漆之拾 遭遇
音……そう、床が軋む音がしなければいいんだ。
二歩目を進めたところで、その真実に気が付いた私は、どうすれば音がしないかを考える。
音が鳴るのは古い木の床を踏むからで、音を立てないにはどうするか、その答えは実に簡単だった。
踏んで音がするなら、踏まなければ良い。
その答えに辿り着いた瞬間、長年の難問を解いたような、もの凄い達成感と高揚感が私の中に沸き起こった。
単純に、この考えはいけると思って、私は三歩目を踏み出す。
少し浮いていれば大丈夫と思いながら足を床に付こうとした瞬間、ムニュッと何かを踏む感覚が足の裏に広がった。
床板は音を立てていない。
私の考えた作戦が成功したのかを確かめるために、少しつま先に力を込めてみるが、堅めのグミのような感触の何かがあるだけで、やはり床板が鳴ることは無かった。
何で成功しているのかはわからないけど、音を立てないという目標がどの程度成功しているのか確かめるために、今度は思い切って足全体に体重を乗せてみる。
すると、妙なことに、全体重を掛けたはずの右足の裏から、何かを踏みつけている感覚が消えた。
それどころか、足裏だけじゃ無く、膝にも股関節にも体重がのっている感覚がしない。
どういうことだろうと思いながら、少し上げていた左足を降ろしたが、どちらの足にも重みを感じなかった。
状況を確認しようと足に視線を向けようとした瞬間、何かが視界に入る。
真っ直ぐと伸びた両足を視界にいられたものの、私の意識は直前の違和感に引っ張られて確認に集中出来なくなってしまった。
ここには私しかいないし、何か変なことが起これば、すぐに雪子学校長達が気付いてくれるはずと、心の中で自分に言い聞かせる。
頭の中で『確認しなきゃ駄目』だと、自分に言い聞かせるように繰り返して覚悟を決めた。
「大丈夫、きっと見間違い」
少し大きめな独り言を口にしながら、視線を上げるとそこには何も無かった。
ホッと目を閉じて安堵の息を吐き出す。
直後、何かが私のそばを通った気配がした。
安堵したからとはいえ、目を閉じてしまった直前の自分を呪いながら、私はゆっくりと目を開ける。
「ひっ!!」
目の前にあった光る球体に、思わず声が出て、身体が硬直した感触があったにも拘わらず、視界に急激な変化が起こった。
グンッと後ろに引っ張られるような感触がした直後、私の身体は教室の入り口近くまで移動する。
もの凄い速度が出たのにも拘わらず、転倒しなかったのは幸いだった。
目の前の光の球が何か、敵対的なモノなら近くにいて良いことなど無い。
何がどうしてそうなっている科よりも、目の前の何かを見極めるのが先だと、私は余計な考えを全て捨てた。
未だに神世界のことがよくわかっていない以上、全力で向き合わないと失敗しかねない。
幸いなことに、私の視界を通じて、雪子学校長達にも現状は伝わっているはずなので、不意打ちされなければ、切り抜けられる可能性は高いはずだ。
そう信じて……いや、そう思い込みながら、球体の動向を見守ったが、そこからしばらく動く気配を見せない。
雪子学校長達も駆けつけてくる気配も無かった。
「もしかして……」
危険なモノじゃ無いのだろうかと考えた時、球体に重なるように舞花さんの姿がほんの一瞬だけ浮かび上がる。
直後、それが何かわかった気がした。
「舞花さん……の、球魂?」
半信半疑で思い付いた考えを元に、目の前の球体の正体についての予測を口にすると、球体は宙に円を描く。
「あ、正解って事かな?」
またも舞花さんと思しき球魂が円を描いたことで、私はようやく緊張解くことが出来た。
そんな私に、ふよふよと近づいてきた舞花さんの球魂は、何かを訴えるかのように、その場で少し激し目に動き出す。
何かを訴えているのは様子でわかるのだけど、私に言いたいことがわからなかった。
そのままアピールを続けて貰っても、私には理解出来ないので、素直に事実を告げることに決める。
「あの、舞花さん」
私が声を掛けると、舞花さんと思しき球魂はピタリと動きを止めた。
「何か話しかけてくれているのはわかるのだけど、何を話してくれているのか、わからないの、ごめんね」
私が申し訳ない気持ちを込めてそう告げると、舞花さんらしき球魂は少し間を置いたところで、くるりと宙に円を描く。
「伝わった……のかな」
私の言葉に、舞花さんの球魂はもう一度円を描くと、今度はふよふよとはさみの置かれた中央部へと移動を始めた。
そのままどこに行くのだろうと動きを見詰めていると、はさみの上を通り過ぎて暗幕にツッコんでいく。
「あっ」
球魂が暗幕にぶつかってしまうと思い、慌てて窓へと急いだのだけど、球魂は何も無いかのようにスゥッと透過した。
そのまま暗幕の向こう側に姿を消したらしい球魂を追って窓に近づいた私は、急いで暗幕とカーテンを撥ね除ける。
慌てて確認した閉め切られた窓の向こう側、校舎と舞花さん達の自室がある学生寮の間の空に、ゆっくりと飛んでいく球魂の姿を見つけて、私はホッと胸を撫で下ろした。




