第八話【ううん】
ふわっと、くしゃっと、柔らかい笑顔。優しい微笑み。日焼けした小麦色の肌。茶髪のふんわりとした短髪。綺麗な鼻筋。
「トモ…」と私を呼ぶ声。の残像。のようなもの。
智美は、遼太の温かい胸の中で、突然思いだした別の男の記憶の糸をたどる。
『海の家』でのバイトは、客の取り合い奪い合いだったからね。他の家の女の子たちとは、全然仲良くならなかったんだよね。女はおっかないからね。あれも中々シビアな世界だわ。そうそう、と智美は頷く。感慨深げに。
時刻は深夜0時をまわっていた。
明日が休みという安心感。ものすごく感じていた疲労が、白ワインと共に流されていく。気がする。
『海の家』のバイトも、ものすごい忙しかったんだよね。ビキニで客引け客引けで、ね。あれもうんざりしたな。まぁ、いろんな人がいて楽しかったけど。こんがり焼けたし。肌の色って白く戻るもんなのね。神秘。
あの時もすごく忙しくて、全然遊ぶどころでもなかったけど、近くの家の男の子とかとは、会えば話したりはしたんだよね。みんな大学生でノリも良かったし。ご飯食べに行ったりもしたな。可愛い想い出だな。
―もう、9年も前なのか。―
1つを思い出すと、次々に色んなことが蘇ってきたけど、不意にシュンとした気持ちが視線を遠くさせる。ワイングラスを離さずに。ちゃっかり継ぎ足して。
「きよし、あの夜…なんてな。」
なんだ、それ。智美はうすら笑いで、赤ワインでもないのにワイングラスを回す。白ワインが反時計回りに優雅に泳ぐ。
当時、智美がつきあっていた彼氏は、都内に住む商社マン【永井 喜吉 Nagai Kiyosi】だった。
智美よりも一回り上の29歳。童顔で年齢より若く見えたけど、17歳の少女には、スーツ姿がやけに大人に映った。高2の秋に合コンで知り合って、よく遊ぶようになって、春に告白されてつきあいだした。最初のうちは、優しいし、素敵なデートに連れて行ってくれるし、「やっぱり大人って良いわ♡」と順調に愛を育んでいるように思えていた。が、短大にあがると、彼はなぜだか束縛してくるようになった。友達と遊ぶってだけで、「誰と?」「どこに?」ちくいち詮索して、干渉して、勘ぐってくる。当然、奔放な性格の智美には、そういうことが重たく感じてしまった。
「なんでイチイチ言わなきゃなんないの?」
「俺に言えないことしてるのかよ?」
「べつにしてないけど。だからって、なんでもかんでも疑ってくるのやめてよ!」
「疑うようにしてる方が悪いんじゃないのかよ!」
喧嘩もあたりまえのようになっていた。
―それで、逃げたんだよね、私。―
「短大の友達の誘いで、『海の家』のバイトに行く」って言って。何もかもに応えるのも、向き合うのもめんどくさがって、自然消滅もありだなって思って、私は喜吉から逃げた。
「意味がわかんない。」って、めちゃくちゃ渋られて。こんこんと話し合って、「毎日連絡すること。」「浮気は絶対しないように。」「ビーチボーイズとは話すな。」とか散々言われて。うんざり聞いてたけど、喜吉との約束なんて、距離が離れれば意味ないし、って思ってたし。私、クズ女だったな。
「彼氏に刺されるかも。」
「別れちゃえば?」
「うーん…。毎日すげぇ連絡の嵐。ほぼ無視だけど。」
「別れなよ。無視するくらいなら。」
一緒にバイトに来ていた…あれ?あの子、なんて名前だっけ?…まぁいいや。
とりとめのない相談をしていた。めっちゃ適当に聞かれてたけど。半分以上流されてたよな。
他の家の大学生の子とつきあって、イチャラブ浮かれてたもんな、あの子。そりゃ陰気臭い話なんて聞きたくもないわな。
「海外留学にすれば良かった。連絡取れないように。」
「なんで逃げるの?”別れる”って言うだけじゃん?ひと言じゃん?」
そう、私が弱かったんだ。あの病み男と共に、自分の精神も病んじゃってたんだよね。
そんなタイミングで、仲良くなりだしたのが【香聖 Kousei】だった。思えば苗字も知らないわ。というより、何も知らない。だけど、会うたびに優しく話しかけてくれたり、なんかの貝殻ネックレスももらったな。あれ、どうしたんだろ?…まぁいいか。←まぁいいのか?
