1 悪女
ティアット公爵家のご令嬢アマリリスは、八歳の時に池でおぼれて前世の記憶を思い出した。
母に連れられて参加したフォーチュン侯爵家のお茶会には、同じ年ごろの子供がまったくおらず、アマリリスはすぐに退屈してしまった。
普段から侍女の目を盗むことに長けていたアマリリスは、その日もお付きの侍女の目を盗んで、一人庭の散策へと繰り出していた。
侍女はすぐにアマリリスがいないことに気付き捜索を始めた。侍女もこのようなアマリリスの行動には慣れていたため、あまり焦ってはいなかったのだが、それでもゆっくりと注意深く周辺を見渡した先に、池のほとりにたたずむアマリリスの姿を見つけたときにはほっと息をついた。
しかし次の瞬間、まるで弧を描くように綺麗に池にダイブするアマリリスの姿を目の当たりにし顔色を真っ青に変化させた。
それは池に泳ぐ綺麗な魚を見つけたアマリリスが、もっと近くで見たいという欲求に逆らえず足をギリギリまで伸ばした結果だった。
悲鳴を上げてアマリリスに駆け寄る侍女の姿に、近くの茂みに隠れて仕事をしていた庭師も、お茶を楽しんでいた母親たちも事態に気づき駆け出した。もうお茶会どころではない。
アマリリスは確かに貴族の令嬢にしては少々お転婆であったのだが、池に落ちるほどとは母親も侍女も思ってはいなかった。
アマリリスはわずか八歳にしてとんでもない騒ぎを起こしてしまったのだ。
そのあと庭師の手で池から救い出されたアマリリスはそのままお約束の高熱を出し、一週間目覚めず家族と使用人を大層心配させた。
そして目が覚めた時には、前世の記憶を思い出していた。
思い出したというか、高熱にうなされている間に山もなく谷もない平凡な演劇を延々と見せられたような感じだ。
まるで夢でお告げを受けたかのように、自分が生きた世界の知識や感覚をアマリリスは知ることとなる。よって、アマリリスの人格が前世の人格に完全に戻ってしまったというようなことはなかった。
しかしアマリリスはこの世界でまだ八年しか生きていない。そこへうん十年生きた記憶を思い出したのだから、感覚や価値観に少なくない影響を受けたことは否めない。
だから、目覚めた時に「公爵家のご令嬢が池に落ちるなんて」と侍女のミリアに嘆かれた際、アマリリスはつい聞いてしまったのだ。
「えっ、貴族のご令嬢って池に落ちないの?」
「落ちません」
「えっ、足がすべることくらいあるでしょ?」
「ありません。根性で耐えます」
「えっ、根性でどうにかなるもの?」
あの日アマリリスが大変な心労をかけてしまった侍女のミリアは、さも当然といった体で寝ぼけたことをいう幼い主人に貴族としての常識を教えた。
「格式ある家のご令嬢は、たとえ転びそうになってもどうにか踏ん張ります。そもそも公爵家のご令嬢は、一人で池になど近づきません。護衛や侍女が最低でも四人はつきます。ティアット公爵家は例外中の例外です。ご当主様はお嬢様の意思を尊重して、お嬢様のお好きにさせておられるのです」
そのあとミリアがぼそっとつぶやいた「いささか甘やかし過ぎですが」という言葉には、今のアマリリスには賛同の意しかなかった。
夢でのお告げ――アマリリスにはこちらの言い方のほうがしっくりる――を受けてからアマリリスは変わった。
池に落ちる前のアマリリスは、それはもう我儘だった。あらためて己のして来たことを思い起こすと、我がことながら情けなくなった。
まだ幼いのに宝石が欲しいと父に強請り――ちなみに前世の人格が鉱物収集が大好きだった――、食事がまずいとほとんど食べずに残し甘味ばかりを食べ――前世の味覚からすると本当にまずかった――、珍しいものは何でも欲しがった――こちらの世界は娯楽が少ない――。
池に落ちたことだって前世の感覚からすると、ちょっとお転婆が過ぎるかな、くらいですむものだったが、こちらの世界ではそれは通用しない。
