漆之弐拾玖 緋馬織
「穢れ」
口に出してみるた瞬間、脳裏に浮かんだのはあの黒いモヤだった。
そして、私が心当たりに突き当たったことを察したのであろう。
月子教授は「空に舞い上がった時、墜落寸前に見たのだろう?」と問うてきた。
私は、ヤッパリと思いつつ、ゆっくりと頷く。
「君も怪談話の一つや二つは聞いたことがあると思うが、人を死に誘う悪霊なんてでてきたりするだろう? いわゆるそれだ」
そう言われて、霊に取り憑かれて段々とおかしくなって最後は飛び降りてしまった人の話を思い出した。
自分で気持ちをコントロールできなかった直後だけに、思い浮かべた怪談が実話に思えてくる。
ゾクリと身体が震えたところで、一つ疑問が浮かんだ。
「なんで、そんなものが?」
浮かんだ疑問を口にした私に、月子教授は「球魂……神格姿が好物だからだよ」と言う。
「え?」
「メカニズムを完璧に解析できているわけではないが、あの『穢れ』は神格姿を喰う」
「く、くう!?」
「正確には同化する。あるいは浸食すると言った方が良いかもしれないが、本来の神格姿の持ち主は意識ごと『陰れ』に乗っ取られる」
思わず飛び出そうになった悲鳴を、口に両手を重ねて押さえ込んだ。
「雪姉が即断で時間を巻き戻したのは、穢れに接した事実を強引に消し去ろうとしたからだ」
緋馬織の責任者であり、東雲先輩の腕が飛んだ時ですら冷静に対処していた雪子学校長が『即断』する程の危険が迫っていたことに、身体が恐ろしさで震える。
「『穢れ』の危険性ばかり説明してしまったが、この学校の内側は安全だから、安心してくれて良い」
「なぜですか?」
根拠が欲しくてそう尋ねた私に、月子教授は「結界が張ってあるからだよ」と上に視線を向けた。
「結界」
その言葉で頭に蘇ったのは黒いモヤを阻むような透明な壁の存在である。
同時に『穢れ』を阻む結界を超えてしまったから、触れられたのだという事実に気付いた。
「君は、緋馬織という地名に疑問を感じないかい?」
唐突にも思える月子教授の問い掛けに、私は視線を向けることしか出来なかった。
そんな私に月子教授は「順番がおかしいだろう?」と言う。
順番? おかしい?
急に言われたこともあって、頭が上手く回らない。
けど、効率を重んじる月子教授は何のヒントもなく、問い掛けをしたりしない人だ。
思考経路は意味不明でも、指導者としての能力は高いのが月子教授である。
そう考えた時、ピタリとパズルの最後のピースが嵌まるような閃きがあった。
「順番が逆……織物の名前が地名になってる」
そう織物に地名が付くことは一般的だが、織物の名前から地名が付くことは、私が知る限り存在しない。
なぜなら、その地域の特産品だからこそ、その地域の名前が織物に付くのであって、織物が有名になってから、その名を冠した地域が出来るなんて、まずありえないのだ。
だが、もしも普通の地名の成り立ちに逆らって、織物の産地に織物の名前から名前が付いたのだとしたら、そこにあった地域には名前がなかったか、あるいはと思った答えを口にする。
「……別の名前が」
私の考えに対して月子教授は肯定するように軽く頷いた。
「まあ、正しくは別の名前ではなく、音は現在と同じ『ヒメオリ』だ……ただ字が違う」
地名に当てられた漢字が変わるのは、良くある話である。
誤字、簡易な字への変化、験担ぎ、その理由は様々だが『緋馬織』はどうかと考えて、浮かんだ想定を口にした。
「由来を隠す……ですか?」
私の言葉に対して、月子教授は頷きつつ「姫君を囚える檻、略して『姫檻』」と呟くような声で言う。
「……姫君の檻」
「姫君とは『神格姿』を持つ者のことだ」
「秘密……秘めるってこと……ですか?」
私の言葉に月子教授は「良い考察だ」と頷いた。
「もちろん、その意味もあるが、むしろ『神格姿』の獲得者の共通点に由来している」
そう言われて、私は自分の身に起きた事……『神格姿』を得た代償について思い出す。
「……女性になる」
「そう。『神格姿』の獲得者は子供を除いて女性となる、つまり『姫』だ」
月子教授の結論を聞いて、私はその先について尋ねた。
「じゃあ、緋馬織は、姫を閉じ込める場所だったということですか?」
「……檻だからね。当然そういう意味もある」
含みのある返しに、私は答えを求めて「そういう意味も?」と踏み込む。
月子教授はそれに対して、小さく頷き、説明を加えてくれた。
「檻というのは、確かに、何かを閉じ込めて置く場所だ……が、状況によっては侵入者を阻む壁にもなる」
それを聞いて、ああと思う。
私は「結界」と思い至った単語を呟き、月子教授は小さく何度も頷きながら言葉を補足した。
「そう……ここ緋馬織は、姫を閉じ込めておく地であると同時に『穢れ』から姫を守るために隔離する土地でもある」
そこで一拍置いてから、月子教授は「そして、姫とは、神世界に立ち入ることを許された『巫女』ではないかと考えている」と続ける。
神世界への入り口である黒い鳥居、巫女、この国に根付く神道に関わる言葉が揃ったことで、私はそこに意図のようなものを感じざるを得なかった。




