第二話【さてと】
誰にでも想い出の恋愛の1つや2つ、あるものでしょ?
はじめての恋。大切だった恋。すぐに終わってしまう恋。なんとなく続く恋。
気づかずに通り過ぎてしまっていた恋。
―まただ。柔らかい笑顔。―
【水澤 智美 Mizusawa Tomomi】は、
不意に目の裏側に、パシャッとシャッターが押される感覚で浮かんだ、ヤンチャな笑顔に疑問符をつけた。
短大を卒業し、スポーツ系の大手アパレルブランド【uma ユーマ】本社の事務として就職した智美は、27歳になっていた。
【uma】のロゴは、未確認生物【チュパカブラ】を模した独特なものだ。そのツンツンした背中の針感と、どこか切ない瞳のロゴマークは、世界中で人気を博している。なぜか。
ーこのところ、ふと浮かぶ笑顔がある。ー
智美は白ワインをグラスに注ぎながら、昔のフィルムのように砂混じりの若い微笑みをうっすらと、ほんのり黄色い液体に投影させる。
写真が1枚脳裏に貼られるような感じなのだけど、可愛いな…なぜだか、そんな風に感じる気持ちと共に、グラスに注いだ白ワインを飲み込んだ。
誰だっけ?…記憶の糸が中々つながらない。それほど薄い記憶のようだった。
そんなことよりも、来月から【蝶ヶ舞ららんぼーと店】に販売員として出向となったので、大急ぎで引っ越しの準備をしなければならないのだ。ワイン片手に。余裕かよ。
【蝶ヶ舞ららんぼーと】に行くのは、初めてではない。今回で3度目になる。
もう戻ることはないだろうな、と東京の本社に戻ってきたのが1年前だった。
また行くことになるとはな、たった1年で戻るのだから、なんだか変な感覚だった。
ー志願したんだよね、私。イケイケだったな♪ー
智美が初めて東京から蝶ヶ舞町の【蝶ヶ舞ららんぼーと】に、なぜ行こうと思ったかといえば、単純な興味だった。環境を変えるのも面白いかな、と思っただけ。
本社の事務の仕事は、受発注やデータ処理やら、新作デザインの企画に参加できることもあって、とても忙しく、やりがいがあった。街には、お店が溢れるほどあるので、ランチにディナー、飲みにデート…楽しい誘惑に身体が足りないほど、毎日がすごいスピードで過ぎ去っていく。
だけど、充実感がない。3年も経つと、日々おなじことの繰り返しのようで、毎日がなんだか退屈に思えてきていた。要するに、飽きたのだ。
そんな時に、入社当時の研修でお世話になった【石森 信二 Isimori Sinji】と久しぶりに連絡を取ったことで、
智美の”日常を変えたい願望”が、うずき始めていた。
“お世話になった”とは便利な言葉だ。智美は入社当時から奔放なところがあり、生意気さを愛嬌でカバーする
ようなタイプだ。プライベートで飲みに行くことも多かった4つ年上の【石森 信二】のことは、ほとんど”飲み友達扱い”で、いつからか勝手に「信二」と呼び捨てにしていた。「呼び捨てにするな!」と怒られてもお構いなしで、人が良い信二からは呆れられていた。
―突然だったもんね。蝶ヶ舞に行くって決めたの。―
智美は、当初のことを思い返す。23歳、我ながら勢いがあったな、と頷きながらほくそ笑んだ。1人で。満足そうに。
「水澤さん、お疲れさま。」
「あ、お疲れさまです!真島さん、丁度良いところに!」
ん?と【真島 雅弘 Masima Masahiro】に大人柔らかい微笑みを返され、ツヤツヤのナチュラルブラウンの長い巻き髪をコロンとさせ、思わず頬が緩む。長身で爽やかな短髪、真島の濃いグレーのスーツ姿に萌える。
智美の右の口角と目尻の横にある小さなホクロが、点と線を結ぶように意味深な笑みを浮かべる。にんまりと。怪しく。
その表情に、真島は話を聞く前から、ブランドバッグをおねだりされる時のような妙なパパ感に、なんだか背中がゾワッとした。パパには早い、俺はまだ40だぞ。…もう40かな?まぁいいや。
「忙しそうじゃないか。頑張ってるみたいで。」
真島は、ひとまず当たり障りのないトークをしてみる。
「あ、はい。おかげさまです。真島さんこそ、お忙しすぎのようで。」
水澤さんのニコニコ話すペースに乗せられそうだ。キャバクラだったら指名し…まぁいいか。
会社にいても、人事のお偉いさんである真島と会う機会は少ない。
なんて良いタイミングで!と忙しすぎるであろう真島を引き止めて、智美はここぞとばかりに自分の思いを話してみた。無駄に熱く。それほどでもなく。
