拾陸之弐拾壱 急転
「え、えっと、その、私に用があったんじゃ無いかなと……思うんですけど?」
触れそうなくらいの距離で微笑む那美ちゃんから視線を逸らしながら私はそう尋ねた。
那美ちゃんはチャプチャプと水音を立てた後で「私の言ったこと覚えてる?」と呟く。
水音に負けてしまってもおかしくない程小さな声なのに、驚く程耳に残る声に私はいつの間にか那美ちゃんに視線を向けていた。
那美ちゃんを視界の真ん中に捉えたまま、でも続ける言葉が思い浮かばなくて、私は「えっと……」と言い淀む。
そんな私に対して、少し目を細めて笑みを深めた那美ちゃんは「言ったでしょう? 私がリンちゃんが悩まなくて良いようにしてあげるって」と触れそうなくらい顔を近づけてきた。
「な、那美ちゃん?」
何をしたいのか想像が付かず、ただ翻弄されるままに名前を呼ぶことしか出来ない。
対して那美ちゃんはゆっくりとした動きで更に距離をつめながら、私の手を取った。
「リンちゃん」
ゆっくりとした口調で私を呼ぶ那美ちゃんに、体が強張る。
「安心して、私に身を任せて」
囁くような声と共に私の手が撫でられ、このまま身を任せることに危機感が生まれた。
けど、那美ちゃんは「別にリンちゃんを傷つけるようなことはしないから安心して」と続けながらお湯の中で私の脚に触れてくる。
手だけならまだしも、脚に触れられたところで、私の危機感は爆発的に高まり、思わず「那美ちゃん!?」と裏返った声が飛び出てしまった。
対して那美ちゃんは脚に触れていた手をなんの躊躇いもなく脇腹に動かす。
くすぐったさと、恥ずかしさと、心地よさの混じった複雑な感触に体が強張った。
「リンちゃん。そんなに簡単に反応しちゃうと、簡単に『神様』にされちゃうよ」
柔らかな口調で耳に送り込まれた那美ちゃんのセリフに、頭の中で危機感と恐怖が瞬間的に激増していく。
「な、那美ちゃん!?」
自分でもわかるくらい不安と同様の混じった声が、口から零れ出た。
「でも、リンちゃんはそういうところ可愛いし、似合ってると思うよ」
那美ちゃんの言葉の直後、スルリと私の手を何かがする抜けていく。
「えっ」
引き抜けられたモノが『封印のブレスレット』と、私の目が捉えた直後、なんの躊躇いもなく後ろに放り投げられ、ぽちゃっと言う水音共に小さな水柱が立った。
頭が追いつかないうちに起こった出来事に戸惑っているうちに、那美ちゃんの両手が私の肩に置かれる。
グッと湯船に押し込まれる感覚に、お湯の中に鎮められると思い、慌てて腕や足に力を込めた。
だけど、まるで想像もしていなかったことが、目の前で起こる。
私の肩を押さえていた那美ちゃんの手が上へ引き上げると共に、私の中から何かが引っ張り出された。
「え……は? え……?」
目にしたモノが何かは理解出来た。
理解は出来ているのに頭が状況を飲み込めない。
なにしろ、ポタポタと全身から水をしたたらせながら、私の前に仁王立ちになった那美ちゃんの横にはスーツ姿の『林田京一』が立っていた。
「林田先生、行きましょう」
那美ちゃんは私の目の前に現れた『林田京一』を見上げながら微笑む。
「はい。那美さん」
那美ちゃんにそう答えた『林田京一』はゆっくりと手を伸ばし、その体を静かに抱き上げた。
抱き上げられた那美ちゃんは濡れた体のままで『林田京一』の体に身を任せるように寄りかかる。
『林田京一』は那美ちゃんを抱く腕を密着するように力を込めてから、ゆっくりとした所作で、湯船から上がった。
したたり落ちる水など意にも介さず風呂を後にしようとする『林田京一』を那美ちゃんが「待って」と声を掛けて止める。
自分の言葉に素直に従った『林田京一』が足を止めたところで、その方越しに那美ちゃんは私を見た。
「リンちゃんの力は、全て林田先生の中にあるの……だから、もう、不安になることはないの。安心してね」
そう口にした那美ちゃんの顔は酷く優しい。
本当に私を思ってくれているんだろうと納得出来てしまう程に優しい眼差しだった。
戸惑いと動揺で何一つ行動を起こせない私は、ただ呆然と急に現れた元々の私の姿そのままの『林田京一』とその腕に抱かれて身を任せる那美ちゃんの姿を見ることしか出来ない。
そんな私に那美ちゃんは優しげな眼差しを向けたままで「リンちゃん。私はこれからやらないといけないことがあるの。だから、雪ちゃん先生たちには、ごめんねって伝えてくれる?」と言った。
それまでの優しい色の強かった言葉と違い、悲哀のようなモノが滲んだ言葉に、私の体は急に動きを取り戻した。
「那美ちゃん、それって、どういう!」
ザバッと水音を立てながら立ち上がったのだけど、瞬間、私の視界は黒一色に塗りつぶされる。
それが何故起きたのか、どうしてそんなことになったのか、全くわからなかった。
ただ、意識が遠のいていく最中、那美ちゃんの声が耳に届く。
「さよなら、リンちゃん」
聞いただけで胸がキュッと締め付けられるような切ない響きを含んだ言葉に、私は何も返すことが出来ずただ意識の闇に沈んでいった。