多分一生親戚とかに言われるあれだ。親戚どころか、知られてしまえば社交界でも一生言われるかも知れない。
とにかく、アマリリスが我儘だったことは間違いない。だが、夢のお告げを知った今、アマリリスは以前と同じような行動をとるわけには行かなかった。公爵家の令嬢として、慎みを持った他の貴族令嬢の見本となるような女性にならなければならないのだ。
なぜなら、そうしないと破滅する。このまま以前と同じような行動を続ければ、アマリリスの未来には暗雲しかたちこめないのだ。
夢のお告げは、アマリリスに前世以外のことも教えてくれた。
夢で見た山もなく谷もない演劇の中で、アマリリスの前世での妹が遊んでいた遊具があった。
その遊具の名は乙女ゲーム。それは恋愛を軸におき、様々なルートを選択して遊ぶものだった。
アマリリスにとっては劇中劇のようなものであるその遊具――乙女ゲームには詳細な物語があり、その物語とはとある国で起こる出来事を題材としたものだった。
前世の妹は夢中でその乙女ゲームで遊んでいた。そしてそのゲームの進捗具合をことあるごとにアマリリスの前世に教えてくれていたのだ。
だがその乙女ゲームの物語の中身について、アマリリスは実はそれほど覚えていない。かろうじて登場人物を覚えているくらいだ。
なぜなら夢の中のアマリリスは妹の言葉をうんうん言いながらそのほとんどを聞き流していたからだ。
だがその登場人物の中で一人だけ、アマリリスの記憶に強く残っている人物がいた。
その人物は主人公ではなかったが、同じくらいに重要な人物として描かれていたのだ。物語を盛り上げるために必要な悪役。
そう、主人公と敵対する悪女として。
ほかの登場人物の未来などはほとんど覚えていないのに、とにかくその人物が将来破滅する運命ということだけは覚えているのだ。きっとかなり特徴的な人物で悲惨な人生だったから記憶に残りやすかったのかもしれない。そして今思えばその人物はなぜかアマリリスにそっくりだったのだ。
いや、そっくりどころではない。あれはアマリリスの未来の姿。あの物語はおそらくこれからの事を記した予言書だ。
そんなこんなで突如として自分の未来に訪れる悲惨な運命を知ってしまったアマリリス。あれが本当に予言書だとしたら、その悲惨な運命を回避できるか否かは非常に由々しき問題だ。
まったく全体どうしたものかと、アマリリスはずんぐりむっくりとした短い腕を組み、うんうん唸って考えた。まるで子豚ちゃんのようだ。アマリリスはちょっとぽっちゃりしていた。
「お嬢様、まさか頭の打ちどころが悪かったのでは……」
幼い主人の常とは違う様子に不安になったらしいミリアが恐る恐る声をかけてきた。
「ねえ、ミリア。相談したいことがあるのだけれど」
「……!」
アマリリスがその言葉を放った瞬間のミリアの表情を、アマリリスはきっと一生忘れない。
ミリアはアマリリスの言葉に驚愕を露にした。目は見開き、口も開いている。アマリリスから相談したいなどと殊勝なことを言われたのはきっと初めてだったろうから無理もない。
しかし冷静かつ客観的に考えれば、アマリリスはまだ八歳の子ども。相談や殊勝などという言葉とは無縁のお年頃なのだが、そこが公爵令嬢と一般的な子どもとの扱いの差だ。
とくにティアット公爵家は王家の姫君が降嫁している由緒あるお家柄。その姫君も十年前に亡くなり、その一年後には、後妻として姫君の従姉妹であったスイフト公爵家の御令嬢を迎えた。アマリリスの母だ。
王家の血を引く女性を二人も迎えた、幾多ある公爵家の中でも名門中の名門、それがティアット公爵家なのだ。
ちなみにアマリリスにはその姫君の息子として二歳上に兄が一人、一歳下には母を同じくする弟が一人いる。アマリリスの相談には、この二人の事も含まれた。
「わたくしでよろしければ何なりと」
「良かった。ありがとう」
「……!」