「うーん…。蝶ヶ舞の方は、事務の枠空いてないんだよ。」
「もちろん、わかってます。石森さんからもそれは聞いてるので。だから、店舗の方に。」
「【ららんぼーと】の!?販売ってこと!?水澤さんが!?」
「はい、もちろん。楽しそうだし♪」
あっけらかんと言う智美に、真島は「もったいないよ。」と呆れ苦笑う。
「石森に誘われたの?」
「誘われたってわけじゃないんですけど。あっちで楽しそうにやってる話を聞いたら、行ってみたくなって♪リゾート地だし♡」
「石森は、マネージャー候補でこっちに来てただけで、元々あっちが地元だし。あっちに勤務が決まってたから…。」
こっちあっちちあっち、と真島は”参ったな”を顔に貼り付けて頭をかいた。
冗談だと思って話を聞いていた真島だったが、わりと真剣に話す智美に、冗談ではなさそうな空気を察した。
「まぁ、蝶ヶ舞の方と相談してみるよ。」
「わーい!ありがとうございます♪」
「突然何を言い出すのかと思ったら…。」
「急に引き止めちゃって、すみません。」
チョットしおらしくなった水澤さんに、パパはシャンパンを入れ…なんの話だ。
「わかりました!本気で言ってるんだな?」
「もちろん本気です!」
「だけど、あっちに行ったら、本社に戻りたくなっても戻れないと思うよ?」
「そうでしょうね。まぁ、その時はその時です。」
まったくこのお嬢さんは、という真島の心配もなんのその。
それに、と真島は笑っちゃうセールスさんのように、忠告の人差し指を智美にドーンと向ける。
「特別扱いできないから、言っとくけど給料ガクンと減るからね?」
「もちろん、わかってます。あそこは、確か時給1,200円ですよね?」
「それは経験者の場合。水澤さん、販売未経験だろ?スタートは時給1,000円だと思うよ?しかも、アルバイトだからボーナスもない。」
「んー…なるほど。でも、大丈夫!私、何気にやりくり上手なんです♪」
参りました!と、上司の真島は呆れ笑った。
「水澤さん仕事できるから、いてほしいけど。決意は堅いんだな?」
「さすが、嬉しいこと言ってくれますね♪口が上手い人は、大好きです♪そう、私の決意は堅いのです!」
大好きって。ポーカーフェイスの内側は、完全に緩んでいる。
水澤さんがいなくなっちゃったらパパ寂しいから、ぜひ引き止め…もういいか。
―懐かしいな。―
智美は、遠い目で微笑む。ワイン片手に。ダンボールに囲まれて。散乱する荷物を見て見ぬふりして。
結局、真島さんが口をきいてくれたおかげさまで、時給も特別に1,500円にしてくれて、さすが地元民の石森店長のおかげさまで、立地の良い家賃5万の2DKアパートをすぐに契約できたんだよね。右も左もわからない初めての土地で色々大変だったけど、私は恵まれてたな。本当にありがたいわ。勢いで行ってみて良かったし、楽しかったもんね。結局、最初の年は半年ほどで【蝶ヶ舞ららんぼーと】から東京の本社に戻ることになった。社内では、ヴァカンスを楽しめて良かったね、という皮肉をたっぷりいただいた。だけど、私が【蝶ヶ舞ららんぼーと】に出向のような形で行ったのが功を奏したのか、本社から行かせるのもありだな、となったようで、たった3ヶ月後に今度は辞令で蝶ヶ舞に舞い戻った。それから3年務めた。
風の生ぬるさに春を感じる3月のこの日、東京の恵比寿にあるイタリアンレストラン【campana カンパーナ】に、智美と【袖山 里奈 Sodeyama Rina】はディナーに訪れた。自由が丘で歯科衛生士として働く里奈とは、背丈もほぼ同じで、よく姉妹と間違われる、高校からの親友だ。智美がパステルカラーのフワフワ系だとすると、里奈はビビットカラーのクリクリ系といったところだ。まぁ、若い女の子は大体おなじに見える、と思ったら年をとった証拠です。
イタリア語で【吊り下げ式の鐘】という意味の【campana】の店内は広い。ケチャップをこぼすのが心配になるほど、テーブルクロスが白い。ここにいたら3秒で恋に落ちると思うほど、店員が素敵。
「また、蝶ヶ舞に行くことになった。」
「あら、寂しくなるじゃん。いつから?」
乾杯、と白ワインのグラスが触れ合うと、”カン”という高い鐘のような良い音が響いた。
「来月から。」
智美が言うと、2人は白ワインに口をつけた。
「また急だね。」
グラスのフチについた口紅を、2人揃ってグラスハープのように擦る。
「2週間もないじゃん?どのくらい行くの?」
