壱之捌 始業式の日
テスト作りに集中していたせいもあって、始業式の日はあっという間にやってきた。
普段着慣れていないスーツを着て、部屋を後にして洗面所にやってくると、自分の表情が強張っているのに気が付く。
部屋で着替えていた時は、別段感情に乱れがないので、思ったよりも落ち着いているなぁと思っていたのだけど、実際の所は思い切り緊張していたせいで、感覚がおかしくなっていたらしかった。
このままだと、初っぱなから失敗しそうだったので、気持ちを引き締める為に、水で顔を洗うことにする。
蛇口を捻って出した水は、体の芯まで響く程の冷たさで、目的通り頭がさっぱりとした。
寒さで多少震える手で、ネクタイを締め直して、洗面台に備え付けられた鏡で確認する。
多少不格好だけど、僕なりには上手く結べたネクタイを人撫でして、廊下に出ると、絶妙のタイミングで花子さんと出くわした。
普段の割烹着ではなく、色は渋めながらとても品の良い紬の着物に身を包んだ花子さんは、僕を見るなり「あら」と口にして、僕に歩み寄ってくる。
「失礼します、先生」
輝かんばかりの花子さんの白い手が、ゆっくりと僕の首元に伸びてきた。
何が起こるのだろうと妄想するまもなく、花子さんの手は手早く僕の首に結ばれたネクタイを解いてしまう。
そして、間を置くことなく改めて締め直してくれた。
恥ずかしい上に、申し訳なくて、僕が「あの……すみま、せん」と辿々しく感謝を伝えると、花子さんは苦笑を返してくる。
「いえ、私事、勝手に申し訳ありません」
申し訳なさそうに離れた花子さんに、僕は慌ててフォローを入れた。
「い、いや、助かりました、その最初の身だしなみでで躓きたくなかったので」
「ふふっ迷惑でなければそれでいいんですよ」
困り顔を少し緩めて、花子さんがそう言ってくれたので、僕はそこで変な脱力をしてしまう。
そんなタイミングで、新たな人物の声が響いた。
「ご両人、仲良いのは良いことだが、子供達が待ちかねているよ?」
声の方に振り向けば、着物に袴を身に纏った雪子学校長が、呆れたような目を僕達に向けていた。
着物に袴の組み合わせは、教師の正装としては、結構しっかりしたものだと思うのだが、雪子学校長は見た目が小中学生なので、自分の卒業式用の衣装に見えてしまう。
そんな感想を見抜かれる前に、僕は話題を切り替えることにした。
「いよいよ、子供達に会えるんですね。凄くワクワクしています」
すると、雪子学校長は薄く笑みを浮かべて頷いてくれる。
「うん、期待しているよ、林田くん……」
と、そこまで言って、雪子学校長は何かに気が付いたかのように動きを止めて笑みを深めた。
「いや、今日、この瞬間からは、林田先生と呼んだ方が良いね」
雪子学長の言葉に、ジンと胸が熱くなる。
教育実習の時にも『林田先生』と言われたのに、本採用されなかったアルバイト期間で蓄積された思いがある分、全然違った響きに聞こえた。
が、そこで僕は大事なことに思い言いたる。
見た目や声は生徒と変わらなくても、雪子学校長は学校長であって、生徒じゃないのだ。
感動をしている場合じゃないといういうか、本番前に良いところを持っていかれたような気がしてきたので、僕は目を閉じて雪子学校長の言葉を記憶から削除しようと試みる。
が、雪子学校長に「それじゃあ、講堂に行こうか、林田先生」と言われて、試みは秒で失敗に終わった。
こうなった以上は新たな声で上書きをするのが一番だと思い直して、講堂への廊下へ踏み出す。
「こら、私たちも行くんだから、一人で行くんじゃないよ」
「そうですね。一緒に行きましょう」
背後から雪子学校長と花子さんから、そう声を掛けられたので足を止めた。
そこを、スッと雪子学校長が通り抜けていく。
その後姿に引っかかるものを感じたものの、これまでの社会経験で、上には逆らうなと学んだ僕は敢えて、それをスルーして、雪子学校長に続くことにした。
本館から階段になっている渡り廊下を通り、教室のある棟に入ったあと、更に延びる階段を上っていくと、突き当たりにあるのが、始業式を行う講堂だ。
階段を上りきって、床が平らになると、すぐに左手に講堂の入り口、右手に音楽室の入り口が待ち受けている。
音楽室は校舎見学の流れで一度見せて貰ったのだが、とんでもない事実に僕は愕然とした。
長く音楽の授業をする先生がいなかったらしく、授業で使う音楽鑑賞の機材は、レコードがメインで、工学系ディスクはBDやDVDはもちろん、CDすらもない。
録音機材もラジカセといういにしえの機械に、カセットテープという組み合わせだった。
流石に、これはマズイと思って雪子学校長に相談したところ、すぐに行動を起こしてくれて、近くネット経由でダウンロードした曲を流せるようになるらしい。
録音については僕のスマホとかでもいいんだけど、合わせて録音系の機材も用意してくれるそうだ。
ちなみに、楽器類はピアノ、オルガン、木琴、鉄琴と、打楽器系があったが、管楽器の類いはなかったので、そちらは授業の進み具合を見て相談しようかと思っている。
そんなことを音楽室の目で振り返っていると、雪子学校長が講堂の扉に手を掛けた。
「それじゃあ、林田先生、始業式を始めようと思うのだが?」
僕は何も言わず……というよりも、上手く返す言葉が選べずに、ただ静かに頷く。
雪子学校長も、そんな僕に対しては何も言わずに大きく頷いて、ガラリと音を立てて講堂の扉を開いた。