夕日の沈む海を眺めて、仁王立ちの香聖のこんがり日焼けした脚が、あまりにも綺麗にピーンと伸びてたから、思わず膝カックンしてみたんだよね。そしたら、めっちゃ見事にカクンッってハマッて。香聖がよろけるから、大笑い。
「びっくりしたー!」
「お見事ぉ!」
そんなくだらないことで笑ってたな…。
「懐かしいよね…。」
ぽつり…。グラスの白ワインを飲み干した。
気がつくと、テーブルに置かれたワイングラスと目があう。空のワインボトルを抱きしめてソファに横になっていた。
―また、寝落ちしちゃった。―
時刻は間もなく午前4時になろうとしていた。智美は”ぷぅーっ”と息を吐くと、よっこいしょ、起き上がり、歯を磨き、ベッドにもぐりこんだ。
目を覚ますと、もうお昼になろうという時間だった。
―すっげぇ寝たな。―
こんなに寝たのいつ以来だろ?顔を洗ってぇ~歯を磨いてぇ~。うん、今日も可愛いよ!自分を褒めておく。自分で。
目が覚めても、18歳の夏の日が頭のスクリーンに映し出されている。たった2ヶ月だったけど、すごく濃厚で、あの頃の色々な声がリアルに聞こえてくる感じがした。
〈なんで電話でねぇんだよ!?〉
病み男の深夜の謎の怒り電話。
〈あれ?寝てた?寝てたならいいんだ。じゃあ。〉
病み男の深夜の謎の確認電話。
9年経つのに、覚えてるもんだな。はぁっ…!当時を思い出し、智美は思わず深いため息をもらした。
呑むかな…。昼間から呑むのは、アル中です。
あれで参っちゃったんだよね。プシュッと缶ビールを開ける。こっちは忙しくて疲れて寝てたってのに。ぷっはぁ~。
また、あの柔らかい香聖の微笑みが浮かぶ。智美は缶ビールを頬にあて、床に広がる9年前の残像を見つめている。
目尻の下がった、優しい笑顔。日焼けした肌。ひまわり…のような。眩しい太陽のような、夕日のような。…どっちだよ。
初対面から人懐っこい感じの香聖とは、”会えば、たまに話す”程度の知り合いだった。
それでも、若いノリもあったし、仲良くなるスピードは早かったと思う。柔らかい見た目以上に、”人として良い人”だと思うようにもなっていた。
だけど、当時の私は、離れてる病み男に引っ張られてしまうようなところがあって、”うんざり”と”男は懲りごり”という気持ちがあって、毎日話しかけてくるようになった香聖を、少し煙たく思うようになっていた。
智美は冷蔵庫から新たに白ワインを取り出す。
優しく話しかけてくれてるのに、なんだか気が引けてしまって。優しくご飯に誘われても、曖昧に笑って避けてしまった。グラススタンドからワイングラスをヒョイッと手にする。
にぶかったわけじゃない。なんとなく、恋に発展させるのを嫌がってしまった。
〈めちゃめちゃ忙しそうじゃん?〉
「戦場だったよ。少し落ち着いたけど。」
夜になり、やっぱり里奈に聞いてもらうために電話をかけてみた。
〈初耳だけど?その…こうすい?〉
「わざと間違えんなよ。こうせい。」
〈あぁ、コーセイ。化粧品みたいだね。〉
話が進まんっ!
