10 魅了
本来ならば、首席精霊師であるユルグムの意見を尊重するのだろうが、相手がダグラスであるという事実がそれを阻んだ。
ダグラスもユルグムも歴代きっての才能の持ち主だったが、わずかにダグラスの契約している精霊の方が力が強かった。
最年少で宮廷精霊師となった長年の経験を有するユルグムの意見に従うか、宮廷精霊士となって日は浅いが、若いながらも力の強い精霊を持つダグラスの意見に従うか陛下も悩んでいた。しばし時間が欲しいとマリアベルに告げ、その日はそれで家に帰した。
陛下と全宮廷精霊師と宰相とでマリアベルの扱いをどうするかで議論を繰り返しているうちに、突然ユルグムが辞職を願い出た。理由は驚くべきことに、契約した精霊がいなくなったからというものだった。
稀にではあるが、精霊師が契約した精霊に逃げられるということはある。それはその精霊師が精霊から嫌われた、あるいは見限られた場合がほとんどだ。
首席精霊師である以上、契約した精霊に逃げられるなど失態以外の何物でもない、どうか辞めさせてほしいという申し出だった。ほかの精霊師も陛下もユルグムの進退を引き留めたが、ユルグムの意思は固かった。
ユルグムが去った後は精霊の力も本人の才能も申し分なかったことから、ダグラスがユルグムの後を継ぐことになった。
保留としていたマリアベルの扱いも、精霊神の愛し子候補という形に落ち着いた。人間が精霊神と交信できるのは、年に一回、そして女性であるマリアベルが精霊神に祝福を授かれるのはデビュタントの時のみであるため、すぐに判定することは出来なかった。だがどのみち二年後にはその真偽もはっきりする。
その後マリアベルは愛し子候補として王宮に出入りするようになった。その時は主にダグラスが面倒を見ていたため、二人一緒の姿を見ることが徐々に増えていった。
愛らしい容姿のマリアベルは、王宮に出入りする令息を中心に精霊神の愛し子として信望を集めていった。そしていつしかその輪の中に第二王子であるアンリの姿を見かけるようになるのに、そう時間はかからなかった。
「ダグラスのあの傾倒ぶり、本来のあいつの性格からしたら考えられんな」
それはダグラスに限ったことではなく、アンリにしても同じことが言えた。
マリアベルに対する二人の傾倒ぶりは、いつしか周囲に危ぶまれるほどになった。二人はマリアベルが愛し子であることを信じて疑わず、特にダグラスに至っては自分の精霊にマリアベルの守護をさせるほどだった。
もともと精霊は自分の契約者以外を護ろうとはしない。そんな気まぐれな精霊がマリアベルの守護を容認した。そのことも、マリアベルが本物の愛し子であるという意見を後押しした。
「ですね。あの唐変木が、マリアベル嬢に対しては甲斐甲斐しいったらないですよ。精霊までも守護しているんですよね? 人間と精霊揃って何やってるんだか」
「魅了の能力……か。もしそれが、人間だけでなく、精霊にも効くものだとしたらどうだ?」
「……そんなこと……ありえますかね? だって精霊になんかできる人間なんて聞いたことないですよ」
「……そうだな。そこらへん、あの男に聞いてみるか」
「あの男?」
「きっと二年前から、この事態を見抜いていただろう男だ」
「まさか?」
きっと今アルフォンスの脳裏には一人の男の姿が浮かんでいるだろう。精霊師の最高峰にまで上り詰めておきながら、自らその地位を捨て、王宮を去っていった男の姿が。
「居場所は掴んでいる。今から行くぞ」
「今からですか?」
「悠長にしていたら逃げられるからな。馬屋にある程度の装備はすでに用意してある。残っている仕事はアンリとジェラルドに任せておけばいい」
グレンの言葉にアルフォンスが肩をすくめた。こういうときのグレンには反対しても無駄なことを知っているのだ。もちろん、グレンがさも今思いついたことのように言いながら前々から準備をしていたであろうことも。
「仰せのままに」
二人はそのまま王城を出て、目的の人物がいる場所へと馬を走らせた。
広い室内に響く互いの吐息を聞きながら、マリアベルは目の前に蹲る男の唇に何度も口づけを落とした。
男のぼんやりと開かれたままの唇からは、唾液が一筋こぼれている。こぼれ落ちた唾液は、男の唾液とマリアベルの唾液が混ざったものだ。その唾液を、マリアベルは指を使って、丁寧に、男の口内へと戻していく。
