拾陸之漆 引っ越し開始
「これが、娘を嫁に出す母親の気持ちなんですね」
引っ越し当日、花ちゃんが突然そんな馬鹿なことを言い始めたので「なにを言ってるんですか?」と溜め息付きで呆れておいた。
「だから、旅立つ娘を見送る心境に浸っているんですよ」
平然と真顔で言いきった花ちゃんの心の強さに、ほんの少し羨ましさを感じたものの、言っていることがそもそもおかしいので「私は、花ちゃんの娘じゃないので!」と娘を強調してツッコむ。
「お姉ちゃんが本当は嬉しいけど、特別にお母さんって読んでも良いのよ」
花ちゃんはそんなことを言いながら私の体に腕を巻き付けて抱きしめてきた。
「ちょ、ちょっと、花ちゃん!?」
花ちゃんの腕から逃れようと、少し強めにもがいてみたものの、がっちりと抱きしめられてしまっていて、抜け出すことが出来ない。
「ほーら、ほら~。早く逃げないと敏感なところも触っちゃいますよ-」
とんでもないことを言い始めた花ちゃんから逃れるために全力を込めたのに、ホールドする腕は緩むこともなく全く抜け出せなかった。
「くぅ、し、仕方ないっ」
自分の身に迫る危機を前に、花ちゃんの腕から脱出する為の最終手段を使うことを即断した私は、封印のブレスレットに手を伸ばす。
能力を解放して、抜け出そうとしたそのタイミングで「花子、そこまでにしときなさい」と月子先生が強めの口調で介入してきた。
その一言で、花ちゃんの手が緩み、軽くつま先立ち状態だった私の足の裏全てが床に着地する。
私多少自由を取り戻したのを確認した月子先生は、溜め息を吐き出してから、直前よりも遙かに柔らかな口ぶりで「凛花さんが、追い詰められて、封印を解こうとしているじゃないか」と指摘した。
花ちゃんは私からゆっくりと離れながら「ちょっと調子に乗りすぎたみたいです、ごめんなさい。凛花ちゃん」と頭を下げる。
スキンシップの最中にちょっと過激な方向に暴走しがちなのは、花ちゃんの欠点ではあるものの、その源泉は好きという感情の暴走であって、悪意があるわけでも無いので、謝罪されてしまうと、追い打ちを掛ける気にはならなくなってしまった。
これまでヨルは一緒だったわけで、部屋が分かれるのに、寂しさのようなものを全く感じていないかと言われればそんなことは無い。
私もそれほど強くはないけど、名残惜しさのようなものはあるし、花ちゃんは、その気持ちが状況もあって暴走してしまったんだろうと簡単に想像が付いた。
私は情けない顔をしている花ちゃんに向かって「短い間でしたがお世話になりました。今度は花ちゃんが私の部屋に泊まりに来てください」と、感謝の気持ちを込めながら伝える。
そんな私の言葉に、花ちゃんは「い、いいんですか?」と声を震わせた。
「泊まっても良いですけど、暴走はしないでくださいね。出入り禁止にしちゃいますからね」
冗談交じりにそう告げると、何故か、軍人さんのように、額に斜めに下手を添えて敬礼をしながら、花ちゃんは「了解であります!」と声を張る。
その反応に呆れていると、月子先生が「さて、漫才が終わったら、さっさと荷物を運んでしまうぞ」と私の肩を叩いた。
卯木凛花としての荷物としてはそれほど多くはなく、花ちゃんの部屋から持っていくのは段ボール一箱で収まる程度の学用品くらいだ。
教科書類は、教室に置かせて貰っているのもあって、ノート類や筆記道具はランドセル一つで収まってしまう。
制服は三組あるものの、既に新しい部屋の方に持って行ってくれているらしく、これから着る夏服は未だ受け取っていないので、当然荷物には入ってなかった。
下着類や普段着の類いも、選択肢終わったものは、新しい部屋に舞花ちゃんたちが、洗濯室から運んでくれている。
というわけで、私はランドセルを背負い、荷物運びを買って出てくれた東雲先輩が、私の荷物の入った段ボールを持ってくれていた。
「東雲先輩、わざわざありがとうございます」
学生寮に続く廊下を歩きつつ感謝の気持ちを言葉にすると、東雲先輩は少し間を開けてから「なぁ」と口にする。
お礼に対する言葉が来るかなと思っていたのに、躊躇いを感じるような声色の言葉に、私の体は緊張で強張ってしまった。
「な、なんですか?」
上擦ってしまった自分の声が恥ずかしい。
けど、真摯な東雲先輩は、上擦ってしまった声を弄ったりはせず、落ち着いた声で「荷物は本当にこれだけなのか?」と心配そうに尋ねてきた。
「着替えとかは、舞花ちゃんたちが運んでくれてますし、教科書類は教室に……」
私がそう説明を始めたのを、師の0の目先輩は「そうじゃなくて」と珍しく遮る。
「え、えーと」
想定外の行動に戸惑っていると、東雲先輩は「その、聞かない方が良いかもしれないけど……家から、なにも持ってきてないのか?」と聞いてきた。
そこでようやく私物が少なすぎることを気にしてくれているんだと気付いて、胸がじんわりと温かくなる。
ただ、そもそも、ここに来るまで……新学期が始まる数日前まで、この世界に存在していなかった卯木凛花に、私物があるわけも無く、どう答えたものかと悩むことになってしまった。
その結果、私が黙り込んだことを言い難いとか言いたくないのだと判断したであろう東雲先輩に「住まない、無遠慮に」と謝られてしまう。
その申し訳なさそうな口ぶりに、私はともかくすぐに何か言わなければと思い、気付いた時には浮かんだままを声に出して必死に訴えていた。
「きゅ、きゅ、急に、ここに来たから、その、荷物を持って来れて無くて、こ、これから皆と、思い出の品を増やしていこうと思ってます!」