〈それにしても、なんで突然思い出したの?〉
「突然…ていうかさぁ、このところ、ずっと頭に思い浮かんでたの。不意に…香聖の顔が。」
〈ふーん。なんで?〉
「わかんないの。だって、最初は誰なのかも思い出せないくらいだったし。」
ため息まじりに智美は笑う。
〈思い出せなかったんだ?…んー、それで?〉
「うん…。実は、後悔してて。って、思う気がして。」
〈”後悔して”じゃなくて、”気がして”?〉
「うん。ご飯食べに行ったんだよね。…あ、ファミレスだったけど。」
〈うん、で?〉
「うん、それで、食べてる途中に喜吉から電話があって。」
〈あぁ…いたね。懐かしいね?病み男。〉
「懐かしいよね。今、何してんだろ?さすがに結婚してるよね?」
〈だろうね?いくつだっけ?〉
「私の12コ上だからぁー…39?さんきゅー♪」
〈39かぁ!そりゃ、子供もいるだろうねぇ?…んで?〉
あ、うん。と智美は白ワインを口に流す。
「喜吉の束縛とか、連絡とかもうざくなっててさ。プレゼントもすごかったし。千葉の寮にまで送られてきたり。だんだん怖くなってきてたし、そのうち刺されるんじゃないかって。」
〈確かに!危うさあったよね。19歳で全身ブランド物、とか。〉
「今思えば、贅沢だったけど!」
確かに!と智美と里奈は電話越しに爆笑する。
「あの時、香聖も”夢を諦めて”みたいなこと言ってて、なんか、しんみりしちゃったんだよね。よく覚えてないけど。」
〈覚えてないんかーい。それで?〉
「うん。それで、お店出て、どうする?帰る?ってなって…イライラしてたから、帰りたくないって、」
〈で、押し倒しちゃったんだぁ!?〉
「押し倒しちゃったわけじゃないよ!チョットその、チュウ…ってしてみたら、向こうもチュウ…って返してきて…そーなればあーなってそーなっ」
〈あのさぁ、電話越しにモジモジ照れるのやめてくれる?こそばゆいわ!〉
「やめてくれる?私だって、こそばゆいわよ!」
〈まぁ、いいけど。それで?〉
「それで、ホテル行って…」
〈やっぱり押し倒しちゃったんじゃん!〉
「だから、押し倒しちゃったわけじゃないってば!だけど、実は残像でしか覚えてなくて。精神やられてたし、ヤケ…てゆーか、勢い…?だから、次から会うのが気まずくて、避けちゃったんだよね。だって言えないじゃん?彼氏と喧嘩してムシャクシャしてました、なんて。」
〈やり捨てやん。トモ、最低~!〉
何も言い返せない。そうじゃな、…そうかもしれん。
〈で?やり捨てにしたのを後悔してるの?〉
「ていうか、今思えば、すごい出会いだったのになぁ~って。後悔する、気がして。だって、他県でさ、夏休みにさ、出会ってなんてさぁ~。」
〈…もしも、タイムマシーンがあったら、やりなおしたい?〉
その言葉に、言葉が出てこなかった。一瞬”無”になって、続いて”ん?”と考える。
「…あの頃に、戻りたいとは、思わないな。」
〈そうだろうね。〉
「前にも話したけど、千葉から帰って喜吉に「別れる」って言った時に言われた言葉が効いた。”プレゼントしないとフラれる。良いとこ連れてかないと捨てられる。それがプレッシャーだった。正直、別れを言われてホッとした。”って。」
〈キッツイよね、それ。不安だから、束縛が激しくなっちゃったんだもんね。お互いに話せばわかることだったんだろうけど、気持ちがすれ違っちゃうと、うまくいかないね。〉
「…うん。あれを最初に聞いた時は頭にきたけど。私べつに”何か買って”とか、おねだりしてたわけじゃなかったし。心外だわって感じだったんだよね。…だけど、もっと早く「別れる」って言えばよかった。」
ふふふ、と受話器の向こうで里奈が小さく笑っている。なに?と智美は聞く。
〈…や、なんかさ、私たちも年とったんだなって思って。〉
「はぁ?まだ27よ?」
〈まぁね。だけど、なんかさ、病み男・喜吉と、トモは今なら向き合えるじゃん?〉
かもね?と智美は、スマホを左肩に挟んで、飲み干したワイングラスに白ワインを継ぎ足す。
〈病み男・喜吉にしてもそうだし、その香聖にしてもそうだけど、時差があるんだよ、きっと。〉
「…時差?」
〈うん。トモは、今やっとその頃の彼たちの気持ちに追いついた。だけど、やっぱりその人たちは先を行ってる。だから、きっといつまで経ってもイタチごっこ。そんな?〉
わかる気がした。私が子供すぎたんだ。
〈まぁ、良かったじゃん?学べて!〉
「…うん、そうだね…!」
受話器の向こうの里奈が、やたら大人に感じた。先人の知恵のように。←お婆ちゃん呼ばわりやん。←おい!by里奈。