ただ唇を重ね合わせるだけよりも、唾液を相手の口内に含ませたときの方が男の態度が目に見えて軟化するのだ。
「ねえ……。私は本物の愛し子よ?」
マリアベルは、とろんとしたライラック色の瞳で己を見上げる男の耳に囁く。首を傾げた拍子に、マリアベルのサラサラとした真っ直ぐな髪が、男の頬にかかった。
「……ああ、わかっているよ、マリアベル。君こそ本物だ」
男はなおもマリアベルを見つめ続ける。目の焦点はずっと、マリアベルの緑がかった銀色の瞳に固定されて動かない。
「本当? 本当に信じてくれる?」
「……もちろんだよ」
「ありがとう、ダグラス」
迷いのない男の返事に、マリアベルは満足して笑みをこぼす。それからまたゆっくりと男に顔を近づけ、男の形の良い薄い唇に己の小さくふっくらとした唇を重ねた。
いつも通りの行為。二年前に愛し子候補として王城へ出入りするようになってからこれまでずっと、男が己に対し、怒った時や、疑いを持った時にはこうやって唇を重ね、唾液を与えれば、すぐに男は直前までのことを忘れて、マリアベルに優しくしてくれた。
そしてそれはこの男に限ったことではなかった。どんな男も、マリアベルが口づけをすればすぐにマリアベルだけを見、マリアベルの味方になってくれた。一度でそうなる男もいれば何度目かでようやくそうなる男もいた。
だが隙のない男も中にはいて、今まで一度も口づけられないままになっている。グレンやアルフォンス、ジェラルドなどがそうだ。ジェラルドは一度だけ唇が頬をかすったことがあったが、それ以来警戒されて遠ざけられるようになってしまった。
ほかにも常に王宮にいるわけではないが、公爵家の跡取りだという美しい令息もそうだった。マリアベルが笑顔で近づいても、まったく警戒を解く様子がなかった。普段接点もないし、これは難しそうだと思いマリアベルは早々に諦めようとしたのだが、頭の中の人物――ユウカは、諦められないようだ。
今日なども久々にあの令息の姿を目にして、ユウカの昂ぶり具合が良く伝わって来た。
どうしても、欲しい、と。それは、初めて見たあの令息の弟や、精霊神に対しても同じだった。
ユウカとは物心ついたときからずっと一緒にいた。いつもマリアベルの頭の片隅にいて、色々なことを教えてくれるのだ。
町でグレンたちに出会ったときも、ユウカが三人の情報を教えてくれた。それだけではない。ユウカには事前に三人が町へ来ることがわかっていたのだ。
ユウカのことは、最初は精霊かと思っていた。だがマリアベルが成長するにつれ、どうやら違うことがわかってきた。
幼い頃に読んだ絵本に出て来た、欲の深い魔女。ユウカは少し、その魔女に似ている。
そんなことをマリアベルが考えているとユウカが知ったら絶対怒り狂うだろうけれど、どうもマリアベルが頭の中で考えたことは、ユウカには伝わらないようなのだ。ユウカはマリアベルの頭の中に話しかけてくるのに、マリアベルの考えていることは分からないなんて、不思議だが、実際そうなのだから仕方ない。
マリアベルがユウカをそれ程恐れないでいられるのも、このことが大きい。自分の考えていることが筒抜けだったら、こんなに落ち着いてはいられなかった。むしろ今では感謝してさえいる。ユウカがマリアベルの頭の中に現れてくれなかったら、マリアベルはただの子爵令嬢として一生を終えていたはずだ。王宮への出入りなんて、きっとデビュタントの時で、最初で最後だっただろう。
華やかなデビュタントを思い出しニマニマしていたマリアベルは、同時に嫌なことも思い出してしまい、とたんに顔を顰めた。思い出したのだ。アマリリスのことを。
マリアベルが受けるはずだった精霊神の加護を、横から搔っ攫っていった女。憎らしいほどに美しい女だった。
マリアベルも自分のことを美しいと思っている。サラサラとした手触りの撫子色の髪も、神秘的な緑がかった銀色の瞳も、白いが健康的な肌も。ただ少し子供っぽい体をしているとも思っていた。
しかし、あの女の体は同じ女であるマリアベルから見ても完璧なものだった。美しい曲線美、豊かな胸、完璧に整った顔、光を放つ瞳、艶やかな髪。どこを見ても完璧に美しかった。その女を見た時に頭の中でユウカが叫んだ。
――ふざけるな! あの豚姫が、あんなに美しいわけがない!
