漆之弐拾 バケツ
「バケツ……ですか?」
私の言葉に、真っ先に舞花さんが「水入りのね!」と胸を張った。
結花さんが肩を回しながら「結構重かったわ」と乾燥を口にする。
その後ろに眺めのホースと蛇口が見え、思わず頭に浮かんだ『運んでから水を入れれば良かったのでは?』という無粋な言葉は、一応飲み込んでおくことにした。
「コレを使って実験する……のよねぇ、雪ちゃん」
那美さんがおっとりとした仕草で雪子学校長に問い掛ける横で、志緒さんは息を荒くしている。
志緒さんが特段体力が無いのか、那美さんが想像以上に強靱なのか、判断に困るところだが、どっちも正解という可能性もあるのがなんとも言えなかった。
「うむ、三峯くんの言う通りだ」
雪子学校長の返答を聞いて、一瞬、三峯さんが誰だったかわからなかったが、話の流れから那美さんのことだと思い出す。
私がそんな余計なことを考えていると、雪子学校長の目が私を向いた。
「というわけで、卯木くん、このバケツに足を入れて貰えるかな?」
平然と言放たれた指示に、思わず私は呆然としてしまう。
雪子学校長は、そんな動きを止めた私を見て、説明を追加した。
「今からプールの上で、飛行実験をして貰うわけだが、その前段階として、水の上に浮けるのかを試すわけだ」
「もしバケツの上で浮かべないなら、確実に水没ですからね」
花子さんの補足に、私は思わずプールを見る。
今日の気温はそこまで低くは無いとはいえ、水は未だ冷たそうだ。
思わず肩を抱いて震えてしまう。
「大丈夫、リンちゃん」
私の様子に敏感に反応した舞花さんが心配そうな顔で私を見た。
「いや、水に落ちたら寒そうだなって想像しただけで……えっと、雪子学校長、バケツの上に浮かべなかったら中止ですよね」
舞花さんに応えつつ、ダメだった場合の中止の了承を得るために、雪子学校著に話を振る。
「まあ、服で水に落ちた時の備えとして、着衣水泳は授業でやる予定だが……今では無いな」
「凄く回りくどい言い回しです、雪子学校長」
「はっはっは。少し妹の影響を受けたかも知れないね」
私の言葉に笑う雪子学校長だが、それが月子教授だと察しているのは私と花子さん本人くらいだ。
このままだと、雪子学校長の行動は花子さんの影響だと受け取られそうと思ったのだけど、皆はまるで気にしていない。
むしろ、私の実験の方に意識が向いているようだった。
「リンちゃん、無理だと思ったらすぐ辞めるのよ?」
結花さんの言葉を皮切りに、皆が言葉をくれる。
「舞花は、リンちゃんなら大丈夫だと思ってるよ!」
「そうねぇ~リンちゃんなら飛べないより、飛べる方がしっくりくるわねぇ~」
拳を握りしめてキラキラな目を向けてくる舞花さんに、にこやかに肯定してくれる那美さん、それに続いて声を掛けてくれたのは志緒さんだ。
「はぁ……も、もし、なにかあっても……はぁ、た、たすけますからね……」
未だ息が上がっている志緒さんが心配になって「む、むしろ、志緒さんの方が大丈夫ですか!?」と声を掛けてしまう。
すると、志緒さんは「面目ないです」と肩を落としてしまった。
私は慌てて志緒さんに声を掛ける。
「あ、志緒さん、た、頼りにしてますからね! 見ていてください、私の挑戦!」
「……リンちゃん」
私の言葉に反応して顔を上げてくれた志緒さんは、しばらくこちらを見詰めてから申し訳なさそうに呟いた。
「ご、ごめんね。これから挑戦するのは、リンちゃんなのに、気を遣わせちゃって」
「そこはいいの! 私が勝手に心配しただけだから、でも、これから挑戦するに当たって、志緒さんの元気が無いと……その、私が不安になるの」
支離滅裂かなと思いながら最後まで言い切ると、志緒さんは「う、うん」と頷く。
それから、私の方を見て「これから実験するんだもんね、応援してるよ、リンちゃん!」と志緒さんは言ってくれた。
志緒さんの表情が明るくなったことに安堵して、私は皆に「じゃあ、試しますね!」と宣言する。
皆が頷いたのを確認してから、二つ並べられたバケツの前に立った私は、その中をのぞき込んで水が満たされていることを再確認した。
それから足を上げて、右足からバケツの中に足を踏み出す。
が、水に足が入る感触を予想していたのに、足は空中で止まった。
水面に触れてもいない。
おそらくだけど、水面から足裏までの距離は、翼が出現してから生まれた地面と私の足の距離と変わらなそうだ。
そんなことを思っていると雪子学校長が、私のバケツを挟んだ正面にしゃがみ込んで、水面と右足の裏の間を観察し始める。
下から覗かれるアングルなのが、少し落ち着かないが、雪子学校長の顔が真剣そのものだったので、私は黙って観察が終わるのを待った。
ややあって立ち上がった雪子学校長は「恐らく、今の翼のある卯木くんにとって、地面も水面も足場になっているんだろう」と結論を口にする。
その後で雪子学校長は、私に手を差し出すと「それじゃあ、少し怖いかも知れないが、左足も試して貰えるかね?」と尋ねた。




