漆之弐拾伍 現状
時間を巻き戻すなんて、あり得ない話だ。
この学校に来て『神格姿』や『神世界』を知った今だからこそ、あり得るかも知れないと思える範疇の話である。
つまりは常識的に言えばあり得ないことが引き起こされたのだ。
その代償が命に関わることだとしてもおかしくはない。
だからこそ、私は最悪も覚悟に入れて月子教授の言葉を待った。
一秒、二秒、時が進めば進む程に、私の中の不安は膨れ上がっていく。
出来れば聞きたくないとさえ思ってしまう程に、答えを待つこの時が、長く、重く、辛く、何よりも怖かった。
そんな待ちの時間は一体どれほど続いたのか、一瞬のようにも、長時間のようにも思える時を挟んで、月子教授は、重々しく口を開く。
「時間を巻き戻すということは、身体の時間を巻き戻すのとは、雪姉が支払う代償の桁が違う」
「……はい」
予測通りの言葉だったし、当たり前だと思える言葉ではあったが、頷くのに……私がそれを事実として受け止めるのに、想像以上に時間が掛かってしまった。
その間私の気持ちの整理を待ってくれていたのだろう。
月子教授は私をじっと見詰めたまま、身動き一つ見せなかった。
秒か、分か、大きく息を吐き出して気持ちを落ち着けた私は、続きの情報を求めた。
「雪子学校長の支払う代償は……?」
私の問い掛けに、答えるのを躊躇ったのか、月子教授にしては珍しく、沈黙が続く。
そして、ゆっくりと開かれた口から、答えが齎された。
「いくつかある。一つは自身の年齢。自分が年を取る代わりに、対象を若返らせる……肉体の年齢を巻き戻す」
「はい」
これは目にしているし、実際『放禍護』の前後でその変化を目撃している。
「二つ目は体力……もしかしたら、生命力なのかも知れない」
「せい……めい……」
愕然とした。
生命力……命……話の流れから考えれば、対象を若返らせるのが自分の年齢なら、空間の時間そのものを巻き戻す代償はこちらだろう。
そこまで思考を巡らせたところで、頭が白く塗りつぶされていくような感覚を覚えた。
月子教授に動きはない……ならば、私の身体が現実逃避をしようとした結果だと思う。
身体は私の心を護るために、そんな働きを見せている……安全装置が働いた結果だと予測は付いたが、私は強く頭を振って、思考を奪おうとする『白』を追い払った。
恐らく雪子学校長は、私を助けるために、命を懸けてくれた……ならば、私はその気持ちや思いに応えるためにも、現実逃避なんてしている場合じゃない。
そう思って唇を強く噛んで、自分の意思を無理矢理奮い立たせた。
身体が小刻みに震えるのを自覚しながら、私は月子教授に尋ねる。
「……それで、雪子学校長は、無事なんですよね?」
語尾が『ですか?』ではなく『ですよね?』になってしまったのは、単純に答えの方向性を絞りたかったからだ。
はっきりと『Yes』か『No』で答えて欲しい。
そんな思いを込めた問い掛けだったが、月子教授は答えをくれなかった。
代わりに踵を返して、私に「教室に戻る前に雪姉のところに寄ろう」と言って、月子教授は歩き出す。
状況を素早く頭で処理できず、立ち尽くしてしまったせいで、私が追い掛けなければと自分の取るべき行動を導き出した時には、月子教授はかなり先に進んでしまっていた。
私は月子教授に置いて行かれないよう慌てて走り出した。
同様のせいか、足がもつれて転びそうになる。
それでもどうにか耐えて、月子教授のすぐ後ろまで追いつけた。
月子教授の後について辿り着いたのは、学校長室だった。
コンコンと学校長室のドアをノックした月子教授は、間を置かずに「失礼します」と口にしながらノブを回す。
返事がないのをわかっていたからだろう、月子教授はドアを開け、そのまま迷いなく入室していった。
学校長室に入って数歩、こちらを振り返ったので、私は頷いてから学校長室の中に足を踏み入れる。
こちらを見ていた月子教授が、私から僅かに後ろの扉に視線を移したので、私は意図を汲んで入ってきたばかりのドアを閉めた。
「こっちです」
いつも以上に抑揚がなく聞こえる月子教授の声に身体が震える。
もう間もなく雪子教授の現状を知ることが出来るが、少なくとも今現在、返事が出来る状態では無いと言うことは確定した。
取り乱さないためにも、最悪を想定した方が良いなと思いながら月子教授の後に続く。
だが、最悪の状況とはないかを考えた時、私は身体から熱が抜けていくのを感じた。
寒い。
冬のように空気が冷たいわけじゃなく、私の中から熱が抜けていく感覚がして、寒いだけではなく怖さも感じられた。
理由は、私の頭が想像した『最悪』だ。
プールから姿を消さなければいけない状況で、自室で入室確認の返事も出来ない。
そんな状況の最悪など、一つしか思い浮かばなかった。
鼻の先にツンとした痛みを覚えた私は、慌てて腕を強く目を覆い隠すように顔にこすりつける。
ただただ、雪子教授が無事だと信じ……無事であって欲しいと祈りながら、少し歪んでしまった視界がクリアになるように、何度も何度もブラウスの袖で目に浮いた涙を拭き取った。
 




