壱之漆 始業式に向けて
学校に到着したその日は、玄関や学校長室、僕の部屋のある本館だという建物のトイレ、食堂、風呂と施設を、花子さんに案内して貰った。
その間、子供達と思われる視線というか、気配はついて回っていたのだが、一度も視界にその姿を捉えることはなく、上手く隠れるものだなと僕は心から感心してしまう。
一応、花子さんの説明によると、子供達の暮らしている学生寮は別棟で、僕の部屋が用意された入り口正面の本館と同じように、食堂やトイレや風呂場の水回りもあって、顔を合わせずに過ごすことは出来るらしいのだけど、それは僕の後をついて回っているようなのに、姿が見えない理由にはなっていなかった。
流石にないとは思うけど、古い建物だけに隠し通路やカラクリ扉が……。
と、そんな妄想を仕掛けたのだが、僕はここで頭を振ってその妄想を散らす。
先輩にも言われたことだが、子供の気持ちになって考えることは大事だが、子供の思考になってはいけないと、それは似てるようで違うことだと諭されていた。
置かれた環境もあって、大人びた子達の可能性もあるので、下手な姿を見せては、バカだと思われかねない。
バカという素養は、仲間としてなら受け入れて貰えるだろうが、教師と先生の関係では確実に軽んじられる。
実際に小学生当時の自分や周りの子の考え行動を思い起こせば、否定する要素の方が少ないのだ。
よし、気を引き締めよう。
僕は一人決心すると、残り一週間程で訪れる始業式に向けて、自分の部屋を片付け、教壇に立つ準備を始めた。
雪子学校長から貰った資料によると、僕が受け持つことになる生徒は小中学生合わせて五人だ。
先入観を持たないようにと言うことで、生徒らに関する情報は最低限ということで、名前と学年以外は簡単な要旨の説明と顔写真が就いてるのみで、出身地などは書かれていない。
ちなみに、僕の前任に当たるのは、なんと雪子学校長らしく、その前にいた教員は一年全う出来ずに辞めてしまったとのことだった。
まあ、世間から隔離された環境で教員を続けていくのには、いろいろと高いハードルがあるのかも知れない。
そう考えると、僕自身油断は出来ないなと気を引き締めることにした。
そんな事情もあって、あくまで顔と名前が薄らと頭に入った程度でしかないけど、僕の最初の生徒になる五人は、中学生の男の子一人、あとは皆小学生の女の子だ。
名前は、男の子が東雲雅人、女の子は三峯那美、葛原志緒、そして、双子の鏑木結花と舞花となっている。
学年は、東雲くんが中一、三峯さんが六年で、葛原さんが五年、鏑木姉妹が四年だ。
皆一年以上はここにいるらしいので、添えられた転校時の写真というのがどの程度参考になるのかは何とも言えないけど、全員が成長しすぎてわからないということはないだろう。
まあ、まだ顔合わせも済ませていないのにいろいろ考えて、先入観を持ってしまうのでは、雪子学校長の配慮が無駄になるので、僕は意識を切り替えることにして、部屋に届いた大量の段ボールに目を向けた。
直近までアルバイト生活をしていた僕に、余計な荷物はなく、到着初日に片付けが終わっている。
では、この大量の段ボールが何かと言えば、村から提供された新年度の教科書類だ。
僕の部屋に届いた教科書は、小学校一年生から中学校三年生までの九年分、全教科のもので、この村の属している県で採用されているそのままを送ってもらっている。
ちなみに、僕の担当する生徒以外の学年のものまであるのは、新たにこの学校に生徒が増える、転校生が来る可能性を見越してのものだ。
生徒と同じ教科書に加えて、教務用の指導要領が書き込まれた教員用のものもあるので、同じ教科書が二種、つまり義務教育で使う教室の全てが二倍の量であるのである。
「部屋の大部分が教科書に占領されている……」
部屋の主となった教科書の詰まった段ボールに、思わず苦笑してしまったものの、教師になれた証と思うと、簡単に気持ちが上向いた。
我ながら単純だなと思いつつも、中一、小六、小五、小四と教科書を取り出していく。
その後で、市販の計算や漢字のドリルなんかを取り寄せるのは、在庫確認含めて最低一週間程度掛かると言われているので、僕は唯一の財産と言っても良いパソコンを取り出した。
僕の暮らすことになった本館には、印刷室が備え付けられていて、ここで必要な教材を印刷して授業に使うことが出来る。
その昔使われていた古い印刷機も健在だが、無線ネットワークで繋がれた比較的新しめな業務用プリンターも複数台設置されていて、既に雪子学校長から使用許可を貰っていた。
ちなみにこの少人数の学校でプリンターが複数台あるのには、単純に修理業者の人がすぐに駆けつけられないからという効率的なのか、そうでもないのかよくわからない理由が背景にあるらしい。
まあ、どちらかと言えば、地方自治の闇が紛れ込んでいそうな気もしなくもないが、僕の教師生活において知る必要のないことなので、黙殺することにした。
そんなことにこだわるよりも、ある程度自信を持って教壇に立てるように、僕のできる限りを尽くして、子供達の教材を作ることに集中する。
まずは各人の学力を確かめる為に、実力テストのようなものをした方が良いだろうと考えて、僕はテスト作りに励むことにした。