伍之拾肆 湯あたり
「とりあえず、熱が出ているわけじゃなさそうですから、お風呂に浸かって体をほぐしましょう」
確か、花子さんにそんなことを言われた。
それからの記憶は曖昧で、私はいつの間にか湯船に浸かっている。
なのに、私の体は熱を感じていなかった。
温かいと頭ではわかっているのに、熱を直接感じているはずの体の方が温かいと認識していない。
お湯の中に体が浸かってるのを示す水の抵抗は細かく感じているのに、温度に関することだけが抜け落ちているようだった。
「大丈夫、ですか?」
自分の感覚に思考が追いつかず呆然としていた私に、心配そうな声で花子さんが話しかけてくれた。
けど、私はそれに対して上手く答えられない。
何がそうさせているのか、何故こうなっているのかはっきりと自分でもわかっていないせいで、返事すらも思い付かなかった。
ぱしゃ、ちゃぽ、と水音がして、私の肩に花子さんの手が乗る。
瞬間、私の意思とは関係なく、体が大きく震えた。
すると、花子さんの手がすぐに私の肩から離れていく。
拒絶するつもりは無かったので、私は慌てて否定の言葉を口にしようとしたモノの、言葉は途中でつっかえてしまった。
「ちが……」
上手く言葉を発せられなくて、焦る私に対して、花子さんは柔らかく笑う。
それから、ゆっくりとした動きで、花子さんは私の頭の上に手を乗せた。
「大丈夫ですよ。気持ちと関係なく体が動いてしまっているんでしょう?」
花子さんのその言葉を聞いた瞬間、わかって貰えたという強い感動が私の中に芽生える。
ゆっくりと優しい手つきで頭を撫でてくれる花子さんのてが嬉しく思えて、気付けばホッと息を吐き出していた。
「ありがとう……ございます」
「それよりも、大丈夫ですか? 少し頬が赤いですけど……」
花子さんの言葉で、私はようやく自分の体が熱を帯びていることに気付く。
急に戻ってきた温度に関する感覚に私は戸惑った。
なにしろ、逆上せてしまっているかも知れないと感じる程、体に熱が籠もっている。
「……お風呂に浸かって大分……経って……ましたか?」
私の質問に対して「そうですね」と返した花子さんは、私の肩と膝裏に手を回した。
「上がりましょうか?」
言うなり私の体がジャバジャバと水をかき分けて、お湯の外へと花子さんによって持ち上げられる。
どうやら逆上せているかも知れないという認識は正しかったらしく、抱き上げられた体に上手く力を入れることが出来なかった。
脱衣場に設置された竹製のベンチに横たわる私の顔をのぞき込みながら、雪子学校長は「大丈夫かね?」と声を掛けてくれた。
「らい……」
大丈夫と答えようとしたのに、声があまりにも掠れていたので、私は途中で頷きに切り替える。
「慌てて飲まないように」
そう言って、雪子学校長は口元にストローを近づけてきた。
ストローの先は雪子学校長の手にしたコップに入った透明な液体に浸かっている。
「薄めたスポーツドリンクだ。塩分と甘みが多少入っているよ」
雪子学校長の説明に頷いてから、ストローを口に含んだ。
そのまま吸い込めば、ストローを伝って、口の中に液体が入り込んでくる。
喉を伝っていく水分は、熱くも冷たくも無く、熱を帯びた体にしみていった。
飲み物を飲ませて貰ってからしばらく横になっていた私が体を起こすと、ずっと横にいてくれた雪子学校長は「多少は落ち着いたかね?」と首を傾げた。
「少し頭が……痛い、かも?」
雪子学校長に隠し事をしても良いことにはなら無そうなので、素直に感じたままを伝える。
「花子に鎮痛成分のある市販薬を貰って今日は休むと良い。体調が悪化するようなら、病院だね」
雪子学校長の言葉に頷こうとしたところで、私は「病院ですか!?」と思わず声を荒げてしまった。
「そんなに驚くことじゃないだろう?」
苦笑する雪子学校長に対して、私は「でも、体……えっと、保険とか……」と声を荒げた理由を言葉にする。
思考が回ってないせいで文章では無く、単語の羅列になってしまったが、どうにか伝わったようで、雪子学校長は「なるほど。そこが気になるか」と笑みを浮かべた。
「安心したまえ。林田京一とは別の戸籍も健康保険証も用意してある」
「え、そ、そう……なんです……ね」
「ここは国の直轄だからね。それに、性別年齢が変わった例は、君が最初というわけじゃ無い。対策もマニュアル化されているというわけだよ」
「な、なるほど」
私が頷いたのを確認した上で、雪子学校長は「ともかく休みたまえ。君は君自身が想像しているよりも繊細になっている。体も精神もね」と口にする。
少し前なら、そう言われても、体が変わっただけだと流していたかも知れないが、雪子学校長の言葉はとても強く心に響いた。
ともかく今自分のすべき事は休むことだと判断した私は「今日は休むことにします」と伝える。
「花子は時々やり過ぎることはあるが、君たちを愛するが故の暴走だ。相手が弱っていれば、流石に自制出来る……なので、安心して花子に頼りなさい」
雪子学校長の言葉に、思わず苦笑してしまった。
けど、雪子学校長の言った言葉は私の認識と同じである。
なので、素直に『はい』と答えようと思ったのだが、雪子学校長が急に放り込んできた爆弾によって阻まれた。
「私が良ければ、私を選んでくれても構わないぞ」
思わず目が丸くなってしまう。
直後、思考が回り、頬が熱くなると同時に私は訳がわからないまま、羞恥心に押されて叫んでいた。
「は、花子さんのお世話になります!」