確かにユウカに聞かされていたアマリリスは、豚姫と揶揄されるほど太っていて、家族からも見放され、卑屈で、いつも険しい顔をした、悪役という役割の、マリアベルの引き立て役でしかなかったはずだ。
なのに、実際のアマリリスは美しく、同じように美しい兄弟に寄り添われ柔らかな笑みを浮かべており、精霊神の加護をも授かった。ユウカの言っていたことと何一つ当てはまらない。
当てはまらないことは他にもあった。ユウカは、第一王子であるグレンも、護衛騎士のアルフォンスも、宰相補佐のジェラルドも、公爵家の兄弟も、宮廷精霊師のダグラスも、あの精霊神すらも、すべてマリアベルのものになると言っていたのに、実際はダグラス以外は手に入っていない。
代わりに第二王子のアンリはマリアベルのものとなったが、やはり、他の六人に比べて魅力に欠ける。そのほかの令息たちに至っては比べるべくもない。
マリアベルの一番のお気に入りは、今のところダグラスだが、本当は全員欲しいのだ。そこはユウカと意見が一致している。ただマリアベルの方が現実を見ているだけだ。どうあがいても今のままではほかの六人は手に入らない。
「何か方法はないの?」
「えっ?」
マリアベルの呟きに、ダグラスが反応した。しかしマリアベルはダグラスに言ったのではない。頭の中のユウカに言ったのだ。マリアベルはそのままダグラスの事を無視し、頭の中にいるはずのユウカに意識を集中した。そうするとユウカの声が聞こえてくるのだ。
普段は所かまわず勝手に話しかけてくるくせに、マリアベルから質問する時には、意識を集中させなくてはならない。それが少し面倒だ。しばらく集中していると、ユウカの声が聞こえて来た。
――あの女さえいなければ。
ユウカは随分と怒っているらしい。アマリリスさえいなければと思うのはマリアベルも一緒だが、ユウカは何をしでかすかわからない怖さがある。まるで人を人とも思っていないかのような、そんな言動をする時が多々あるのだ。マリアベルは思った。そんなところも魔女に似ていると。
マリアベルの頭の中に、言葉にならない感情が流れて来た。まれにユウカの感情がマリアベルの中に流れてくる時があるが、それは大抵こんな時だ。ユウカの願いのままに、マリアベルは、ダグラスの頬に手を伸ばす。もう一度口づけを交わすために。
口づけはマリアベルも嫌いではない。愛されている実感がわく。だが今マリアベルの身体を支配しているのは、おそらくユウカだ。あまりにもユウカの感情が強いと、時々体をユウカに明け渡しているような感覚に陥るときがあるのだ。
ユウカが夢中になってダグラスの唇を貪る。まだ身体は許していなかったが、こうなるとそれも時間の問題かもしれない。
マリアベルとしては結婚するまで純潔は守りたかったが、いずれ身体を与えた者と結婚するならば問題はなくなる。
子爵家のマリアベルにとって、宮廷精霊師のダグラスは高嶺の花だ。そのダグラスが手に入るなら、すべてユウカに任せても良いかも知れないと、口づけに酔いながらマリアベルは思った。