「うんー…わかんないけど、1年とかってことはないかな。2~3年?」
「長いじゃん?ずっと、ってこともあるの?」
里奈は、ふんわりとしたボブの髪を両手でフワッと浮かせる。
「それはないと思うけど。まぁ、最初と違って、今回も会社の辞令だから、住まいとかも面倒見てくれるし、楽だよ。」
「ふぅ~ん、そうなんだ。お給料は?」
里奈のくっきり二重が、ポイント高い話を鋭く刻む。
「いちお、今と変わらない条件で♪」
智美のふんわり二重が、安心してください、と緩む。
「とはいえ、蝶ヶ舞って、田舎だけどリゾート地だから物価高いけどね!」
「確かにな!でも、いいなぁ~!私も蝶ヶ舞の【洞窟温泉】行きたいなぁ~。」
「また遊びにおいでぇ~!」
ご注文のサラダとピッツァが運ばれてきた。
なんというイケメンなのかしら♡智美と里奈は、男性店員の素敵スマイルに微笑み返す。
「ごゆっくり。」
「ありがとうございます♡」
30歳くらいかな?落ち着きのある大人な微笑みなのに、エクボがチャーミングぅ♪白いワイシャツの引き締まった胸板、ソムリエエプロンの鍛えてるであろう腹筋。スラッと細長いおみ脚。
行かないで。ずっとここにいて。智美と里奈の視線が、去っていく頼もしい背中を突き破らんばかりに指す。
「チョー良い男!」
思わず乾杯しなおした。
「元カレ遼太さんには、戻るって連絡したの?」
《ルッコラと生ハムのサラダ》を里奈が小皿に取り分け、
「するわけないじゃん。もう遼太と連絡取る気ないし。」
智美が、木製のプレートに乗った《マスカルポーネとガーリックシュリンプのピッツァ》を「ん~ニンニクの良い匂い♪」と、ピッツァカッターで、ぐるりぐるりギコギコと切り分ける。
「またまたぁ!どうせ、より戻すくせにぃ!」
「”どうせ”とは失礼ね~!」
「だって、何回くっついたり離れたりしてんのよ!船と港かよ!」
「”船と港”って。昭和の演歌かよ。」
智美と【沓間 遼太 Kutsuma Ryouta】は、智美が【蝶ヶ舞ららんぼーと店】に販売員として出向していた頃につきあっていた。3年くらいつきあっていたが、その間に別れたり戻ったりを繰り返していたので、2人の間柄を知っている者たちからは、いつでも”つきあってる扱い”の言い方をされるようになっていた。だって、めんどくさいから。
"くっついたり離れたり"していたものだから、"つきあってこのくらい記念日"とザックリとしか言えないほどだ。
「今回はマジでないよ。ケンカ別れだし。」
「どれくらいだっけ?別れて。」
里奈がピッツァにかじりつく。「うまっ♡」エビのプリプリ感をモグモグとさせて。
「1年くらい?丁度、こっちに帰ってきてすぐくらいだったから。」
智美がサラダとフォークを引き寄せる。
「…私は、やっぱり遼太さんがトモの1番の理解者だと思うけどな。」
どうかな?と、智美はバツが悪そうに、サラダにブスブスとフォークを刺す。
「トモには、遼太さんしかいないんじゃないかな?」
「そんな寂しい決めつけ、やめてくれる?いるかもしれないじゃん。さっきの店員さんとかぁ?」
「恋の行き先決めるの早すぎ。」
冗談だけどさ、と笑う2人は、白ワインを口に含ませる。
「だって、トモが「Hしたい。」とか言った時、わざわざ蝶ヶ舞から東京まで来てくれたんでしょ?新幹線で。」
「2時間かけて。」
智美が自嘲うすら笑いで”2”と、ピースする。
「里奈、その話好きだよね?」
「だって、最初聞いた時、衝撃的だったもん。普通できないよ?抱くためだけに。」
「そんなこともあったね。」
「”あったね”じゃねぇよ。普通、そこまでしないから。」
里奈はフォークに刺さったヤングコーンを智美に向けて指差す。
「あれは…遼太が私のこと信用してないだけだったと思うよ?浮気しかねない、とか。」
「仕方ないよな、前科ありすぎるんだから。」
「そういえば、その直後くらいだったな、別れたの。」
智美と遼太が、別れたり戻ったりした主な原因は、智美の浮気だった。
良いな…素敵だな…と思うと、つい、つい…そちらに気持ちが向いてしまう智美の悪いクセだ。
「ところで、合コンで知り合った歯医者さんとは、どうなったの?」
あぁ~、あれ。と智美が他人事の顔でピッツァを取皿に置く。大きなエビがぷりんっと見える。
「チョットつきあったんだけど、重いから別れちゃった。」
指についたケチャップを舐めると、智美はイタズラに笑う。
「はぁ?先月の話だよね?恋を見限るの早すぎ!」