるように移動し、アルフォンスから逃れた。そしてそのまま魔女のそばへとやってくる。
己の背後を護るように立つルークの首に、魔女が腕を回した。
「は……残念だったな。まだバレてなかったぜ」
強く、急激にかけられた魅了の力に抗うのは苦痛を伴う。ユルグムは痛む頭を押さえ片膝をついた。
「え? 嘘! 何よ~だったらロットにしとけば良かった~。まあ、いいや。王宮に戻ったらロットも魅了しちゃおう。ふふ……その前に」
「あなたも精霊師なのね。しかも精霊神と契約しているなんて……あなたもバグなのかしら? ねえ、名前は何て言うの?」
魔女がかがみこむユルグムの前に膝を突き、上目遣いで顔を覗き込んでくる。ユルグムの顔からははあまりの苦痛に汗がにじみ出ていた。
睨むユルグムの視線を受けた魔女がユルグムを見て嬉しそうに笑った。
「綺麗……ルビーみたいな瞳ね。いえ、スピネルかしら? ねえ、名前を教えて?」
「……ユルグム・サリ……」
抗わなくてはと思うのに、口からは勝手に己の名が出てしまう。
「ん~。どこかで聞いたことがあるような……。ん~? 精霊師……。あれ? もしかしてダグラスの前の首席精霊師? 何だ、ゲームには出てこないじゃない。こんな美形なら攻略対象に入れてくれてもいいのに~もう!」
魔女は頬を膨らませて怒っている。しかしすぐに笑顔に戻ると、またユルグムに視線を合わせた。
「精霊神と契約しているのに私に負けちゃったね?」
首を傾げ笑う魔女は、可愛らしくもおぞましい。しかし視線を逸らしたくも自分の意思ではどうにもならない。
「……そうだな。大した魔女だ。だがまあ、俺が弱かったってだけだ。お前じゃ精霊神に勝てねえよ」
「ふうん。そうなの。じゃあ、あそこにいる精霊神呼んでよ。魅了してみるから」
「……呼んだって来ねーよ。お前に近づくのは嫌だってさ」
「ええ? 失礼ね! ん~やっぱりアマリリスを殺さなくちゃ駄目なのかしら?」
何気なく呟かれた魔女の言葉に、ユルグムの心臓が跳ねる。
「……おい!」
「……なあに? 目の色変えちゃって。そうね……ルークにヤラせようと思ってたけど……あなたでいいわ。ねえ……アマリリスを殺してよ」
「……本当に愛し子を殺せると思っているのか? 精霊神の加護がついているんだぞ」
「やってみなくちゃわからないじゃない。それに精霊神はずっとあそこにいて動いていないわ」
魔女は何の問題もないとでも言うようににこやかに笑っている。正直にいえば自然の理から外れているという魔女の力が、精霊神の力で抑えられるのかはわからなかった。自然の理から外れるということは、自然そのものである精霊の理からも外れるということになるのだから。
実際、ユルグムが今耐えている魔女の魅了の力は、精霊が及ぼす作用とはまったく異なる未知の感覚だ。頭の中や内臓をかき混ぜられているような不快感と恐怖が、早く魔女に屈服しろとユルグムを急かしてくる。
精霊神もユルグムの今の状態に気づいてはいるが、助けに入るつもりはないらしい。契約をしているとはいえ、ユルグムは精霊神の愛し子ではない。精霊神は精霊とは違い、基本人間には関わらない。
成り行きで契約をするに至ったが、たとえこのままユルグムが死のうと、精霊神にとっては道端の蟻が死ぬことと同じ程度の意味しか持たないだろう。
「ねえ……アマリリスを殺して? ね?」
繰り返される魔女からの願いにユルグムは歯を食いしばる。そして諦めたように瞼を閉じ、またゆっくりと上げた。
「ふふ……いいこね。さあ、アマリリスを殺してきて? ああでも、どうしようかな……。そのせいでもしあなたが死んじゃったら嫌だし……やっぱルークに行かせようかな?」
魔女は己の後ろに立つルークを見つめる。
「……俺が行く。精霊神の加護を持つ娘だ。ルークでは無駄死にだ」
「そう? じゃあ死なないでね? 絶対わたしのところに帰ってきてね?」
魔女がユルグムに向かって背伸びをする。軽く触れるだけの口づけは、魅了の発動条件を満たしていない。すでに重ねがけの必要がないほどに魔女の魅了は完成されているのだ。
「……続きは帰ってきてからね」
微笑む魔女に、ユルグムもまた微笑みを返した。