ミリアがまたもや驚愕の表情でアマリリスを見つめる。こころなし肩も震えていた。これまでアマリリスから感謝の言葉を貰ったことなど、ただの一度もなかっただろうから無理もない。
ミリアが目を瞑り、わなわなと震える手で目元を抑える。目元にはきらりと光る何かが見えた。
「ミリア、もしかして泣いてるの?」
「いいえっ、いいえお嬢様。これは……そう、目にゴミが……」
何やらよくわからない言い訳をしているミリアを眺めて、アマリリスは思った。以前の私最低だったなと。
感謝の言葉さえ伝えたことがなかったとは、八歳の子どもだからなどと言い訳することもできない。人から何かして貰ったらありがとう、というのは人間関係の基本だというのに。
「ミリア、今までごめんなさい。あなたはこんな私でも見捨てずにいてくれたのに……」
アマリリスは感動していた。この侍女は何だかんだ言いながらもいつもアマリリスのことを想ってお小言を言ってくれていたのだ。記憶が戻る以前はそれが分からなかったが、前世の大人の記憶を多少思い出した今ならそれがわかる。
まあ、一使用人であるミリアが個人の感情により主家のご令嬢を見捨てるなどよっぽどのことがなければありえないのだが、それはそれ、これはこれである。
アマリリスは感動のあまり身体をくねらせ怪しい動きをしている侍女を無視して話をつづけた。
「私、今回のことで反省したの。あのね、ミリア。私ね……夢の中で予言を授かったのよ」
予言を授かったなどと宣う八歳児に、アマリリスはいよいよ頭の心配をされるのではなかろうかと内心戦々恐々としていたのだが、アマリリスの予想とは異なり、ミリアは澄んだ淡い水色をした瞳を輝かせてアマリリスを見つめて来た。
「まさかっ、お嬢様。……精霊神からのお告げを?」
「えっ、あっ! ……いやあ、ちょっとそれはと違うような……ごにょごにょ」
アマリリスはうっかりしていた。この世界で予言などと言ったら、精霊神から授かった予言と思われるに決まっている。
「そんなっ! お嬢様が精霊神からのお言葉を授かる愛し子だったなんて!」
「違うの、違うのよ、ミリア! 落ち着いて」
普段あまり表情を出さない侍女の興奮具合に、精霊神の愛し子という存在がこの世界においてどれほどステータスのある存在なのか、アマリリスは改めて思い知らされた。
精霊神の愛し子とは、この世界の全精霊を束ねる精霊神からの言葉を受け、それを予言として人々に伝える者のこと指す。と言われている。
この世界には精霊がいる。以前のアマリリスにとってその事実は当然であり、何も不思議に思うことなどなかった。
だが、今は前世の知識がある。どうやらアマリリスの前世いた世界には精霊はいなかったらしいのだ。精霊は架空の存在として扱われ、物語の中にしか存在しないものとされていた。
アマリリスの前世の妹が夢のお告げの中で夢中になって遊んでいた乙女ゲームのタイトルは『精霊神の愛し子――君と創る世界――』というものだった。タイトルのまんま、精霊神の愛し子を主人公とした恋愛ファンタジーゲームだった。
世界創造などというと大げさに聞こえるが、ようは主人公が選ぶパートナーによって主人公を取り巻く世界が変わっていくという、選択肢によって結果が変わることを自分と相手の世界を創造するという意味になぞらえたものだ。
選ぶパートナーによっては本当に国や世界を変えていくということすら起こりえたのだから、タイトルもあながち嘘ではない。
とにかく、その物語の中ではあくまで別の人物が主人公であり、どちらかというと悪役であったアマリリスには、今のミリアの憧れさえ含んだような眼差しはとてつもなく心につき刺さった。
「あのね。多分、というか恐らく、絶対、精霊神のお告げじゃないんだけど……」
アマリリスはそう前置きをしてから、池に落ちて魘されている間に起きたことを、ミリアに伝えた。