漆之弐拾漆 システム
「凛花さん、状況が状況だけに、難しいかも知れないが、現状が自分のぜいだと自分を追い詰めないように」
私を気遣ってくれているのだろう月子教授の言葉が、思いの外、深く広く響いた。
そのせいで思わず動きを止めてしまった私に向かって、月子教授の手が伸びてくる。
何が起こるのかわからず固まり続けていると、私に伸ばされた月子教授の手は柔らかな手つきで頭を撫で始めた。
「え、えぇ!?」
「どうしたんだね。素っ頓狂な声を上げて?」
おかしなものを見るような目を向けられて、私は思わず「だ、だって、月子教授が頭を撫でてるんですよ!?」と心中をそのまま声に出す。
月子教授は「私も可愛い生徒を慰めてやろうという気持ちはあるのだよ?」と、まったく感情の起伏を感じない淡々とした口調で言われ、自然と苦笑してしまった。
「……ふむ」
何かを察したような重みのある月子教授の声に、聞くべきじゃないかも知れないと思いつつも、気になって「今度は何ですか?」と尋ねる。
「男性に頭を撫でられると、女性はホッとすると聞いたのだが、女児では効果がないのかと思ってね」
いろいろツッコみたくなる単語のオンパレードに、私は大きな溜め息が出るのを抑えられなかった。
月子教授の行動は何所までが天然で、どこからが計算なのかわからないが、雪子教授を昏睡状態に追い込んでしまった負い目からの後ろめたさは少し和らいだ気がする。
だから、きっとこのとぼけた会話もそういう事なのだろうと思うと、私の口は勝手に「ありがとうございます」と感謝の言葉を発していた。
すると、私の頭に置かれたままだった手が、身体が揺れる程、強めに撫でてくる。
「ちょ、月子教授、何をするんですか!?」
私の抗議に対して、月子教授は「凛花……じゃないな、卯木くん」と私の名前を呼び直した。
「ここからの私は、雪姉だ」
そう口にした瞬間、月子教授の姿は林田京一から、雪子学校長へと変わる。
「わかりました」
そう答えて、私は雪子学校長へと変わった月子教授に向かって大きく頷いた。
「加わって間がない君と同様に、私や花子のようにここに長く関わっている者でさえ、自らの能力の限界や原理を完全に把握できているわけじゃないんだ」
雪子学校長として、私に説明をしながら月子教授は教室への廊下を先導してくれていた。
「まあ、自分の能力に関しては、皆、ある程度、感覚的に理解できてはいるがね」
「その感じは私もわかります」
私の返答に、月子教授は軽く頷いてから、ピタリと足を止める。
「つ……雪子学校長?」
「ここからはオフレコで頼む」
こちらに振り返ることなく、少し低めの声でそう言われた私は、戸惑いながらも「わかりました」と同意を示した。
「まず、はっきり言うと、君のために能力を使ったのは、君が墜落したからじゃない」
その言葉に、喉元まで出掛かった『ではなぜ?』の一言を飲み込む。
待っていれば聞けるだろうし、何より月子教授の話の流れを邪魔したくなかった。
「君は空の上で、何かに出会ったのを覚えているかね」
ゾクリと背中が寒くなる。
月子教授の言葉で、思い出しただけなのに、私の身体は小刻みに震えだした。
アレはとても恐ろしいものだったのだと、懸命に訴えているのだと思うと、余計に身体が冷える。
「大丈夫だ」
月子教授は力強くそう言うと震える私の手を強く握ってくれた。
じわりと私の手を包み込んだ月子教授の手から伝わってくる熱が心地良い。
「あ、ありがとう……ございます」
未だ震えは残っているものの、少し緊張が緩んだので、月子教授にお礼の言葉を伝えた。
すると、月子教授は「あれはこの場所から、勝手に抜け出そうとするものを留まらせるための道具のようなものだ」と、目を私と合わせて柔らかな口調で言う。
「道具……ですか?」
「古くから道具の効果と私は聞いているので『道具』と称してしまったが、実際の動きからいえば、システムという言葉の方が的確かも知れない」
「……システム」
頭が回ってないせいか、聞いた者をそのまま繰り返してしまった。
だが、月子教授は特に気にした素振りを見せない。
そのまま私をじっと見詰めていた月子教授は、唐突に「脱走者を捕らえ……いや抹殺するシステムだ」と言放った。
「は?」
月子教授が何を言ったのか、うまく理解できない。
いや、わかる、わかるのだが、あまりに物騒な内容だったので、心が飲み込むのを拒絶していた。
それでも聞かなければいけないことがある。
心のどこかで、私の聞き間違いであって欲しいと願いながら、月子教授に問うた。
「抹殺……殺してしまうと言うこと……ですか?」
「……そう、だ」
深く頷いた月子教授の反応に、私は唐突に理解する。
なぜ、雪子学校長が『私』でなく『時間』を巻き戻したのか、答えは簡単だった。
「……私、死んでいたんですか?」
声に出すだけで意識が遠のく言葉に、月子教授は「いや」と首を左右に振る。
月子教授は、その後、私から視線を逸らした上で「だが……」と言葉を続けた。
「限りなく、危険な状況だった」




